ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

司馬懿の編集履歴

2012-12-19 18:36:23 バージョン

司馬懿

しばい

姓「司馬」名「懿」(字「仲達」)。三国志演義後半の主役の一人で諸葛孔明最大のライバル。 魏の曹家四代(曹操・曹丕・曹叡・曹芳)に仕えていた。

司馬懿とは


来歴

姓「司馬」名「懿」(字「仲達」)。三国志演義後半の主役の一人で諸葛孔明最大のライバル。

魏の曹操に仕えていたが、

曹操は晋書によると「人に仕える男ではない」と重用しなかったようだ。

出仕の時の逸話に関しては魏略と晋書で内容が全く異なっている。

彼亡き後、曹丕に取り立てられ出世。曹叡の時代には曹真から軍権を引き継ぎ、北伐と言う名の孔明の侵略から国を守りきった。

その後政局の腐敗に陥った魏を立て直すため、クーデターを起こして政権を奪った。

横山光輝三国志において「孔明の罠」という名文句を生み出したことで有名。

「死せる孔明、生ける仲達を走らす」ということわざにもなったが、仲達本人は「生きてる人間の腹なら読めようもあるが死んでる人間の腹は読みようがないじゃないか。笑いたい奴には笑わせておけって!」と豪快に許したとか。

逆に言えば孔明をもってしても仲達を完全に打ち破ることはできなかったのである。

余談だが中国のトランプでは孔明と一緒に仲達がジョーカーの役となっている。

なお、孔明の北伐に対する方策から持久戦を得意とする印象があるが、実際のところは後述のように奇襲戦を得意としていた。


概要

孔明の北伐に対する方策(及びそれを基にした演義の描写)から持久戦が得意というイメージが強いが、むしろ電撃戦を得意としていたようである(これは魏という国全体の特色でもあるのだが)。


実際、第一次北伐の際には孔明に呼応して反乱を起こした孟達の拠点、上庸まで通常一ヶ月はかかるところをわずか八日で進軍。敵の足並みがそろわぬうちに反乱を素早く鎮圧して孔明の計算を大きく狂わせた(ただし、この時に北伐に直接相対したのは曹真である。司馬懿が関わるのは演義のみ)。


どちらにしろ、北伐に対する方策は「兵站の弱い蜀の事情」を突いた策であったし、そもそも魏の側の勝利条件は敵の殲滅でなく相手に勢力圏を築き上げさせないことである。

むしろ、これらの方策は蜀(諸葛亮)を最も望まぬ展開に引きずりこんだ彼の賢明さを称えるべきであろう。


北伐でのエピソード

長い持久戦に陥った五丈原の戦いに業を煮やした孔明は過激な挑発にでた。

ある時孔明は司馬懿の陣営に使者を送り、「大軍を率いておきながら立てこもったままとは臆病者め。そんなに閉じこもっていたいなら女人の服を着て家事でもしていろ」と言う内容の手紙と女性の服を送りつけた。

これには我慢強い司馬懿も頭に来たが、即座に思い直し「わざわざ敵陣にこんなもの命がけで持ってくるとは、あなたも大変だな」と丁重に使者をもてなして帰らせた。

司馬懿は持久戦の効果がこの挑発の形で現れたこと、孔明が切羽詰まっていることを冷静に解析したのである。

それを聴いた孔明は途方に暮れたという。


余談

「晋書」の記述によると、

妻(正室)に抗議の意味で断食されて謝った時に

「老婆の命を惜しんだのではない。息子が心配だった」と捨て台詞を言った。

もちろん本気の憎しみによる言葉であり、

「老物可憎(憎い老婆)何煩出也(なぜ出て来て煩わせるのか)」

と妻を罵倒する言葉も書かれているので愛情の裏返しではない。

忘れられがちであるが、側室の柏夫人を寵愛していたと記述されている。

そのため断食の逸話を事実とするならば、正室とは険悪な関係だったという意味の記述である。


詳しくは張春華の記事を参照のこと。


一部では恐妻家と信じる人もいるが、晋書にすらそのような記述は無く、完全なる誤解。

「重んじる」という意味の記述を質の悪い三国志本が誤訳し、

そこから三国志大戦の設定やインターネットなどで間違いが広まったのが原因のようだ。


また、晋書によると彼は首が180度後ろに回せるという特異体質の持ち主であった。

それをおもしろがった曹操がある時司馬懿を後ろからいきなり呼びつけた所、確かにぐるりと首が後ろに回ったのだが、改めて彼の顔を見た曹操は「こいつは見た目は従順そうだが根っこに野心を抱えているな」という印象を抱いたと言われている。


この晋書、信憑性が低いので晋書出典の逸話は創作かもしれない。

鵜呑みにしないように気をつけよう。


その後の活躍

諸葛孔明が死んだ後の司馬懿の活躍はあまり知られていないが、死ぬまでその辣腕ぶりは衰えなかった。

面白いエピソードとして遼東の地で反乱を起こした公孫淵討伐がある。

反乱鎮圧を命じられた司馬懿は時の皇帝・曹叡(曹丕の息子)に「反乱鎮圧はどのくらいかかるかね?それと公孫淵はどんな手を打ってくると思う?」と聴かれたところ、

「そうですね、行きに100日、帰るのに100日、戦闘に100日、兵士の休養に60日、

まぁ一年あれば片が付きますよ。

公孫淵がとる手段としたら、城を捨てて逃げるのが一番良く、遼水の地で戦うのが二番目、

真っ向勝負にでるのが一番駄目な手です。

公孫淵は城を捨てられるような男じゃないし、二番の策を取れるような頭は無いから、三番手に出るでしょうね」と答えた。


果たして結果は司馬懿の言った通りになり、公孫淵はボロ負けした挙げ句兵糧攻めにあい、降伏も許されず殺されることとなった(なお、電撃戦を得意とした司馬懿なのでフルボッコにした時点で勝てたかもしれないが、中央の政争に巻き込まれるのを避けて敢えて引き伸ばしたという見方もあったりする)。

ちなみに、この時の口上がまた凄い。

「貴様らはの故事を知らんのか?私も魏帝から列侯に封ぜられた身、王建(和睦の使者)ごときに『囲みを解け』『軍を退け』と指図されるいわれはない。王建は耄碌して主命を伝え損なったのだろう。次は若く頭の良い者をよこせ」(和睦の使者をその場で斬って一言)

「戦には五つの方法がある。戦う、それが出来なければ守る、それが出来なければ逃げる、それが出来なければ降る。そして、お前は降ろうとしなかった。ならば死ね、人質など無用」(人質を送って恭順を示すという文書に対して)

……見栄を張って降伏でなく和睦という普段を選んだ公孫淵がアレとは言え怖すぎる。敵に回したくない男である。

その後は仮病を使ったりボケ老人のふりをしたりと権謀術数をもって政敵の曹爽を打倒。魏の実権を掌握した。


臨終の際の息子たちへの言葉は「魏の臣としての節度を忘れず、仕えること(意訳)」であったという。

建前上なのか本音なのかまでは判然としないが、少なくとも彼自身はクーデターを起こしつつ、最期まで魏の臣として生きていたことだけは紛れもない事実である。

ただ、事実上実権を握ってたとは言え、形式的立場上はまだ魏の臣であり、蜀呉がまだ残ってるうちは反乱を匂わせる遺言は出来なかったであろうが。

これは彼を取り立てた曹操の立場と類似しており、死後に皇帝の座を禅譲させたのも同様(ただし曹操は子、司馬懿は孫)である。


真・三國無双の司馬懿

+ 司馬懿 +

CV:滝下毅

1から参戦。曹操に才能を見出され配下となった軍師。激情家で自尊心が高いが、

冷静な判断力も持っており、次代の覇権をねらう野心家でもある。(特に後者は5以降顕著になりつつある)

「馬鹿めが!!」「フハハハハノヽノヽノヽノ \ / \/ \」という異常な程の高笑いが有名。通称『笑い袋』 それと度々『凡愚』との言葉を使用する。

史実同様諸葛亮とはライバル同士。武器も同じくビームを出す羽扇。(1では剣、5では鉄糸)

「6」では所属勢力が魏から晋へと変更され「5」同様、息子らと共に魏に反乱する首謀者となり

(しかしストーリーによってはにそのまま仕えている)シリーズ中唯一所属勢力が移籍したキャラでもある。

曹丕に対しても信頼されてはいるが本人は表上従っているだけの事でしかなく

いずれは裏切るつもりでいる。しかし当の本人にはバレバレだったりする


「7」では正妻・張春華が参戦。鉄線は張春華に譲り、自身は新しく指揮官が使用していた「拂塵」を新しい武器として使用する。


無双OROCHIにて、戦国の伊達政宗と一緒になる事が多い。

政宗自身も初登場時すら『馬鹿め!』と叫んでいるためか。


政宗に馬鹿めと言われ、「馬鹿めとは…馬鹿め!」と返したり

下邳の戦いでは、共演したりしている。

2の広宗の戦いでは、司馬懿・政宗合わせて10回以上、『馬鹿め!』と言う。

(最近の司馬懿は「馬鹿め!」より『馬鹿めが!』の方が多い。)


ちなみに、司馬懿の話だが、上記の広宗の戦いは、箱に入った娘を探すシナリオである。

その正体は「ガラシャ」。と言うことは、つまり……


関連タグ

三国志 真・三國無双  曹操 曹丕  司馬師 司馬昭 ライバル諸葛亮


伊達政宗(戦国無双) ガラシャ

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました