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レイテ沖海戦の編集履歴

2015-12-26 02:38:21 バージョン

レイテ沖海戦

れいておきかいせん

第二次世界大戦(太平洋戦争)における連合国海軍と日本海軍による海戦。

概要

レイテ沖海戦とは、連合国軍(ほぼアメリカ軍といって差し支えない)と日本軍により、1944年10月下旬に行われた一連の海戦の総称。 フィリピン中部にあるレイテ島周辺海域が主戦場となり、参加艦艇の総数および戦闘規模の大きさから、世界史上最大の海戦ともいわれている。


主要戦闘は24日から25日にかけて行われ、アメリカ海軍が大勝して、日本海軍は事実上壊滅した。


ここでは日米双方の海戦に至るまでの経緯を紹介した上で、主に日本側を中心に戦闘の流れをたどっていく。


アメリカ軍のフィリピン進攻

太平洋戦争緒戦にて、戦争準備が満足に整っていなかったアメリカは、日本軍の侵攻によってフィリピンを失陥することになったが、

1942年後半、アメリカは戦時生産体制を整えて対日攻勢作戦を本格化し、ソロモン諸島の戦いを機に、太平洋の各地で勝利を重ね、次々と日本軍を駆逐していった。


1944年、アメリカはマリアナ諸島攻略を完了すると、次なる目標として台湾や沖縄、フィリピンへの進攻を検討したが、日本艦隊の脅威が残存していることなどから台湾進攻案は急進的すぎるとして却下されたため、

沖縄と比べて陸地面積が広く、拠点の建設が容易であり、また親米ゲリラの助力を期待できるといった見地からフィリピンが次なる目標に選定され、9月以降、攻略計画が実行に移されることとなった。


このフィリピン攻略計画の採用に関しては、その指揮を務めたマッカーサーがフィリピンに多くの利権を持っており、その奪還に強くこだわっていたという背景もある。


1944年9月、アメリカ軍はフィリピン攻略の足掛かりとしてパラオ諸島およびモルッカ諸島に対する攻略作戦を展開し、モロタイ島に飛行場を含む前線基地を建設。

10月には航空母艦(軽空母・護衛空母含む)35隻、戦艦12隻を擁するフィリピン攻略任務部隊と、米陸軍第6軍団からなる総兵力20万人の上陸部隊を乗せた船団が出撃し、作戦開始に備えることとなった。


なお海戦当日、米艦隊は日本艦隊迎撃を主任務とする第3艦隊(司令官:ウィリアム・ハルゼー大将)と上陸部隊支援を行う第7艦隊(司令官:トーマス・キンケイド中将)とに分かれて展開しており、シブヤン海戦やエンガノ岬沖海戦では第3艦隊、スリガオ海峡海戦やサマール沖海戦では第7艦隊所属の艦艇が日本艦隊との戦闘を行った。

所属した戦闘艦艇は魚雷艇を含めて約160隻、補助艦艇を含めた総隻数は約730隻である。


日本の思惑

かくして、アメリカ軍によるフィリピン攻略が開始されたわけだが、

すでに潜水艦の海上封鎖によって兵站が崩壊しかけている日本がさらにフィリピンを失うこととなれば、南方の補給線断絶が決定的となって、戦争続行が不可能となることは必至であり、まさに米軍のフィリピン侵攻は日本にとって死活問題であった。


また無条件降伏を回避し、条件付き講和を取り付ける協議に持ち込むには、今一度米軍に打撃を与えることで、アメリカと対等な立場にたつことが必要不可欠であったことから、日本軍は総力を結集しての対米反攻作戦を展開することとなった。


とはいうものの、敵艦隊迎撃の役を担う日本海軍は、マリアナ沖海戦にて母艦航空隊の戦闘能力を喪失し、また本海戦直前の台湾沖航空戦にて陸上航空兵力をも大きく消耗することとなり、活用可能な戦力には戦艦をはじめとする水上艦艇しか残されていなかった。


「航空兵力が壊滅した今の艦隊では敵の空母機動部隊に到底かなわない。」

そう考えた海軍は、あえて制海兵力の要である航空母艦を囮として使用することで、敵の航空兵力を囮空母にくぎ付けとし、その間に戦艦を中核とする水上打撃部隊をもって敵上陸地点を攻撃するという奇策を採用した。


もはや規模、練度ともに戦力としては期待できない機動部隊であったが、日本側の実状を知らない敵がこれを見れば全力で襲い掛かるであろうし、後方に避退しつつ引き寄せれば、敵艦隊が短時間でレイテに戻る事は不可能となる。まさに作戦の成否は機動部隊にかかっていると言えた。


これを受けて、機動部隊の参謀達からは艦隊の使用方法に反対の声があがったが、最終的には出撃を了承する形となり、4隻の空母になんとか正規空母1隻分の艦載機を搭載した機動部隊は、その最後となる戦闘に出撃した。


参加艦隊は以下の通り。各艦隊の名前は指揮官の名前からとられた通称で正式な艦隊名ではない。


栗田艦隊

水上打撃部隊の主力で、指揮官は当時海軍中将であった栗田健男。


リンガから出撃し、ブルネイ経由でパラワン水道、サンベルナルジノ海峡を通過しサマール島沿いを北方からレイテ湾に突入した。


主力は大和・武蔵・長門の第一戦隊、金剛・榛名の第三戦隊で、その他に愛宕、妙高、熊野を始めとする重巡部隊や軽巡能代を旗艦とする第二水雷戦隊、軽巡矢矧を旗艦とする第十戦隊で編成された。


西村艦隊

栗田艦隊から分派された別働隊で、指揮官は西村祥治中将。


ブルネイ以降はスールー海を航行しスリガオ海峡からレイテ湾に突入した。


主力は山城・扶桑の第二戦隊と重巡最上の他、満潮以下4隻の駆逐艦で編成された。


志摩艦隊

元々は小沢治三郎中将の指揮下にあったが、作戦発動直後に急遽レイテ突入命令が下り、西村艦隊に追従する形となった。指揮官は志摩清英中将。


台湾馬公から出撃し、コロン湾経由の後に西村艦隊と共同してスリガオ海峡からレイテ湾に突入した。


主力は旗艦の那智以下、足柄と阿武隈を旗艦とする第一水雷戦隊から編成された。


小沢艦隊

囮空母部隊で、指揮官は小沢治三郎中将。


日本本土から南下し、アメリカ機動部隊の攻撃を引き付けた。


主力は瑞鶴・瑞鳳・千歳・千代田の第三航空戦隊と伊勢・日向の第四航空戦隊、また軽巡大淀、五十鈴、多摩など。


その他

その他に潜水艦艦隊の第六艦隊と基地航空部隊の第一、第二の両航空艦隊が参加した。


日本本土には隼鷹、龍鳳、雲龍、天城などの空母が残留していたがこれらは艦載機と練度の不足のため、出撃することはなかった。


神風特別攻撃隊

本海戦は神風特別攻撃隊が初めて実戦投入された戦いとしても知られている。


当海戦では、フィリピン駐屯の陸上航空部隊による栗田艦隊の上空援護が予定されていたが、台湾沖航空戦による損害と上陸前の事前空襲によってこれが不可能となってしまったため、海軍は艦隊への空襲を防ぐための代案を検討しなければならなくなった。


この時、敵空母の飛行甲板を使用不能とすることで攻撃機の発着艦を阻止することが考えられたが、直掩の戦闘機部隊確保にも事欠く有様でありながら、敵の防空網を突破し空母に打撃を与えることができる攻撃隊など到底編成できるわけがない。


そこで海軍は、「大規模な航空隊を投入出来ないのであれば、むしろ少数のみの使用に限った方が敵防空網突破の可能性をあげられる。」「どちらにせよ生還が期待できないならば、戦果が不確実な雷爆撃を仕掛けるより、敵に体当たりして戦果を確実にした方がいい。」といった理由に基づき、戦闘機に爆弾を搭載して敵空母の飛行甲板へと体当たり攻撃を行う部隊を編制し、これを実戦に投入することにした。


こうして編成された神風特別攻撃隊は、サマール沖海戦直後の攻撃で敵護衛空母1隻を撃沈する戦果をあげたものの、

逆にこの戦果が特攻の威力を海軍に過信させる結果となり、当初はこのフィリピンのみでの戦法と考えていたこの特攻戦法が終戦まで用いられることとなった。


戦いの流れ

捷一号作戦発動

1944年10月6日、米機動部隊はフィリピン攻略任務部隊として停泊地のウルシー環礁を出撃し、制海権と制空権の確保のため、各地の日本軍拠点に対する空襲を行った。

その後、12日から始まった台湾沖航空戦にて日本軍航空部隊の攻撃を退けると、17日にはレイテ湾に到着して上陸作戦を開始した。


10月18日、アメリカ軍がレイテ湾スルアン島に上陸を開始したとの報告を受けた日本軍は捷一号作戦を発動し、連合艦隊司令長官豊田副武大将より各艦隊に指令が通達されて、レイテ沖海戦の幕が開けた。


前哨戦・潜水艦の雷撃(10月23日)

10月18日、栗田艦隊は泊地を出港してレイテ湾に向かって航行していたが、

5日後の23日未明、パラワン水道を航行していたところを2隻の米潜水艦が発見。2隻はこのことを味方艦隊に通報すると日本艦隊に向けて魚雷攻撃を実施した。


この潜水艦を察知できていなかった栗田艦隊は不意打ちを受ける形となり、旗艦の愛宕とその姉妹艦、摩耶が沈没。高雄も大破してブルネイに撤退した。


日本艦隊は敵艦隊と戦う前から強力な重巡洋艦3隻を一度に失うという被害を受け、出鼻をくじかれる羽目になったが、栗田中将は大和に移乗して作戦を続行した。


シブヤン海海戦(10月24日)

10月24日の午前中、小沢中将率いる機動部隊による囮作戦は未だに効果を上げていなかった。

一方のアメリカ艦隊は潜水艦や偵察機の情報から日本艦隊の動きを察知しており、ハルゼー率いる機動部隊が栗田艦隊への攻撃を開始した。


航空支援の無い栗田艦隊は米艦載機部隊の容赦のない攻撃に晒され、特に武蔵には雷爆撃が殺到して沈没寸前にまで追い込まれた。

その他、妙高が被雷し戦場を離脱。大和や長門、利根なども爆弾が命中する被害が生じ、浜風には火災が発生するなど各艦の損害が深刻化し始めていた。


艦隊の被害状況を見た栗田提督は、一時反転して空襲を避けることを決意し、艦隊を反転させて海域を離脱した。

その後、小沢艦隊を察知した米機動部隊が攻撃を中止して北上したため、再度反転してレイテへと進撃を再開したが、西村・志摩の両艦隊と翌日未明にレイテ湾へ同時突入することは不可能となった。


また空襲で大破した武蔵は利根、清霜、浜風、島風が護衛についてコロン湾への回航を行っていたが、損傷復旧の甲斐なく武蔵は19時35分に沈没した。


スリガオ海峡海戦(10月24日~25日)

山城・扶桑を主力とする西村艦隊は、北方からレイテ湾に突入する栗田艦隊と呼応して南のスリガオ海峡から突入する使命を受けて進撃していた。途中アメリカ艦載機の攻撃を受けるが敵の目が栗田艦隊に向いていたため、たいした被害もなく航行を続けていた。


しかし、スリガオ海峡にはオルデンドルフ中将率いる水上部隊・約40隻が展開されており、

16インチ砲搭載艦を含む旧式戦艦および重・軽の巡洋艦からなる砲撃部隊に加え、魚雷艇や駆逐艦からなる水雷戦隊が鉄壁の迎撃態勢を敷いて待ちかまえていた。


栗田艦隊の現在の状況から同時突入が不可能と知った西村中将は、自艦隊の状況を栗田提督に報告したが、栗田からは何も指示がなく、やむなく敵艦隊の待ち受ける夜間のスリガオ海峡に単独突入した。


24日深夜、米魚雷艇部隊が西村艦隊と接触すると、次いで駆逐艦部隊が西村艦隊と交戦を開始し、魚雷攻撃を行った。雷撃を受けた満潮、朝雲、山雲は沈没し、扶桑が弾薬庫に引火して爆沈した。


西村艦隊は損害を省みず突入を続けたが、海峡出口には戦艦を主力とする砲撃部隊が待ち受けており、西村艦隊をレーダーに捉えると暗闇の中から艦砲射撃を開始した。

レーダーが使い物にならなかった西村艦隊は、敵艦の発砲炎をたよりに応戦するも、最上が多数の命中弾を受けて大破し、戦艦山城は弾薬庫引火により沈没した。


山城の沈没に際して西村中将は戦死し、西村艦隊は最上と時雨を残して壊滅。時雨と最上は反転・離脱した。


西村艦隊の後続である志摩艦隊も続いて突入したが、旗艦の那智が最上と衝突し、阿武隈が魚雷艇の攻撃で被雷。

志摩艦隊は敵情不明を理由に撤退を決意し、阿武隈と最上にコロン湾回航を命じたが、26日の空襲にて阿武隈は沈没し、最上は曙の魚雷で処分された。


栗田艦隊は25日早朝、西村艦隊の全滅を知った。


エンガノ岬沖海戦(10月25日)

栗田艦隊のレイテ湾突入を助ける為、囮役となるべく南下を続けていた小沢艦隊は、24日の午後にハルゼー率いる機動部隊をサンベルナルジノ海峡より釣り上げる事に成功し、日本海軍機動部隊はその最後の戦いを開始した。


小沢艦隊の直掩戦闘機部隊は戦闘開始後まもなく全機が撃墜され、小沢艦隊はなすすべなく米艦載機部隊の波状攻撃にさらされた。

この攻撃により千歳と秋月が沈没し、瑞鶴と多摩が被雷。千代田が大破し航行不能となった。


その後、小沢中将は旗艦を被雷した瑞鶴から大淀に変更して戦闘を継続したが、

一方のハルゼーは、サマール沖にて栗田艦隊が護衛空母部隊との交戦を開始したことを受けて、直ちにレイテ湾に戻るよう命じられたため、艦隊のおよそ半数を率いてレイテに引き返した。


以後、小沢艦隊への攻撃はミッチャー提督のもと継続され、

午後には瑞鶴、瑞鳳、千代田の全空母が沈没。日本海軍機動部隊は事実上消滅した。


空母全滅後も空襲は続行されたが、艦隊に残存していた伊勢と日向は対空砲火と的確な操艦術でこの攻撃を回避することに成功。

日没後には他の残存艦も海域を離脱して日本本土へと撤退したが、追撃の米巡洋艦部隊と接触した初月が沈没。また退避中の多摩が潜水艦の雷撃を受けて沈没した。


小沢艦隊の奮闘により、栗田艦隊のレイテ突入のチャンスを作り出したが、敵艦隊誘致成功の報はその機会を失うまで、栗田のもとには届かなかった。


サマール沖海戦(10月25日)

シブヤン海海戦ののち進撃を再開した栗田艦隊は25日未明にサンベルナルジノ海峡を通過した。


この時点での栗田艦隊の勢力は戦艦4隻、重巡洋艦6隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦11隻まで減少していたが、艦隊はレイテ突入を続行した。

25日朝、大和の対空電探が敵機を探知し、大和の見張り員が35km先のマストを確認した。


それは上陸支援任務を行っていた米護衛空母部隊であったが、栗田艦隊はこれを正規空母6隻の主力機動部隊と誤認し攻撃を開始。

大和、長門以下第一戦隊が主砲による砲撃を行い、麾下の重巡部隊と水雷戦隊が突撃を行った。

栗田艦隊の攻撃を受けた護衛空母部隊は、小沢艦隊を追撃中の第3艦隊ハルゼー機動部隊に救援を要請すると、逃走を図りつつ保有の艦載機と護衛の駆逐艦による反撃を行った。

このときの米護衛空母ガンビアベイの勇戦は現在でも語り継がれ、アメリカ海軍の士官候補生が必ず学ぶ教材となっている。


反撃の結果、魚雷回避を強要された戦艦らは敵との距離を拡大して砲撃の効果を薄められた他、

護衛空母部隊に突撃した重巡部隊と水雷戦隊には敵艦載機による熾烈な反撃が行われ、大型の重巡洋艦を狙った攻撃が日本艦隊に殺到した。


この攻撃で羽黒が急降下爆撃を受けて損傷。矢矧は敵機からの機銃掃射を受けて、水雷戦隊司令部に死傷者を出す被害が生じ、駆逐艦の雷撃で損傷した熊野はコロン湾を目指して戦場を離脱した。


また鈴谷が搭載魚雷の誘爆により沈没し、鳥海は被弾の後に雷撃処分。筑摩も敵艦載機の攻撃で沈没した。


その後、各艦からの戦果報告で十分な戦果を上げたと判断した栗田は、艦隊に集結命令を出して攻撃を一時中断した。


謎の反転・栗田艦隊退却

艦隊は一時集結した後、まもなく進撃を再開したが、

集合時に新たな敵機動部隊の存在を知らせる電文(この電文はなかったとも。)が届いたためか、存在不明の敵機動部隊と決戦すべく、全艦に反転を命じて太平洋を北上した。


まもなく艦隊は再びレイテ方面に反転したが、こうして迷走している間に敵艦載機の攻撃を受けるはめになり、被害がさらに拡大する結果となった。


その後、撤退の経緯は不明であるが、栗田提督は全艦の反転北上を決定し、艦隊は反転。レイテに向かうことなくサンベルナルジノ海峡目指して艦隊は退却を始めた。


これによって、レイテ突入の機会は永遠に失われることとなり、空母を全て失った小沢艦隊の奮闘も、作戦が狂った為に単独突入した西村艦隊の壊滅も、武蔵をはじめとする指揮下艦艇の喪失も、そして戦死した数千の将兵の犠牲も全てが無駄になってしまった。


栗田は撤退中のサンベルナルジノ海峡直前で小沢艦隊の作戦成功を知って後悔したが、もはや手遅れの状態だった。


終結・決死の逃避行

栗田艦隊の退却後、日本艦隊撃滅を目指すハルゼー提督は追撃部隊を率いて栗田艦隊に迫った。


日没後に栗田艦隊を追撃した水上部隊は司令部を含む本隊を取り逃がしたものの、筑摩の乗員を救助していた野分を捕捉し、これを撃沈した。


26日未明、米軍偵察機はミンドロ島の南方を航行中の栗田艦隊を発見し、米機動部隊は日の出と共に攻撃部隊を差し向けた。

この攻撃で退避中の熊野が損傷して、早霜が擱座。早霜の救援に向かった藤波が撃沈され、能代もまた沈没した他、大和も2発の直撃弾を受けて、大浸水が発生した。


その後、艦隊はなんとか追撃を振り切り、28日夜にブルネイへと帰還した。各艦の燃料は底をつきかけており、ギリギリの帰還だった。


海戦後

レイテ沖海戦の敗北の結果、アメリカ軍に大打撃を与えて講和に持ち込むという日本の思惑は完全に挫折し、

1945年1月、小磯首相は、レイテ決戦をルソンを含んだフィリピン全体の決戦に拡大すると発表し、事実上レイテ決戦の敗北を認めた。


その後、アメリカ軍はフィリピン各地に飛行場を設置し、潜水艦の海上封鎖に加えて、航空機による通商破壊をも本格化して日本の南方航路封鎖を強めたため、日本は戦艦まで輸送任務に使用し、北号作戦や南号作戦を行って資源確保に努めたが、1945年3月以降は南方航路の維持も最早不可能となった。


南方航路を失ったことで、日本軍艦艇は本格的な整備施設のない南方と燃料が枯渇した内地とに分断され、

残存艦艇の多くは浮き砲台として港湾に係留されるか、輸送任務に従事するなどしたが、空襲と潜水艦の雷撃によって行動可能な艦艇は徐々に失われていった。


その後、1945年4月に大和の沖縄水上特攻が行われ、5月にはマラッカ海峡でペナン島沖海戦が生起したが、これが日本海軍の最後の水上戦闘となった。


本海戦における喪失艦艇(支援任務中に撃沈された艦も含む)

戦艦

武蔵 扶桑 山城

航空母艦

瑞鶴 瑞鳳 千歳 千代田

重巡洋艦

愛宕 摩耶 鳥海 筑摩 最上 鈴谷

軽巡洋艦

多摩 能代 阿武隈

駆逐艦

秋月 初月 朝雲 浦波 早霜 満潮 山雲 藤波 野分 若葉 不知火

アメリカ軍側喪失艦艇

  • 軽空母・プリンストン
  • 護衛空母・ガンビアベイ
  • 護衛空母・セント・ロー
  • 駆逐艦・ジョンストン
  • 駆逐艦・ホーエル
  • 護衛駆逐艦・サミュエル・B・ロバーツ

※セント・ローは神風特攻隊の攻撃により撃沈された。


関連タグ

連合艦隊 小沢治三郎 西村艦隊

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