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岩成友通

いわなりともみち

岩成友通とは、近畿地方の戦国武将。三好長慶に登用され頭角を現し、後に三好三人衆の一人として長慶亡き後の政権運営も担った。他二人と違い三好一族の出でなかったりと、何かと不明点の付きまとう三人衆の中でも特に謎の多い人物である。(生年不詳-1573年)
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概要

戦国武将・三好長慶の家臣で、姓は「石成」(読みは同じ)とも表記される。室町時代末期の天下人ともいわれる三好長慶の家臣であるが、その出自には不明点が多く、他の三好三人衆の2人(三好宗渭(政勝)三好長逸)のように親が誰であったかすらも分かっていない。

出身地についても、分かっているだけでも細川氏の領地であった大和石成、もしくは備後品治郡石成郷の関係者ともいわれる他、前歴も京都郊外の下司(荘園や公領を管理する下級役人)であったなど、諸説入り乱れている状態である。ただ少なくとも、三好氏のお膝元である阿波出身でない事は確かとされ、この事から松永久秀らと同様に畿内にて登用されたものと考えられている。


三好三人衆全体としては有名だが、その割には一人一人の資料が少ないのもあり、彼個人の目立ったエピソードはあまり見られない。ただ当時、ポルトガルより来日していた宣教師・ルイス・フロイスは、同じく三好三人衆であった長逸を宗教に寛容で「教会の友人」であると好意的に評したのに対し、友通に対しては宗渭と合わせて「神の掟の敵」と称しており、この事から長逸とは異なりキリスト教への姿勢はあまり寛容なものではなかった事が窺える。


生涯

天文19年(1550)年に北野社の大工職の相論の照会役を務めた、というのが史料上にて友通の名が確認された最初の事例である。この後三好長慶の下で奉行衆として、長慶と室町幕府将軍・足利義輝との間で行われた将軍山城争奪戦に参戦(北白川の戦い)。両者が和睦した後は六角義賢の京都侵攻に際して義輝の警護役を務めるなど、三好政権下における数々の軍事行動にも従軍している。

永禄7年(1564年)に長慶が没すると、三好宗渭(政勝)三好長逸と共に三好三人衆の一角を担い、同じく三好家中の第一人者であった松永久秀と共に若年の当主・三好義継の後見役を務めた。またこの時期には山城の勝竜寺城を攻め落とし、敵対した領主らを追う一方で新たな領主に土地を与え、勝竜寺城も政権拠点として整備されるなど、同城を始めとする山城西岡一帯の支配権の確立にも努めている。


三人衆としてはその後も永禄8年(1565年)の永禄の変をはじめ、数々の軍事行動にて同調を続け、その過程で対立に転じた久秀や、彼の同盟者である畠山高政とも敵対。東大寺大仏殿の戦いなどで度々衝突を繰り返した。

久秀や主君・義継との対立が続く中、永禄11年(1568年)に織田信長足利義昭を奉じて上洛の途に就くと、この時他の畿内の三好方諸城が速やかに降伏する中で友通の勝竜寺城、そして池田勝正の拠る摂津池田城のみ徹底抗戦の構えを見せるが、程なく城を追われその後の本圀寺の変でも撃退されるなど、没落を余儀なくされた。


この後、一時的に義昭や信長に臣従し信頼関係を構築していたが、後に義昭が信長と決定的な対立を迎えると、これに呼応して第二次信長包囲網の一翼を担い、再び反織田の姿勢を打ち出した。

結果、信長の命を受けた三淵藤英細川藤孝兄弟らの軍勢に、この時立てこもっていた山城淀城を攻められ、奮戦空しく味方の裏切りに遭い敵中に孤立。下津権内(藤孝の家臣)と組み合いとなった末、堀に落下し水中で討ち取られた。時に天正元年8月2日(1573年8月29日)、他の三好三人衆の2人がこの頃までに病没・消息不明となる中、ただ一人戦場にてその命を散らす事となったのである。


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三好長慶 三好義継 松永久秀 細川藤孝

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