咸豊帝
(かんぽうてい)
世没:1831年7月17日 - 1861年8月22日〈30歳〉
在位:1850年3月9日 - 1861年8月22日〈11年〉
中国清朝の第9代皇帝。諱は奕詝。廟号は文宗。在世時の元号の咸豊を取って咸豊帝と呼ばれる。道光帝崩御後19歳で皇帝に即位した咸豊元年の1851に太平天国の乱鎮圧のため兵を派遣したがたびたび敗北し、1853年に曾国藩ら漢族の郷紳を起用して団練を編成させ蕭順らを任用して財政を改革させた。
1856年に英仏がアロー戦争を仕掛けると対外妥協的態度を取った、1858年に頤和園が消失し1860年には第二次アヘン戦争で英仏の軍隊により円明園が破壊された。その後露との間にアイグン条約を結び英仏米露との間にそれぞれ天津条約を結んだ同年に英仏軍が北京に侵攻したため咸豊帝は熱河に逃れる。弟の恭親王奕訢に京師の留守を任せて英仏と折衝させ北京条約を結ばせた、1861年に旅行先の熱河の行宮で梅毒のため崩御。享年30歳
暴君・京劇狂い
咸豊帝は即位当初は熱心に政務を行おうとした。だが内憂外患の多難な時代の中思うようにいかない政治にやがて背を向け享楽・道楽に走る、この時代の皇帝および紫禁城政府は。八旗軍や緑営の指揮がろくにできないことが暴露した。この政治的荒廃に妃の西太后を躍進させることになる。咸豊帝は死の前日まで京劇に浸り、一日に5、6本の演目を上演させた記録が残っている
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ショタコン・・・京劇の俳優は美少年であったらしく、咸豊帝もはまってしまったようだ。