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ハイドンの編集履歴

2013-08-20 20:14:33 バージョン

ハイドン

はいどん

弦楽四重奏曲の父、交響曲の基本を完成した大家

日本人でモーツァルトよりハイドンが好きだという人は100人に1人くらいだろう。よってハイドンの実像はあまり理解されていない。クラシックガイドを書く学者ですら、「1791年に亡くなったモーツァルトが1795年作曲のハイドンの交響曲「時計」の第1楽章に感銘を受けて、弦楽四重奏曲「狩り」を・・・」などと平気で間違った論評をしてしまうほどだ。

 ハイドンの最高傑作は何だろう?おそらく弦楽四重奏曲作品76のグループ(1797年)の「5度」の第1楽章と第3楽章、「皇帝」の3つの楽章、「日の出」の全部の楽章、「ラルゴ」の前の3つの楽章、だと思う。それに第2ザロモンセット(1794年~1795年)の「時計」「軍隊」「太鼓連打」「ロンドン」が続く感じだろうか。ちなみに弦楽四重奏曲の「騎士」(1795年?)の両端楽章も70間近の老人というよりは、弟子だった若きベートーベンみたいな華やかさを感じさせてくれる

 オラトリオ「四季」とか上げる人もいるだろうが、四季は長時間の大作で・・・とか思うだろうが、対位法的には後退をしている。対位法とは異なる同時音型の合奏がハイドンの晩年の好みだからだ。

ハイドンはインスピレーションが働いた時に一気呵成に完成させた曲はすばらしい。無名の曲の代表として、交響曲第52番ハ短調を聴いてみて欲しい。この曲がモーツァルトの小ト短調交響曲(第25番)に与えた影響は計り知れないと思われる。

 では、ハイドンの交響曲は全てすばらしい完成度を誇るのだろうか?答えはNOである。ハイドンは作曲家というよりはむしろプロデューサーだったのだ。(1790年のエステルハージ時代まで)いかに楽員たちに効率的に仕事をしてもらうかを最優先していたため、例えば「うん、フィナーレはこんなもんでいいだろう」と手抜きをするのが常だったのだ。彼の交響曲と弦楽四重奏曲も第1楽章は名曲ぞろいだが、フィナーレは手抜きが散見されることが多いのだ。名作「ラルゴ」もフィナーレになると残念ウサギな感じになってしまうのだ。この手抜きによって「とても残念な結果だ」という感想が多く出ていたため、古典派の大家とはいえ、モーツァルトやベートーベンほどにマエストロと言われることはない。

 〈ハイドンとモーツァルト〉ハイドンは1732年生まれでモーツァルトよりも24歳年上だった。二人はライバルというよりは固い絆の友人だった。1791年モーツァルトの亡くなる数ヶ月前に、ザロモンの招きでロンドン行きが決定し、ハイドンの壮行会が行われたという。モーツァルトはパリにすら出たことのない高齢のハイドンの身を案じ、ロンドン行きを反対するほどだった。そして、最後に「パパハイドン!行かないで!もう会えないかもしれない・・・」といって抱きついて泣きじゃくっていたと伝えられている。

 ハイドンはモーツァルトを世界一の作曲家として手放しに褒め、モーツァルトの作り上げた世界を尊重するために、自分の不得手とするピアノ協奏曲とオペラから手を引いてしまったのである。モーツァルトは自分こそ世界一と自負しながらも、自分とは異質のハイドンの稀代の個性に惹かれ、彼の音楽を尊敬していた。弦楽四重奏曲が苦手だったモーツァルトも、1781年のハイドンのロシア四重奏曲にインスピレーションを得て、いわゆる力作ハイドンセットを作曲している。モーツァルトは「弦楽四重奏曲の作曲の仕方や発想がやっとわかりました」といってハイドンを尊敬している。

 ハイドンは職人気質のような頑固なプライドを持つ反面、社交家で、場の雰囲気を楽しく盛り上げるよき人柄であった。70歳の誕生会で、今日では無名のモーツァルト2世が父親のピアノ協奏曲を弾いた時も、2流でありながら、涙を流して感激してみせたという。モーツァルトは逆に2流で自分の感性に合わない音楽家には、アカギがニセアカギに「凡夫だ」とか「なるほど2流だ」と言い放ったように、酷評し受け入れかった。映画「アマデウス」でもバイオリン?の大家ブルッフを2流呼ばわりしている場面がある。ベートーベンがそのピアニズムを尊重していたクレメンティに対してさえ「偽物の音楽、ペテン師」などと酷評していたのである。

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