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戦艦榛名の編集履歴

2016-05-27 20:24:21 バージョン

戦艦榛名

せんかんはるな

旧日本海軍の超弩級戦艦で、金剛型戦艦の3番艦。

設計図

基準排水量:26050t。

満載排水量:32100t。

全長:222m。

全幅:29.0m。

武装:45口径35.6㎝連装砲塔四基。

   50口径15.2㎝単装砲塔八基。

   12.7cm連装高角砲六基。

   25mm三連装十八基。

   カタパルト1基。

   水上偵察機3機。

装甲:水線部203㎜。

   甲板70㎜。

弾火薬庫甲板64-102mm。

速力:30ノット。

乗員:1310名


艦名の由来

榛名の艦名は、群馬県にある上毛三山の1つ、榛名山に由来する。


戦艦にも拘らず旧国名ではなく山岳名を持つ理由は、本艦を含む金剛型は当初「装甲巡洋艦」として計画されたため、一等巡洋艦の命名慣例に従ったものである。


同型艦は金剛比叡霧島


建造の経緯

本艦は当初「第二号装甲巡洋艦」として計画され、1911年4月、神戸川崎造船所(のちの川崎重工業)に発注された。本艦は、それまで海外発注か海軍工廠でしか建造されることのなかった、いわゆる主力艦として初めて民間造船所に建造発注された艦である。一方、三菱合資会社長崎造船所(のちの三菱重工業)にも「第三号装甲巡洋艦(のちの霧島)」が発注され、工程の進捗状況がほぼ同時であったことから、両社は激しい競争意識をもって建造に当たることになる。


工事もかなり進んだ1914年、1つの悲劇が起きる。この年の11月18日に機関の繋留試運転が予定されていたが、直前に故障が見つかったため予定が6日遅れることとなった。本来であれば試運転が実施されるはずだった18日の朝、機関建造の最高責任者であった川崎造船所造機工作部長・篠田恒太郎(しのだ・こうたろう)が自刃してしまったのである。遺書などは無かったが、繋留機関試験遅延の責を感じた上だということは明らかであった。当時の軍艦建造は、それほど重大な責任感を持って行われていた。


篠田の死から半年後、巡洋戦艦榛名は、同型艦霧島と同時に竣工、海軍横須賀鎮守府に引き渡された。ちなみに、なぜ榛名と霧島が同時に竣工したかと言うと、先の悲劇を重く見た海軍が、両造船所のメンツが立つよう配慮したためである。とにかく、これ以降、民間造船所でも主力艦の建造が行われるようになる。


新造時の特徴など

主機には川崎造船所と技術提携を結んでいたジョン・ブラウン社のブラウン・カーチス式直結タービンを、川崎造船で製造したものを本艦のみ搭載していた。これは一つのタービンで圧力の異なる複数のシリンダーに分けて出力するエンジンで、それぞれのシリンダーを推進軸に直結して1基辺り2本の推進軸を動かすものであった。


兵装上の特徴としては、主砲には従来のヴィッカース社製ではなく、国産の四一式36センチ砲(正確には14インチ=35.6センチ砲)が、本艦より採用された。


また、副砲は両舷の甲板よりやや低い砲郭に片舷8門計16門を新造時に装備していたが、第一次世界大戦以降、戦艦が主砲で撃ち合う状況では射程が短く射界の狭い小口径砲が利用される機会が激減し、後に重量軽減や不沈対策の名目で撤去されている。まず1932年には対空機銃増設による重量軽減のため両舷最前方の1・2番副砲を撤去、太平洋戦争中の1944年2月前後にさらに6門を撤去し、戦争後半には片舷4門計8門を残す状態となっていた。


さらに、他の金剛級戦艦同様、榛名も新造時に53.3cm魚雷発射管を片舷4門ずつ計8門装備していた。これは左右対称ではなく、左右でややズレた位置に、喫水線下に固定装備されている。当時は砲戦距離が短く想定されており破壊力の優れた魚雷を併用することが考えられたためと思われるが、砲戦距離の延長に伴って本艦の発射管が実戦で使われた記録は無い。これら発射管については後に撤去されたとも第二次改装以後も残されていたとも言われているが、新造時に装備されていた事実以外は明確な情報が見当たらないのが現状である。


艦歴

1912年3月16日、川崎重工業神戸造船所で起工。1913年12月14日進水、1915年4月19日巡洋戦艦として竣工、横須賀鎮守府に入籍。同年12月に第二艦隊第三戦隊に同型艦3隻と共に編入。


1916年、先にイギリス海軍によって導入されていた方位盤射撃照準装置(但し、試作機)を、日本海軍で初めて搭載。これは全砲門で同一目標を攻撃する際、一括して指向・発射を行う、一種のリモートコントロールシステムである。


この前後は第一次世界大戦の最中であり、日本も連合国側として参戦していたことに従い、本艦も中国方面・北支(中国北部)方面・ロシア方面などへの警備活動を行っている。


1920年9月12日、シベリア出兵支援に備え、北海道後志支庁沖にて戦闘訓練中、1番砲塔右砲内で榴弾が破裂する「膅(とう)中(内)爆発」事故が発生、15名の死傷者と船体全域に渡る損傷を負い、修理のため横須賀へと回航された。一方、第一次世界大戦中のユトランド沖海戦の結果、遠距離砲戦中に垂直落下する敵砲弾に対して巡洋戦艦における水平防御力の脆弱性が問題視され、これを改善する必要が生じたことから、折りしも修理のため入渠していた本艦にまずそれを施すこととなり、防御強化と主砲射程延長などが行われた。改装中の1921年にワシントン海軍軍縮条約が締結され、本艦を含む金剛級の代替艦と考えられていた天城型が建造中止を余儀なくされ、金剛級を近代化して第一線の戦力維持を図ることとし、ちょうど改装を一時終えて練習役務艦として現役を離れていた本艦は1924年より引き続き近代化大改装を施されることとなる。結果的に榛名は、第一次近代化改装を最初に施された艦となった。これは従来の石炭・重油混焼缶から重油専焼缶への換装や、上部構造物と船体の大幅近代化が含まれる改装であり、それまで低い司令塔と高い櫓の組合せであった艦橋が、後に日本戦艦の特徴と言われる重厚な”城郭型檣楼”(パゴダ・マスト)に改められたのも、本艦が最初であった。なお、この改装によって重量が増したため速力が25ノットに低下、このため後の1931年6月1日付で姉妹艦3隻と共に巡洋戦艦から戦艦に艦種変更された。また、金剛級全艦とも混焼缶を専焼缶へ全て換装予定であったが、予算の都合で本艦のみこの時点で混焼缶を一部残していた。これら一連の改装の結果として、本艦は日本海軍では異例の8年もの長期に渡って現役を退いていた。


一連の改装が完了した1928年、昭和天皇即位を記念してその年の12月4日に挙行された大礼特別観艦式において、本艦は天皇が座乗する御召艦を務めた。ちなみにこの年の観艦式は明治以来最も参加艦船が多く、外国からの参列艦も多かったと言われる。


1931年11月8日、天皇による熊本行幸の際にも御召艦を務めている。


満州事変により日中の緊張が高まり、1937年日中戦争に発展していく過程にあっては、本艦もしばしば中国方面への警備活動を行っている。


その様な情勢の中、折にふれ対空・航空兵装などの細かな追加改装を行いつつ、1933年9月、海軍軍縮条約失効をにらんで二度目の大規模近代化改装が施されることとなり、今度もまた同型艦では本艦が最初となった。丸1年をかけたこの第二次近代化改装では、動力部の刷新と船体・上部構造物の近代化改装が行われ、出力を新造時の倍としたことで速力も30ノットを超える高速戦艦(公式類別は飽くまで「戦艦」だが、これ以降の金剛級戦艦は一般にこう称される)として生まれ変わった。近代化改装が最も早かった本艦では砲戦距離延長に伴って高くなった後部艦橋を後部煙突と隣接させているが、その排熱の影響が大きかったことから、後に改装された霧島などでは後部艦橋を後方に傾斜させて排熱を避ける工夫を施しており、この点が本艦と姉妹艦を見分ける際の大きな特徴の1つとなっている。なお、金剛・比叡では主砲塔側面が角張っているのに対し、榛名・霧島では主砲塔側面が丸みを帯びていることも、金剛級各艦を見分ける特徴とされている(本艦は2本の煙突間の空間が他の同型艦よりもやや広いのも特徴)。


もはや対米戦争が避けられないと判断された1941年10月頃、出師準備として磁気誘導魚雷をかく乱する舷外電路と、バルジ(被弾による浸水を防ぐため舷側水線下に着けられた突出部)への水密鋼管充填などを実施した。


太平洋戦争

太平洋戦争開戦時は高間完(たかま・たもつ)大佐を艦長として第一艦隊に属し、三川軍一中将率いる第三戦隊に僚艦三隻と共に配属、同型艦金剛と第一小隊を組み南方作戦支援に回された。1941年12月4日、馬公を拠点に出撃し、陸軍の馬来上陸作戦支援を皮切りに、比島上陸作戦・蘭印(オランダ領東インド=現インドネシア)攻略作戦などを支援した。この間、シンガポールを出撃した英戦艦プリンス・オブ・ウェールズ・同巡洋戦艦レパルスを中心とする英国東洋艦隊を迎撃すべく邂逅を図るも果たせず、同艦隊が日本軍航空隊に壊滅させられるという一幕もあった(マレー沖海戦)。


1942年2月には真珠湾攻撃などを終えて回航された南雲機動部隊と合流、同型艦4隻が揃ってインド洋作戦に従事、3月1日にジャワ島近海でオーストラリア方面へ遁走する米駆逐艦エドソールを僚艦と共に砲撃により撃沈、3月7日にはクリスマス島砲撃を行った。


同年6月5日ミッドウェイ海戦では、霧島と共に機動部隊の護衛に当たるが味方空母部隊は全滅、奮戦のすえ攻撃を受け炎上する空母飛龍の乗員を救助するが、榛名自身も至近弾を受けて損傷した。本海戦帰還後、高間艦長(5月に少将昇進)が第四水雷戦隊司令官へ転属、6月22日、後任として石井敬之(いしい・たかゆき、または、けいし)大佐が艦長に着任した。また、7月14日には所属を第二艦隊(戦艦部隊を主力とする)へ移し、金剛と共に第三戦隊を再編成した(比叡・霧島は第十一戦隊を編成して第三艦隊に編入)。


同年9月、激戦化したガダルカナル方面の戦闘に参加するため前進部隊本体に編入され、トラック島へと本拠を移した。苦境に立った陸軍の要請により10月13日、金剛と共にヘンダーソン飛行場を砲撃で一時使用不能にしたことは、よく知られている。ちなみにこの折、航空支援の無い艦隊での航空基地攻撃に難色を示す第三戦隊司令官栗田健男中将に対し、山本五十六連合艦隊司令長官は「金剛・榛名が行かないと言うのなら、自分が大和・陸奥を率いて実行する」と強く説得したと言われている。


同年10月26日、ガダルカナル島を巡る一連の戦闘の1つである南太平洋海戦に参加するが、空母艦隊同士の航空戦に終始し、また主力空母部隊とは別行動であったため、戦闘の機会も無かった。


同年12月24日に第三戦隊は第三艦隊(再編された空母機動艦隊)に編入、翌1943年2月ガダルカナルからの撤収作戦(ケ号作戦)を支援する。その後いったん内地へ戻り修理や細かい改装などを施し再びトラック島へ向かうが、5月にアッツ島玉砕など北方戦局の悪化に伴って再び内地へと帰投待機し、翌月トラック島へ戻った。この間、6月14日に艦長が森下信衛(もりした・のぶえ)大佐へと移った。以降年末までトラック島やブラウン環礁方面で活動していたが、特に戦闘などは起きなかった。


1944年1月25日、戦艦大和艦長へと転任した森下艦長の後任として重永主計(しげなが・かずえ)大佐が着任。反攻作戦によりサイパン島に上陸した米軍及びそれを支援する米艦隊を撃滅すべく計画された「あ号作戦」が発動され、同年6月19日マリアナ沖海戦に参加、戦艦大和など前衛部隊の一艦として出撃するも、主力空母部隊は大損害を受け敗退、榛名も直撃弾2発を受けて損傷する。この損傷は意外に深手で、修理完了後も全速力を出すと艦尾が振動するなど「榛名」の戦力発揮に影響を与えた。損傷修理と併せて舷窓閉塞など不沈工事や対空火器の大幅増強が行われている。


同年10月フィリピン・レイテ島に上陸した米軍に対し発令された捷一号作戦に参加、本艦は栗田中将指揮の第一遊撃部隊の一艦として上陸中の米陸軍部隊を砲撃すべく進撃を続け、25日サマール島沖にて発見したスプレイグ少将指揮下の第77任務部隊との交戦、いわゆるサマール島沖海戦では米艦隊を追撃したが、前述の艦尾振動の影響により「金剛」ほどの戦果を上げることができなかった。混乱する戦局の中で栗田中将より撤退命令が下され、榛名も帰途スル海(フィリピン西方海上)において米軍の追撃により至近弾を受け損傷する。このため内地に帰投、呉にて修理を行った。同年12月20日、高雄警備府参謀副長へ転任した重永艦長(10月15日少将昇進)に代わり、軽巡洋艦矢矧前艦長・吉村真武(よしむら・まさたけ)大佐が着任するが、吉村艦長指揮のもと出撃する機会は二度と無かった。


最期

1945年(昭和20年)に入ると敗戦続く日本では艦船を運用する燃料にも事欠く状態となり、レイテ沖海戦を生き延びた本艦も修理を受けた呉で停泊するのみとなった。2月には呉鎮守府の警備艦となり、1945年3月19日、呉海軍工廠前(工廠内とも)に停泊中、ミッチャー中将率いる米第58任務部隊の艦載機による爆撃を受けたが、このときの被害は軽微だった。4月になって予備艦籍に入ると、マリアナ沖海戦後の改修で大幅に増設された対空火器や、副砲の大半及び対空指揮装置などを陸上防衛に転用のため撤去されてしまった。6月22日にB-29により直撃弾1発を受け、防空砲台となるべく呉]]の対岸・江田島小用沖に転錨、結果としてそこが最期の地となった。7月24日と28日の[[呉軍港空襲により今度はマッケーン中将率いる第38任務部隊による大規模な攻撃を受け、同様に燃料も無く為す術の無い状態の航空戦艦伊勢・日向や航空母艦天城らと共に停泊していた榛名は、2番砲塔の砲側照準による3式弾射撃などによって激しく抵抗を行ったものの20発以上の命中弾を受け浸水、大破着底した。このとき前部主砲や対空兵装の一部はなおも使用可能な状態であったというが、もはや本艦に戦う機会は無く、そのまま終戦をむかえた。なお、最期の姿は主砲塔などに縞状の迷彩を施し、艦橋には網を使ったカモフラージュを行っていたが、これらはほとんど意味をなさなかったと思われる。


なお7月28日の攻撃で、榛名は2機のB-24(タロア号、ロンサムレディー号)を撃墜した。両機の乗員は捕虜となり、広島に収容された。そして8月6日の広島原爆投下に遭遇し、尋問のため東京に送られたロンサムレディー号機長トーマス・カートライト少尉(のちテキサス農業工科大学教授、農学博士)以外の乗員は全員被爆死した(2機の乗組員では、ほかに山中に逃亡したロンサムレディー号乗員ウィリアム・アベル二等軍曹が生存している)。カートライト博士は、のち歴史研究家の森重昭氏の協力を得てこのときの顛末を『爆撃機ロンサムレディー号―被爆死したアメリカ兵』という書籍にまとめている。


呉停泊中に榛名が受けた命中弾は米戦略爆撃調査団によると、3月19日に1発、6月22日に7発、7月24日1発、7月28日に7発、他に至近弾多数というものである。残された写真では後部に大きく傾斜しており、正面からの写真では艦首左舷も大破しているのが見て取れる。右舷側は江田島に近かったことから左舷を中心に攻撃を受けたことが伺える。上記本文と米戦略爆撃調査団による命中弾数が異なるのは、日米において命中弾・至近弾の認識の違いによると思われる。


1945年11月20日除籍、1946年5月2日浮揚解体作業着手、同年7月4日解体完了。


戦艦榛名は開戦時すでに艦齢26年の老朽艦であるにも拘らず最前線にあって主要海戦の多くに参加しており、しばしば損害を受けた。その姿は、開戦直前に完成して最前線での主要海戦でもほとんど損害を負うことが無く「幸運の空母」とも賞される空母瑞鶴と対照的であるが、この2艦は駆逐艦雪風などと共に「日本海軍の武勲艦」と評されることが多い。また日本戦艦で最も多くの海戦を生き延び、その終末を解体という形で迎えたことから、諸書には「戦艦榛名は戦後復興のための資材となった」旨の記述が多くみられる。


今日に至るまで現存する榛名の史跡は2つ。

1つは兵庫県尼崎市の難波八幡神社、第二次近代化改装によって撤去されたマストの一部が設置されている。

もう1つは広島県江田島市の江田島公園、呉軍港空襲にて防空砲台として没した装甲巡洋艦「出雲」の戦没者と共に、留魂碑が祀られている。


ワールドレコード

戦艦榛名が持つ一風変わった記録として、「敵軍が戦意高揚のため虚偽の撃沈を報道した回数」が6回、というものがある。これは日本軍艦艇としてトップで、世界ランキング2位にあたる。ちなみに1位は愛称「ビッグE」こと空母エンタープライズ(USS Enterprise, CV-6)の9回。


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