装甲攻撃機
もともとは対地攻撃用の装甲攻撃機として構想が始まった。
第一次大戦で塹壕が攻撃の妨げになったため、
あらかじめ塹壕を機銃掃射して味方の攻撃を助ける目的であった。
このような攻撃機は各国でも開発が進んでいたものの、とうとう実現した機体は無かった。
機銃の搭載を増やすと重くなり、
反撃に備えて装甲すると、今度は重すぎて飛べなくなったのだ。
Il-2はこの延長上にあると言える。
常識破りの装甲を施し、強力な機銃で武装する。
小銃くらいでは傷もつかない。機銃掃射すれば戦車も火を噴く。
まさに空飛ぶ戦車である。
(現代でもMi-24あたりが相当するかもしれない)
開発コードは『空飛ぶ戦車』
さて、戦間期に散々試作されてはモノにならなかった装甲攻撃機だが、
ソビエトは諦めずに継続していた。
だが、開発コード「LT」(空飛ぶ戦車の意)は決して順調ではなかった。
どんなに設計で努力を重ねても、700kgにもなる装甲版は重かったのだ。
液冷エンジンも出力不足であり、また冷却にも課題を抱えていた。
結局、エンジンは出力向上形が用意される事になった。
冷却器も機体下に配置して、周りを装甲で囲む事とされた。
それでも要求仕様には不十分なので、複座を単座に改修して軽量化した。
これで生産開始かと思いきや、土壇場で装甲追加となった。
生産までは本当にドタバタしていたのだ。
『パンにように必要である!』
1940年10月、生産開始命令。
要求仕様を満たす事は出来なかったが、ともかく戦力化が急がれた。
同12月、フィンランドとの冬戦争が勃発。
生産は見切り発車で急がれた。武装すら決まっていなかった。
結局、武装が決まったのは命令の翌月。11月になっていた。
1941年6月、ドイツがソビエトに侵攻。
やっと軌道に乗り始めた生産に、急ブレーキが掛かった。
工場はウラル山脈の向こうへの疎開が決定した。
一大事だった。
工場の立地だけではない。
工作機械や技師も連れて行かなくてはいけない。
また、工場の労働者も必要だ。
田舎での人集めも重要課題となった。
それから労働者の住居や食料まで。
工場責任者は死に物狂いで働いた。