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概要

豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市)の人。の最古参武将の一人として各地を転戦し、晩年は大将軍・大司馬にまで昇った。Mr.縁の下の力持ち。


一族

曹操の養祖父の宦官曹騰の兄の穎川太守曹褒の孫にあたる人物であり、曹操とは血縁関係はない。父の曹熾(字は元盛)は侍中・長水校尉を務めた。


1974年から1977年にかけて、安徽省亳州市亳県(漢代は沛国譙県)の城南一帯で古墳群が発掘(曹氏公園と名づけられる)された。 調査の結果、この古墳群は曹一族の墓と判明した。それによると「大長秋曹騰、会稽曹君(曹胤)、故潁川太守曹褒、長水校尉曹熾、呉郡太守曹鼎…」と曹一族の名が記されている。


魏においても最も多くの武功を挙げた将軍の1人であり、大将軍・大司馬(昇進時期は違えど夏侯惇司馬懿曹真らと同等の地位)まで昇進したほどの人物だが、後述する三国志演義においてはかなり地味な役回りとなっている。


生涯

無頼の日々を送る

武勇に優れ、若いころは弓術・馬術・狩猟を好んだものの父とは折り合いが悪く、家を飛び出していた。父は弟の曹純が14歳のときに亡くなったが、家督は父と同居していた曹純が継いでいる(『英雄記』)。

曹操が黄巾討伐や董卓討伐で走り回っていた時期に弟の曹純、血縁の夏侯惇・夏侯淵曹洪、さらに自身より下の世代である曹休・曹真も年少の身ながら曹操の元に馳せ参じていた。しかし、曹仁はこの頃でも密かに若者千人を集め淮水・泗水(徐州一帯)で暴れまわる日々を送っていた。

曹操の配下になる

そんな曹仁の評判を聞き付けた曹操が放っておくはずもなく、遅くとも193年までに配下に入ったようでいきなり別部司馬・行厲鋒校尉に任じられた。

曹操配下としての初陣となった袁術との匡亭の戦い(193年)で多くの敵兵を討ち取り、捕虜にしたりしたことで武名を上げた。さらに、陶謙との戦いでは騎兵を率いて先鋒となり、別軍を率いて陶謙の部将である呂由を破り、彭城において本軍に合流し、そこでも大いに功績を挙げた。曹操が費・華・即墨・開陽を攻撃すると、陶謙が援軍を派遣してきたが、曹仁は再び騎兵を率いて、これを大いに破った。


194年からの呂布との戦いでは、別軍を率いて句陽を攻め落とし、呂布の部将の劉何を捕虜にした。


196年、曹操は豫州の黄巾賊を討伐し、献帝を迎えて許昌を都に置いたが、このことについて曹仁は功績を挙げたので、広陽太守に任命された。

しかし、曹操は曹仁の勇気と智略を評価していたので、広陽郡に赴任させずに、議郎の地位のままで騎兵隊を指揮させた。


197年、荊州宛の張繍との戦いで、曹仁は別軍を率いて近隣の県を攻撃し、三千人の男女を捕虜にした。曹操は敗北を喫し張繍の追撃を受けることになったが、曹仁は士気が下がった兵士を督励して、功績を挙げた。曹操は曹仁の働きに深く感嘆した。


河北平定戦

199年春2月、河内の張楊が暗殺され、その旧部下が曹操派と袁紹派に分かれて対立し、袁紹派の眭固が主導権を握り、射犬に駐屯して袁紹の軍を呼び寄せようとした。夏4月、曹仁は曹操の命令で、史渙らと共に、袁紹と合流しようとした眭固を犬城において破り、斬った(「武帝紀」)。


200年、曹操と袁紹が決戦したとき(官渡の戦い)は、袁紹の部将の劉備が隐强(許昌の周辺)を攻撃し、多くの諸県を袁紹側に寝返らせていたため、曹操は不安になった。曹仁は曹操に対し、劉備が来てから日が浅いことから、今なら破ることが出来ると主張、騎兵を率いて劉備を破り、離反した諸県を全て降伏させた。


袁紹の部将の韓猛が、別働隊を率いて西方の交通の遮断にかかると、曹仁は雞洛山で韓猛を破った。また、史渙とともに袁紹の兵糧車を襲撃し、これを焼き払った。


205年、高幹の立て籠もる壺関を包囲した際、曹操が「敵は一人残らず穴埋めにせよ」と命ずると、曹仁は「退路を開けないため敵は必死なのです。これと戦うのは良策ではありません。」と諫めた。その意見を用いると見事に敵は降伏した。曹仁はこの前後の功績により都亭侯に封じられた。


守戦の名手

209年、荊州の南郡攻防戦で曹仁は南郡を守り、孫権軍の都督周瑜と戦った。周瑜が数万の兵を率い来襲すると、曹仁は部将の牛金に三百の兵を与え、周瑜軍の先鋒の六千騎の軍勢と戦わせるが、牛金は包囲された。これを見た長吏の陳矯らは青ざめたが、曹仁は激怒し、陳矯の静止を振り切って直属の勇士数十騎を率いて、堀を渡ってそのまま敵陣に突入し、果敢に牛金を救助してその名を轟かせた。陳矯らは曹仁の勇敢さを称賛し、曹操も曹仁の功績を評価し、安平亭侯に国替えした。


その後、曹仁は周瑜に重傷を負わせるなど善戦したが、結局は周瑜・劉備らに敗れ南郡を失った(「周瑜伝」)。


211年、馬超が反乱を起こすと(潼関の戦い)、曹操は曹仁を行安西将軍に任命し、潼関を守備させて防御軍の司令官とした。曹操は馬超を渭南で破った。


蘇銀と田伯が反乱を起こすと、曹仁が行驍騎将軍に任命され、七軍の司令官としてその追討にあたった。その後、行征南将軍・仮節として樊城に駐屯した。


218年、過酷な軍務が原因で宛の豪族の侯音・衛開らが、関羽と内通して謀反を起こした。曹仁は樊城に駐屯していたが、この反乱を龐徳と共に討伐し、南陽太守の東里袞と合流した。翌219年正月に、これを襲撃し宛城を陥落させて、侯音らを処刑し、樊城に帰還した。正式に征南将軍に任命された。


関羽との荊州争奪戦では、連日の悪天豪雨によって樊城を水攻めにされ、援軍の于禁ら七軍も壊滅した。関羽は船を並べて樊城を包囲し、曹仁の手元には数千の人馬しか残っていなかったが、徐晃の援軍到達まで軍規を徹底し、兵を鼓舞してよく守り、その猛攻を防ぎ切った。徐晃が外部から関羽を攻撃すると、曹仁も城から出て関羽を攻撃し、関羽を撤退させた(樊城の戦い)。


曹魏の功将

220年、曹丕(文帝)が王位につくと、車騎将軍・都督荊揚益州諸軍事・陳侯に昇進し、2000戸の加増を受け、領邑計3500戸の大功郎となった。父の曹熾にも陳穆侯が追贈され、墓守りの家が10軒つけられた。


中央では「樊・襄陽には食糧がないので防ぐことができない」との意見が出され、曹仁は渋りつつも荊州北部を捨てて宛に撤退したが、案の定襄陽を孫権に占拠されてしまった。その後、徐晃らと共に襄陽に立て篭る呉の陳邵を破り、襄陽を奪還した。将軍の高遷に命じて、漢水南部の住民を北部に移住させるように計らった。


221年4月、文帝は曹仁を大将軍に任命し、次に臨穎に屯地を移転させて大司馬に任命した。曹仁は諸軍を指揮して烏江を占拠し、引き返して合肥に駐屯した。


222年秋9月、歩兵と騎兵数万を率いて濡須口に進軍した(「呉主伝」)。この戦役は曹休らが洞口、曹真らが江陵へ同時期に進撃する大規模なものだった。


223年3月、部将の常雕や子の曹泰に別働隊を率いさせ、呉の濡須塢を攻め朱桓朱異父子と戦った。最初は朱父子を欺き、呉軍を分散させることに成功したが、朱桓の本隊が少ない手勢で奮戦したため攻め切れず、常雕の別働隊が先に打ち破られたため、軍を引いて撤退した(濡須の戦い)。


223年(黄初4年)3月19日、死去。56歳であった。忠侯と諡され、子の曹泰が後を継いだ。また、曹偕・曹範にも邑が分与され、ともに列侯となった。


曹泰は鎮東将軍・仮節まで昇進したが呉との戦いで戦死。曹泰の跡はその子の曹初が継いだ。


評価

曹仁は若い頃は乱暴者であったが、曹操に従って武将として過去の行為を戒めて、成長した後は厳格に法を遵守し、常に法と照らし合わせて信賞必罰を行なうなど、諸将の見本になったとされている。曹丕は烏桓征伐に赴いた曹彰に対し「曹仁を見習って軍令を適用するように」と手紙で忠告している。

河北での攻略において、曹操に攻城術を指南するほどであり、優れた軍略家であったことが分かる。

『傳子』では曹仁の武勇は孟賁・夏育に匹敵し、張遼はその次に位置すると評価している。


主な登場作品

三国志演義

曹洪と共に、曹操軍古参の武将として登場。

登場の多さの割に活躍はあまり描かれず、軍事経験のない徐庶に完敗するなど情けない面が強いが、史実と同様に樊城を攻めてきた関羽軍を退けている。

武勇に長けるとされるが一騎討ちを演じる場面は蒋欽との戦いぐらいしかなく実力についてはよく分からない。


蒼天航路

史実では曹操とは一回り以上年下だがここではほぼ同世代の扱いになっている。また黄巾討伐の頃から曹操から付き従っている。登場初期はイケメンだったが、恰幅のよい髭面のスキンヘッドと化し全く面影は無くなりギャグ担当の一人となり道化役を振られることが多くなり「ヘボ将」呼ばわりされ官渡の頃は死罪さえちらつかされたほどだった。しかし劉辟・劉備との汝南の戦いで覚醒のきっかけを掴み、以降は将として飛躍的な成長を見せた。ちなみに初期曹仁の容姿は息子の曹泰に引き継がれている。


真・三國無双シリーズ

武骨で剛直な人物。曹仁(真・三國無双)を参照。


三國志シリーズ(光栄)

統率や武力が高く、それなりに優秀な能力ではあるがイマイチな扱いだった。最近では武力・統率も90前後と文句無しになっている。


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