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概要

生没年 文政7年4月8日(1824年5月6日)~安政5年7月6日(1858年8月14日)

 江戸幕府・第13代・征夷大将軍篤姫を正室とする。

 江戸幕府・第12代将軍・徳川家慶の四男として生まれた。家慶の死後、将軍職を継いだが、ペリー率いるアメリカ艦隊が来航し、幕末の幕開けとなった。

なお德川慶福(家茂)は従弟、松平斉民は叔父にあたる。


人物

「凡庸中のもっとも下等」

 家定は自分の意思に反して首や手足が自分の意思にかかわりなく動くという症状があるほどの病弱であり、天然痘にかかった後遺症から顔にあばたが多く、人に会うのを嫌がる陰気な性格であったという。しかし、乳母の歌橋には心を開いていたという。

 その知能は「赤子同前」とうわさされるほどであり、「幕末の四賢候」のひとりである越前藩主・松平慶永に「凡庸中のもっとも下等」などと評されるありさまであったという。

 ただし、この評価は徳川慶喜を家定の次代将軍に据える事を画策していた政敵である「一橋派」によるものなので、単なる評判を貶めるための誹謗中傷である可能性が残る。

 ハリスとの謁見の際にも足を貧乏揺すりして落ち着きのない様子を見せつつも、将軍としての対応ははっきりしていたという。

朝比奈昌広の弁護

 しかし一方で、明治時代において元幕臣であった朝比奈昌広は「凡庸だ暗愚だと言われているが、それは越前(松平慶永)や薩摩(島津斉彬)らと比較するからであり、300諸侯の中には家定公より劣る大名も多くいたはずである」と、当時における周りの幕臣たちがあまりにも優秀すぎたためにそう映ってしまっただけだと彼を評価した。

 事実、家定は学問に熱心で四書(大学、論語、孟子、中庸)を十四歳で治めており、本人の意志もはっきりしていた。また、家定に仕えていたいくつかの証言をまとめると「持病と癇癪持ちであったが、基本的には温和な人物」であったとされる。特に篤姫と新婚の時に篤姫が父の島津斉彬の意向を受けて徳川慶喜を養子にする事を提案した際には、「何故この様な事で島津斉彬から申し出てくるのか。新御殿(篤姫)がいるのに侮辱している」と憤った。新婚の娘に養子の提案をさせるなんて、非常識すぎるという正論でこの話を黙殺した逸話も残る。

しかし、病弱で籠もりがちであり、幕府の行事や大名の拝謁も極力嫌がるなど、全く人前に姿を見せる事がなかった事が、余計にそれを助長させてしまったと思われる。

創作物では、ノイローゼが原因で奇行が多くなったという扱いをされる場合もある。

将軍・德川家定の趣味

 まんじゅうやカステラなど菓子を作るのが家定の趣味であったのだが、武家の棟梁である将軍のすることではないとお数寄屋坊主組頭の野村休成が大老・井伊直弼に差し出した上申書には「上様には、そのような子供じみた行為はおやめくだされますよう」と記されていたという。自分で芋やマメ、カボチャ等を煮て家臣に振る舞っていたことから影で芋公方やマメ公方と渾名されていた。しかし、これは料理に一服盛られることを恐れていたという説がある。自分で調理したものは毒を混入されないから安心だという考えが根底にあったのであろう。


生涯

ペリー来航

 嘉永6年6月(1853年7月)、浦賀にペリー率いる4隻のアメリカ艦隊が来航、アメリカのフィルモア大統領からの国書を幕府に提出、「翌年に返事を聞きに来る」と約束して帰国した。同年6月22日(7月27日)、老中首座・阿部正弘は病床に伏していた将軍・家慶に事の次第を報告、家慶は水戸藩主・徳川斉昭らに相談するよう命じ息を引き取った。


将軍就任

 嘉永6年9月、家定は将軍に就任する。しかし、上記のとおり虚弱な体質であるうえ、政治的に意志を示す事はなく、政治は老中首座・阿部正弘ら幕閣の主導する開国論と強硬な攘夷論者である徳川斉昭らとの意見の対立に紛糾することとなった。

 安政元年1月(1854年)、ペリーが前回を上回る7隻の艦隊を率いて来航、交渉を重ねた幕府は「日米和親条約」を締結、幕府の鎖国政策は終わりを告げ、イギリス・ロシア・フランス・オランダと同様の「和親条約」を結ぶことを強いられた。

 しかしながら、これらの「和親条約」は函館・下田という2つの港を開き、水・食料・薪を外国船に提供するというものであることから、必ずしも不平等条約とは言えないが、朝廷の勅許を得ずに条約を締結したことが尊王攘夷派の志士や公卿たちの怒りを買うこととなり、幕末動乱の引き金となった。


南紀派と一橋派の対立

 病弱な家定の後継問題は家慶の存命中からあり、幕閣や有力大名の対立を招くこととなった。

 一橋慶喜を推したのは12代将軍・德川家慶、水戸藩主・徳川斉昭(慶喜の父)、老中首座・阿部正弘、薩摩藩主・島津斉彬、宇和島藩主・伊達宗城ら「一橋派」であり、紀州藩主・德川慶福を推したのは彦根藩主・井伊直弼ら「南紀派」であり、家定も慶福を推す「南紀派」であった。

 安政3年(1856年)、薩摩藩主・島津斉彬は養女の篤姫を将軍・家定に娶せて、次期将軍に一橋慶喜を擁立することを目論んだが、安政5年4月23日(1858年)、家定が大老に井伊直弼を任じたことにより、名を「家茂」と改めた紀州藩主・德川慶福が将軍継嗣となることが定まり、6月には4つの港(神奈川・兵庫・長崎・新潟)を新たに開き、関税権・裁判権をアメリカに与える「日米修好通商条約」が締結された。そのわずか1ヶ月後、家定は脚気の症状が進み35歳で死去する。大老・井伊直弼による大弾圧「安政の大獄」が始まったのはその直後であった。


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フィクションでの家定

  • 篤姫(2008年NHK大河ドラマ)…堺雅人が家定を演じる。「英明だからこそ今の世の中では自分が何をしても無駄だと思い込み、だったら何もしない方がいいと暗愚を装っていた」という設定になっている。
  • 西郷どん(2018年度NHK大河ドラマ)…又吉直樹が家定を演じる。
  • 大奥(よしながふみ)⋯男女逆転の世界なので女将軍になっている。天璋院胤篤(史実の篤姫)とアツアツの関係。阿部正弘は頼れる忠臣であり命の恩人である。

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