概要
首都 | アブジャ |
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人口 | 2億1854万1212人(2022年7月) |
面積 | 92万3769平方キロメートル |
独立 | 1960年10月1日(イギリスより) |
最大の都市 | ラゴス |
公用語 | 英語 |
国家元首(職) | 大統領 |
政体 | 大統領制 連邦共和国 |
日本との時差 | -8時間 |
正式名称はナイジェリア連邦共和国(ナイジェリアれんぽうきょうわこく、英語:Federal Republic of Nigeria)。アフリカ西南部に位置する国でギニア湾に面しており、北はニジェール、北東はチャド、東はカメルーン、西はベナンと国境を接している。1960年10月に独立。イギリス連邦の加盟国である。
気候は南部は熱帯、北部は砂漠に近く、その中間はサバンナであり、生物の多様性が見られる。
2006年3月に実施された国勢調査では人口が1億4043万1691人だったが、2022年7月の推計では2億1854万1212人であった。
アフリカ諸国の中で最も人口が多いとされるが、諸事情によって正確な人口調査を実施できない状況にある。
略史
1851年11月にイギリスはラゴスを砲撃して服従させ、1852年1月にラゴス条約が締結されて奴隷は禁止された。
1861年8月にラゴスは植民地として併合され、1862年3月にラゴス植民地が成立した。1884年7月にオイルリバー保護領が設立され、1893年5月にこの保護領はニジェール沿岸保護領に改称された。1900年1月にニジェール沿岸保護領とロイヤル・ニジェール・カンパニーの公認領土が合併し、ナイジェリア南部保護領が形成された。1914年1月に内陸部が完全に植民地化(このときフランスに譲渡されたのが後のニジェール)。
1960年10月に独立した当初はイギリス国王(当時はエリザベス2世)を元首とする君主制だったが1963年10月に共和制に移行した。
日本との関係
独立と同時に外交関係を樹立し、2001年には両国の首脳が経済関係を強化する為に互いを訪問。
2014年12月時点で登録者数は2518人、2022年12月時点では3672人とアフリカの中では最も来日が多い。一時的な滞在を含めると5000人を越えるとも言われている。
在日ナイジェリア人はイボ族が多いと言われているが、その他の民族も少なくない。定住して日本人と結婚した者も多く、近年はオコエ瑠偉・桃仁花兄妹・バレーボールの宮部藍梨・サッカーのオナイウ阿道など、ナイジェリア人ハーフの若手有力スポーツ選手が特に球技系で多数活躍している。
経済
アフリカ諸国の中では最大の経済力を有し、2022年の統計では4774億米ドルであるが、これは人口が多い為であり、1人当たりのGDPは世界平均の30%程度である。
人口の購買力が低く市場を生かしきれない。それでも国内市場向けの産業は少しずつ成長してきている。
2008年には食品工業やセメント製造を手がけるダンゴート・グループの総帥が初めてフォーブスの長者番付に掲載された。
しかし、政府の腐敗などによってあまり経済が発展しておらず、国内の需要が期待しづらい状況にある。国民の貧富の差が激しく、高度な教育を受けたものの仕事にあぶれた国民が犯罪行為などに手を出している。有名なのはナイジェリアの手紙。
産業
この国において主要産業の1つは南部に産出する石油であり、世界でも10位台に入る産油国である。
農業においては自らで消費するヤムイモとキャッサバなどの生産が多く、輸出ではカカオ・ゴム・ゴマなどが盛んである。
その他にサービス業・金融業がGDPでは主としているものの、政治の混乱・腐敗が続いている。その為税収は期待できず、国内インフラの整備は自力では難しい状況である。
情勢
ハウサ人・フラニ人・ヨルバ人など民族数は250以上と推定され、北部ではイスラム教徒が、南部ではキリスト教徒が多数派を占め、その他に精霊信仰などがあり、イスラム過激派が活動している。対策として自治州を細分化しているものの、1966年から軍事クーデターが7回、1967年から南東部がビアフラ共和国と称し独立宣言し内戦が勃発。1993年に一応停戦となったが100万人以上の死者が出た。
何度も軍政・独裁が繰り返され、民政移管後も腐敗・官僚の質の問題によって貧富の差は激しい。さらに国内にボコ・ハラムなどのテロ組織が多数存在するなど非常に不安定。
そのため日本の外務省は渡航中止を勧告。
関連項目
尼日利亜 漢字表記
関連人物
ボビー・オロゴン:ナイジェリア出身。2007年7月に日本国籍を取得した。
関口メンディー(GENERATIONS from EXILE TRIBE)