概要
衝突勢力
軍事介入時(2003年)
アメリカ・有志連合 | イラク |
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占領統治(2003年~2011年)
アメリカ・有志連合 | イラク |
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背景
1991年の湾岸戦争以来、アメリカとイラクとの関係は険悪な状態が続き、またイラクを治める軍事的・独裁的なサダム・フセイン政権も続いていた。
2001年9月11日、ニューヨークのWTCとバージニア州のペンタゴンを狙った同時多発テロが発生。アメリカのブッシュ政権は対テロ戦争を標榜し、アフガニスタンのタリバン政権に匿われているテロ組織「アルカイダ」による犯行を断定し、10月にアフガンに報復攻撃を開始し、12月にタリバン政府を崩壊させ民政へと移管させた。しかし、ブッシュ政権による対テロ戦争はここで終わることはなかった。
対立
アメリカは次なる矛先をイラクに向けた。ブッシュ政権はイラク・イラン・北朝鮮をテロ支援国家「悪の枢軸国」と発言して名指しで非難。とくにイラクに対して、生物化学兵器といった大量殺戮兵器を保有、核兵器開発などを指摘し、国連を通じて調査と査察、武装解除などを要求した。
イラクは湾岸戦争の敗戦後、化学兵器や射程150km以上のミサイル等、大量破壊兵器を廃棄する義務を課せられていた。しかし一応の資料を提出しながらも国連の査察に非協力的であり、時には妨害する姿勢すら見せた。
国連による再三の非難決議や空爆(砂漠の狐作戦)にもイラクは動じず、さらにはリストにないミサイルが発見されるなど、武装解除は停滞していた。
これを見たブッシュ政権は湾岸戦争の停戦条約(国際連合安全保障理事会決議687)に違反するという主張をし、国連にイラクに対する武力制裁を要求した。
これらの要求に常任理事国のロシア、中国のみならず当時の国連事務総長であるアナン氏も反対。アメリカの提出した「イラクへの武力侵攻案」はロシア、中国が拒否権を発動することにより否決された。安全保障理事会での調整が不調に終わると、ブッシュ政権は国連の意向を無視して同盟国にイラク侵攻に参加するよう要求。大義がないとしてフランス、ドイツはこれを拒否したが、イギリス、オーストラリア、ポーランドなどはアメリカの要求に応じて「有志国連合」を結成した。
開戦とフセイン政権崩壊
2003年3月19日、イラクへの侵攻「イラクの自由作戦」の決行。イラク国内の都市や軍事拠点などに対しミサイルや爆撃機による空爆を開始。翌日には地上部隊を派遣。イラクを一気に制圧していき、4月にはイラクの首都・バクダッドを陥落。フセイン像が引き倒される映像は米軍勝利を印象付けるものとして世界に報じられた。
イラク各地を次々に制圧し、5月にイラク暫定政府からイラク統治評議会を発足。そして12月に潜伏していたフセインを拘束。米軍侵攻から1年足らずでフセイン政権時代は終わりを告げた。
この戦争によりイラク人は軍民併せて10万人以上、アメリカ軍を含む多国籍軍は6千人超の死者を出す結果となり、アメリカ軍が使用した劣化ウラン弾によってガン患者が続出していると言われている。しかしこれは放射能の影響という説と重金属による影響という説があり、断定はできない。
日本の小泉政権は有志国連合のイラク侵攻を支持、資金を提供し、戦後復興のために自衛隊を派遣する措置を行っている。
アメリカ当局はイラクのフセイン政権は悪の枢軸だと決め付けていたが、後日調べるとアメリカが主張していた大量破壊兵器は存在しなかった。
さらに、イラク侵攻の3年前にフセインは石油の取引をドルからユーロに切り替えると発表した事もあり、
アメリカがイラクの石油利権を掌握する目的だったのではないかと言う疑惑が世界中に上がった。
しかしフセインに対する事情聴取では、国内の反政府勢力を黙らせるために大量破壊兵器を所持しているという情報をチラつかせていたという供述もあったとされる。
フセイン側にも問題があったにしろ証拠もなく疑惑で戦争を仕掛けたことは、アメリカにとって黒歴史とも言うべきものとなっている。
捕らえられていたフセインはアメリカによる茶番だと裁判で主張し続けたが、2006年12月に大量虐殺の罪などで絞首刑となった。
戦後のイラク
フセイン政権崩壊後のイラクはイスラム教シーア派を代表するマリキ氏がアメリカを後ろ盾に首相に就任したが、マリキ政権はフセイン大統領の出身母体であるスンニ派を冷遇。その結果、シーア派とスンニ派の対立が激化しフセイン政権残党によるテロも多発。国内の混乱に加えシリア内戦に介入したアルカイダやISILと言ったテロ組織やアメリカの傭兵組織との抗争に苦しんでおり、フセイン政権時代よりも悲惨な状況となった。
一方イランでは曲がりなりにもISIL対策を行っており、そのお蔭で最悪の事態は避けられていたため、イラクからイランへ逃れる難民も多い。
その後の国連
イラク戦争の顛末は5つの常任理事国が国連の上に立っており、国連事務総長は実権のない単なる名誉職に過ぎないことを国際社会に周知し、結果として国連の地位を決定的に貶めることとなった。
余談
アメリカが開戦の根拠とした大量破壊兵器だが、実は5000発以上の化学兵器弾頭が見つかっていた。
2004年6月にポーランド軍が遺棄された化学兵器を発見した他、2011年までにイラクを探索したアメリカ兵約20人が有毒ガスに晒されていたことを2014年になってアメリカ国防総省が認めた。それまで公表しなかった理由については「敵対する勢力の手に化学兵器が渡ることを避けるため」などと釈明した。
欧米各国はイラン・イラク戦争時に、化学兵器に必要な原料や設備をイラク支援のため提供しており、1980年代には、マスタード、タブン、サリンなどの大量生産が行われていた。
イラク戦争を描いた作品
映画
- 『4デイズ・イン・イラク』⋯ポーランドを含む多国籍軍VSイラク軍。イラク戦争最大の戦い「カルバラー包囲戦」について描かれる。