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福永洋一記念の編集履歴

2022-12-08 19:53:50 バージョン

福永洋一記念

ふくながよういちきねん

高知競馬の地方競馬重賞。

概要

高知県競馬組合が[(高知競馬場]]で施行する地方競馬の重賞競走(重賞)である。

4歳以上の高知所属馬による重賞競走で、高知競馬場のダート1600mで行われている。


かつて中央競馬の騎手として活躍した福永洋一の功績を称え、2010年に創設された。実施にあたっては福永洋一の長男である福永祐一が協賛金を提供するなど、積極的に関わり続けている。


創設のきっかけは2009年8月に高知競馬場で行われたトークショーであった。武豊赤岡修次の縁により中央競馬の騎手4人(武豊、石橋守川田将雅、福永祐一)が招かれ、「夜さ恋ナイター」の応援イベントが実施された。その際に福永祐一が「高知といえば、坂本龍馬と福永洋一だと思います。高知競馬場で、福永洋一記念を創設できれば…」とコメントを発した。この提案を高知県競馬組合が快諾し「福永洋一記念」が誕生した。レースの1着賞金など賞典奨励費は高知県競馬組合が負担し、協賛金(主に広報費)や副賞品・トロフィーなどは福永祐一が提供した。

福永洋一について

福永洋一は中央競馬で1968年に騎手としてデビュー、1970年から1978年まで9年連続リーディングジョッキーを獲得(2014年現在も歴代最長タイ記録)したほか、1978年には131勝をあげ、当時の年間最多勝記録を更新するなど「天才」と呼ばれるほどの活躍をみせていたが、1979年3月に行われた「第26回毎日杯」で競走中の落馬事故により頭部に重傷を負い、これ以降復帰は叶わず1981年に引退。2004年にはその功績を讃え騎手顕彰者に選出され、中央競馬の殿堂入りを果たした。


1948年に高知県で7人兄弟の末っ子として生を受けた洋一は母親を知らずに暮していたが、放浪癖のある父親が急逝したため、身寄りを求め姉が嫁いだ高知競馬の騎手・「松岡利男」のもとを頼る。松岡家で暮らすようになった洋一も競走馬の世話に明け暮れた。


2人の兄(福永甲福永二三雄)が騎手だったこともあり自らも騎手を志した洋一は中学2年の冬に高知を発ち、甲の師である武平三の下で暮らす。翌年、中学を卒業した洋一は平三の息子武永祥と共に東京の馬事公苑騎手養成所へ入所。卒業後は前述の通り中央競馬で活躍し、騎手顕彰者にまで選ばれた。現役時代には妻に「歳を取ったら高知に住みたい」とも語っていた。

福永祐一と高知

本競走の発案者である福永祐一自身も、小さいころは叔母にあたる洋一の姉に世話になりながらザリガニを釣るなどして、高知で少年期を過ごした。祐一が騎手になった1996年は「全日本新人王争覇戦」に出場し、高知競馬場でも騎乗していた。2014年の第5回福永洋一記念では、祐一の長女(洋一の孫にあたる)も高知競馬場へ連れてきたという。


祐一は「高知は福永家のルーツ。友人も増えたし、すっかり慣れた」と語り、2012年には高知県の観光特使へ就任するほどまでに、高知との縁を深めている。祐一は「まずは10回を目標にしたい。そのためにも、毎年内容を充実させる」として今後も「福永洋一記念」の開催継続に意欲を示している。

騎手から調教師に転向後も関わり続けていくようだ。

【祝】2600勝!!


競走条件・賞金

出走資格

サラブレッド系4歳以上(高知所属馬)

負担重量

定量(57kg、牝馬2kg減)

賞金額

1着1200万円、2着420万円、3着240万円、4着180万円、5着120万円、6着以下50万円。

副賞は福永洋一賞。

関連タグ

地方競馬重賞


福永洋一 福永祐一

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