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李承晩の編集履歴

2022-07-03 18:31:09 バージョン

李承晩

いすんまん

韓国の初代大統領。 日本での読みは「りしょうばん」 真面目なクリスチャンだったらしい。

ここ3年というものは李承晩について聞いたことがなかった。3年の間、南朝鮮のすべての問題はアメリカ軍司令官だけによって指令されており、李承晩は、釜山の奥にいるアメリカ軍の裏庭あたりにおあずけになっていた。……ところが、いま突如として、李承晩はあまりに強大かつ強力であるため、「国連軍司令官もアメリカ大統領も、またアメリカ議会も彼とは太刀打ちできない」と発表されている。ぶざまな茶番劇が上演されているのだ。

1953年7月16日のソ連の新聞『ソヴィエト・ニュース』の記事。( 神谷不二『朝鮮戦争』より)


概要

李承晩ラインでおなじみの韓国の初代大統領(3代連続就任した)。韓国の生みの親。

独立運動家として活動していた甲斐あって、1948年に初代大統領に就任した。

因みに海外での活動が多かったが為に、日本統治時の朝鮮半島を碌に見ていなかった


自分に敵対する者を倒し自分の意思に反する者を消し、多くの支持を集めて大統領になったものの、その2年後に裏切る事となった。

朝鮮戦争開戦二日後の1950年6月27日、特別列車でソウルから逃亡し、軍人はおろか多くの民間人を置き去りにした

周りからの説得で逃げたという話もあるが、特別列車の用意などの準備期間を考慮すれば、二日での決断となると仮に説得があったにしてもあっさり同意したと思われる。

更に7月1日にはジープと列車で木浦まで向かった後、海軍警備艇に乗船して再び逃亡。翌日の昼前に釜山に到着した。



そのくせ1953年に国際連合主導による休戦提案が出始めたら北進統一論を唱えて朝鮮半島の統一にこだわり続け、とことん休戦に反対した。

同年の6月18日に何の予告もなしに北朝鮮の捕虜2万5000人を韓国内に釈放し、6月8日に締結された両軍の捕虜送還協定を反故にした。(無論、アメリカは何も聞かされてなかった

更に中国からの徴兵を要求し、早期休戦を望む国連軍やアメリカ軍と激しく対立した。

休戦が決まったにも関わらず韓国による半島統一を掲げて戦争をごねまくり、国際世論の非難が高まってもお構いなしだった。

しかしどんなにごねてもそんなわがままが通る筈もなく、1953年7月27日に仕方なく休戦に同意する事となった。


1954年10月14日、国民に対する反日教育に熱中。韓国人に「本帝国主義の侵略性」やら「韓国への悪意」やら刷り込むよう命じた。

そして11月27日に生涯大統領を目論み、憲法改正を自由党の屁理屈によって強行した。


しかし1960年に発生したデモを切っ掛けに生涯大統領というわけにはいかなくなって辞退。

実際は殆どの国民を敵に回しての失脚であるため、5月29日に妻と共にハワイに亡命。


1965年7月19日、逃げた先のハワイの養老施設で一生を終えた。(90歳)




独立運動に勤しみ、三十年間のロビー活動の甲斐あってアメリカとの協力関係を結び、韓国を作り上げた。

しかし北朝鮮との戦争が始まって早々首都から逃げ、散々敵扱いしていた日本に逃げようと画策し、反日教育や竹島侵略などで日本との因縁を作り、三代連続で大統領となって独裁者としてやりたい放題して国民の怒りを買い、ついには国からも逃げ出したまま息を引き取った


法を変えて大統領になり続けたり、半島統一を謳ったり、失態を国民の目からそらす為に反日を煽ったり、歴史を捏造したり、自分の意に反する者は親日と称して罰したり、保身に徹して逃げたりと後の代がやった事は大体やってきたまさに韓国の原点にして頂点

日本に対する一方的な因縁を植え付けた元凶であり、用米と用日の基盤を作り上げた張本人。

彼の功績がなければ「漢江の奇跡」や「日韓通貨スワップ」などといった後の代の活躍が起きる事はなく、アメリカの同盟国になる事さえままならなかった。

良くも悪くも彼を超える韓国大統領は存在する事はない。


発言


「われわれ朝鮮は、国際社会で泣いている子どもと同じだ。われわれが望むのは、正義と公正だけだ。泣く子は、時や場所をわきまえない。朝鮮は、諸大国が集まりさえすれば、時も場所もわきまえることなく泣き立てるだろう」

1944年9月、米国の官僚への発言。


「アメリカは余り信じるな。ソ連の奴らには騙されるな。日本は必ず再起する。注意せよ!」

李承晩ラインを引いた年の発言(当時の韓国で流行語になった)


「停戦反対、北進統一」「休戦は国家的死刑」

国連から休戦提案が出始めた時の発言。世界各国を困らせた。




関連

金九呂運亨:李承晩と共に独立運動家として活動していた人物。

1919年に李承晩は彼らと共に大韓民国臨時政府上海に設立しており、この時点で大韓民国という名前は存在していた。

金性洙:湖南財閥を率いていた実業家。1945年に独立建国運動の中心人物となった李承晩を支えた。

韓国民主党:湖南財閥が中心になって組織した保守政党。

済州島:済州島四・三事件が発生した場所。

漢江人道橋爆破事件:朝鮮戦争中に漢江にかかる橋が爆破されて避難民が犠牲になった事件。

山口県:朝鮮戦争で釜山が陥落したら亡命する予定だった場所。6万人規模を収用できる亡命政府を建設しようとGHQを通して日本政府に要請した。

李承晩ライン:1952年1月18日に朝鮮戦争中に李承晩が勝手に引いたライン。このラインを引いて竹島を侵略したせいで日本漁船とその船員が韓国警察の犠牲になった。

四捨五入改憲:1954年の11月27日、「四捨五入すれば可決に必要な3分の2を超えている」という自由党の屁理屈の下に改憲した事件。これで李承晩は大統領になり続けた。

李康石:李承晩の秘書の長男で李承晩の養子。「独裁者の息子」として暴れまわった。悪評が祟ってなりすましも出てきた。李承晩の辞退から二日後の1960年の4月28日に一家無理心中した。

新潟日赤センター爆破未遂事件:1959年12月4日、李承晩政権が在日北朝鮮人の帰国を阻止する為に民団所属の在日韓国人と協力して引き起こした事件。

4・19学生革命:1960年の4月19日に行われた大規模デモ。李承晩失脚のきっかけとなった。

許政:失脚してハワイに逃げる李承晩を見送った外務部長官で、4月27日から四ヶ月間、大統領代行を務めた。

フランチェスカ・ドナー:李承晩の妻でオーストリア人。養老施設で養子と共に李承晩の臨終に立ち会う。その後の1992年3月19日にソウルで亡くなった。(92歳)


反日:初代から続く韓国の伝統。李承晩の尽力の甲斐あって今では殆どの韓国人の心に根付いており、日本に敵対姿勢を取る人を支持する傾向が出来た。その為か、韓国政府や大統領の大体は反日思想が殆ど。

ゴネ得:初代から続く韓国の伝統。ロビー活動でアメリカに三十年間ゴネ続けた事で韓国を建国する事が出来た。現代でも用日や用米などを目的にゴネる事があり、親日派と言われる人も実際は「日本を都合の良いように利用する派」、略して「用日派」だったりする。

捏造:初代から続く韓国の伝統。主に反日教育がそれに当たる。現在でも盗作従軍慰安婦問題を利用した金銭要求などで活用されている。


親日:昔からの粛清対象。李承晩は韓国ができる前から親日派の排斥に励んでいた。そして最近の韓国でも親日派は疎む対象となっている。

反民族行為処罰法:建国したばかりの韓国で作られた法律。これを用いる事で法的に親日派を処罰してきた。


韓国フェリー転覆事故:トップが逃げた繋がり。船客を置いて船長達が逃げた事で有名な事件。

文在寅:歴代最悪と言われている第19代大統領。初代とは違うやり方で半島統一を狙った。逮捕などの報復から逃げる為に検察から捜査権を剥奪した。




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