南部晴政(史実)
南部氏は甲斐源氏・武田氏の支流。平安時代末期に南部光行が甲斐国南部郷を領したのが始まりとされ、北東北に赴き勢力を築く。
三戸南部氏出身の当主・南部安信の長男として生まれる。初名は安政。ただし後述の放火事件もあってか安信・安政(晴政)以前の家督の資料は少なく、名門だがその系譜には謎の多い一族である。
1539年、家中の領地争いが原因で、安政の裁定に不満を持った家臣の赤沼備中に居城を焼き討ちされる(一説ではこの時、南部氏の資料の多くが焼失したという)。その後、安政は上京(放火事件発生時点で既に城を発っていたとも)し当時の将軍足利義晴から一時拝領して晴政と改名する。
1541年に当主となると、まず自分に反抗した家臣らを討って居城の三戸城を再建。さらに当時分裂していた南部氏を統一して周辺の斯波氏、戸沢氏、安東氏などと争う。優れた武勇で所領を拡大し、有力一族の家臣団編入にも成功。織田信長と親交を深めるなど外交能力もあり、『三日月の 丸くなるまで 南部領』(夜に南部領に入ると、通り過ぎるころには三日月が満月になるほど広大という意味)と謳われる南部氏の最盛期を築いた。
正室との間に女児は多かったが長らく跡継ぎに恵まれず、後継者として甥かつ娘婿の南部信直を養子に迎えていたが、50を過ぎて側室との間に長男晴継を授かる。
実の子に後を継がせたい晴政は信直を疎むようになり、両者の関係は急激に悪化し「屋裏の変」と呼ばれるお家騒動が勃発する。
さらに一族で当時大浦姓を名乗っていた津軽為信が謀反を起こし、その鎮圧に失敗する。
さらに信直もまた北信愛や南長義らの重臣たちと連携して晴政に造反し、晴政は九戸一族を頼みとし、信直に対抗した。
1582年に死去(享年66歳)。晴継が後を継いだ。
一般には病死とされるが、「実際の没年は1572年であり、信直一派の謀反により晴継共々討ち滅ぼされたが、謀反の事実を隠す為に信直側によって没年を10年ずらされた」という説が存在する。
幼い晴継はその後、上記の謀反、あるいは疱瘡、もしくは暴漢に襲われいずれにせよ家督継承直後に死去。その後は北信愛の主導で信直が継ぐこととなった。
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創作物における南部晴政
信長の野望
初期~中期のシナリオでは南部家の当主。東北を代表する大名家の一つということで、シリーズはまだ全国ではなかった第一作目を除きほぼ皆勤。南部家の最大版図を築いたという点を評価されてか能力(特に戦方面)は高め。
この年代の東北の武将は戦闘能力が高い者が少ない上に武将の質も良い。本州最北端という立地も(それより北には蠣崎氏しかいない)ゲーム的には好条件なので、難易度は割と易しかったりする。ただしシナリオによっては津軽為信が謀反を起こすイベントが発生するが、屋裏の変が起こらないために南部信直・北信愛・南政義らに造反される心配はない。
南部晴政(戦国BASARA3)