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名古屋山三郎の編集履歴

2020-06-17 10:28:17 バージョン

名古屋山三郎

なごやさんさぶろう

安土桃山時代の武将。「戦国三大美少年」の一人。

概要

尾張の国人・名古屋高久の子。「名古屋山三」と呼ばれた。

母方が織田氏の縁戚だったため「織田九右衛門」とも名乗った。出雲の阿国を妻としたとされ夫婦ともども歌舞伎の祖とされる。


美少女と間違われにとられそうになったほどの美貌の持ち主として名高い。

浅香庄次郎不破万作と並び、所謂「戦国三大美少年」の一人とされる。

名越流北条氏の末裔

名古屋(那古野)氏は鎌倉幕府二代執権・北条義時の次男・名越朝時(北条泰時の弟)を祖とする名越流北条氏嫡流の末裔とされる。牧氏事件後、伊豆に追放された祖父・北条時政の屋敷だった名越邸に朝時が住んで名越を称したという。

元弘の乱で後醍醐天皇方と戦い久我畷で戦死した名越高家の子・高範を祖とすると今川了俊(貞世)の「難太平記」で伝わる。


蒲生時代

15歳の時、蒲生氏郷小姓として仕える。葛西・大崎一揆、九戸政実の乱の鎮圧で活躍し度々一番槍を着けたことから「槍師、槍師は数あれど名古屋山三は一の槍」と謳われた。しかし氏郷が死去し秀行の代に蒲生家から退去し、出家して宗圓と名乗り大徳寺に入った。


森時代

その後還俗して九右衛門と名乗り妹の岩が嫁いでいる森忠政(長可蘭丸の弟)の家臣として仕えた。

武名高いのみならず教養もあった九右衛門は忠政に気に入られ、森家中で大きな発言力を持った。それを快く思わない井戸宇右衛門とは不仲であり、津山城の築城などで度々口論など諍いを起こしたとされている。


慶長8年(1603年)に忠政から宇右衛門を殺すように命を受け、刀を賜り、喧嘩口論の末に抜刀して襲い掛かるが、逆に宇右衛門に切り伏せられ死亡する。


九右衛門の死後、子孫は森家を去り前田家に仕え姓を「名古屋」から「名越」としている。


関連タグ

戦国時代 武将 蒲生氏郷 出雲阿国 北条氏

美少年

戦国三大美少年 浅香庄次郎 不破万作

前田慶次…槍に優れかぶき者という共通点がある。

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