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玄奘三蔵の編集履歴

2011-11-01 13:51:18 バージョン

玄奘三蔵

げんじょうさんぞう

実在した中国の僧侶。または彼をモデルにしたキャラクター。

代の中国僧侶。或いはその人物を元に考案された「西遊記」の登場人物。三蔵法師と呼ばれることが多い。


史実の玄奘三蔵

仁寿2年(602年)生誕、麟徳元年2月5日(664年3月7日)没。

洛陽近郊の陳氏(地方官を歴任した士大夫)の家に生まれる。

10歳の時に洛陽の浄土寺で出家し、玄奘と名づけられた。動乱によって各地を転々としながらも、『涅槃経』と『摂大乗論』を学ぶ。

武徳元年(618年)に長安入りを果たし、後に戦乱を避けて成都に至る。その後も各地を巡り、20歳で具足戒(出家僧侶の守るべき戒律)を受ける。

「仏典の研究には原典による他ない」と決意し、また同時に仏跡の巡礼を志し、貞観3年(629年)に国禁を犯して出国。河西回廊~高昌~天山北路~中央アジア~天竺(インド)と長い距離を、時には道中の古刹にて5年に及ぶ期間学び、時には各地の仏跡を巡拝しながら旅を続けた。

そして天山南路を経て帰国の途につき、貞観19年(645年)1月、657部という膨大な経典を長安に持ち帰った。この功績が認められ、時の唐皇帝・太宗は密出国の罪を問わなかったばかりか、勅命を出して玄奘に経典の翻訳を依頼している。この時もたらされ、訳された経典は『大般若経』と呼ばれるようになる。


その業績は『大唐西域記』や『大慈恩寺三蔵法師伝』として纏められ、後に『大唐三蔵取経詩話』でフィクションを含有するようになり、最終的には『西遊記』に結実して世界中に知られるようになった。


西遊記」の玄奘三蔵

俗名は陳江流。

生まれる前に賊に父・光蕊(こうずい)を殺され母・温嬌(おんきょう)を奪われて、生まれてすぐに川に流されるが、古刹・金山寺の住職に拾われて養育され、後に同寺で受戒、「玄奘」の法名を授かった。修行の末、高僧として大成し、後に別れ別れになった温嬌とも再会を果たす。

その後も修行を続けていたが、太宗皇帝が主催した大規模な仏事「水陸大会」(すいりくたいえ)の席上で観音菩薩の命を受け、天竺へと取経の旅へ遣わされる。その際、太宗皇帝と義兄弟となった。


実は前世で釈迦如来の第二の弟子、金蝉子(こんぜんし)であったが、仏法を軽んじた罪によって下界に落とされた。玄奘三蔵が金蝉子の生まれ変わりだと言う事はあまねく妖魔の噂の種で、その肉を喰えば不老長生が得られ、その肉体と交わって元陽を受けた女怪は上位の神仙になれると信じられている(真偽は不明)。その為道中ではしばしば妖魔に狙われる。

高僧とは言え凡人である為目で見える事しか信用せず、若干頑固なところがある。その為孫悟空が倒した妖魔の変化を見抜けず悟空が人間を殺したと思い込んだり、悟空の忠告を聞かずに妖魔の手に落ちる事もしばしば。妖魔に捕らわれると為す術無くめそめそと泣きながら弟子の助けを待つのみ、と言う描写が多く、史実の玄奘三蔵とはかなりペルソナが異なると言って良い。


女性と見間違うほどの美貌の持ち主でもあり舞台やドラマではしばし女性が演じる事がある。

だが「法師」と記載されている通り、本来の性別は男である。


西域より帰還の後、未来に旃檀功徳仏(せんだんくどくぶつ)という仏に成る記別を釈迦如来より与えられる。


最遊記」の玄奘三蔵

金髪に紫の瞳を持つ美形だが、ひとたび口を開くと「死ね」「殺すぞ」といった暴言を放ち、僧でありながら仏道に帰依する気は全くなく、飲酒・喫煙・博打を嗜む破戒僧。プライドが高く、非常に気が短いため常に機嫌が悪そうな雰囲気を出している。一行の中では冷静な性格・判断力を持っているが、時には負けず嫌いで子どもっぽい一面もみられる。傲慢で非常に自己中心的だが、優れた洞察力とカリスマ性を併せ持つ。一行のリーダーとして一応の信頼を得てはいるが、信頼というよりはあまりの唯我独尊っぷりに呆れられているものに近い。確かな実力を持ってはいるものの、ものぐさで面倒事に巻き込まれるのを嫌う。

また人使いが荒く、他のメンバーは下僕だと公言している。

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