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ティムールの編集履歴

2018-12-02 19:31:40 バージョン

ティムール

てぃむーる

ティムール帝国(ティムール朝)の創始者。 資料によってはチムールとも呼称する。

概要

1336年4月8日or9日生~1405年2月18日没


生い立ち

西チャガタイ・ハン国に属していたバルラス部出身のモンゴル貴族アミール・タラガイの子として

サマルカンド南部のホージャ・イルガル村にて生まれる。


若くして西チャガタイ・ハン国の有力者であるカザガンに見出されて部下となり、カザガンの暗殺後は叔父であるハージー・ベクに仕えているがこの頃より軍事的才覚を始めとしてた能力を認められるようになり、叔父の死後に後継者となった。


カザガンの孫であるアミール・フサインと共に東チャガタイ・ハン国と戦い、混乱を極める西チャガタイ・ハン国を支えたがさらに対立したアミール・フサインを打倒してマー・ワラー・アンナフルを統一し1370年にティムール帝国を創始した。



各地への勢力拡大


即位後まもなくは東チャガタイ・ハン国と抗争を繰り広げ、さらに西のホラズム地方にも進出した。1376年には亡命してきたキプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の一族であるトクタミシュを支援してキプチャク・ハン国を統一させた。


1383年にはホラーサーン地方のクルト朝を滅ぼし、1385年にはベルシアを完全に勢力下に収めた。一方でキプチャク・ハン国を統一したトクタミシュとは完全に対立関係となり、長期に渡り争う事になる。


ティムールの快進撃は以後も止まらず、1398年から99年にかけてはインド遠征を行って北部インドの中心都市であるデリーを占領、次いで西方に遠征を行いエジプトのマムルーク朝の軍を撃破し1402年にはアンカラの戦いでバヤジット1世率いるオスマン・トルコ軍を撃破した。


晩年


晩年のティムールは東方遠征を行いモンゴル高原と明の攻略を目標とし、1404年に自ら率いる遠征軍を出撃させたが程なくして病に倒れて翌年にオトラルにて病死した。


関連タグ

国王 将軍

アジア モンゴル帝国

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