正式採用まで
前任機
九九艦爆の前任は、同じく愛知航空機による九四式艦上爆撃機(D1A1)、ならびに改良型の九六式艦上爆撃機(D1A2)である。これは日本海軍最初期の急降下爆撃機であり、当時はノウハウが全くなかったことからハインケルに設計委託したものである。愛知航空機でエンジンを国産の「寿」とした上、昭和9年に「九四式艦上軽爆撃機(昭和11年に九四式艦上爆撃機へ変更)」として海軍に採用された。
昭和11年にはさっそくエンジンを「光」へと換装して強化が図られて九六式艦上爆撃機へと発展し、翌12年には中国大陸での戦いに参加するようになった。しかし、飛躍的な技術発展が毎年のように続いていた当時にあっては陳腐化も早く、昭和13年末ごろには九六式へとって替わられるようになっていった。
その九六式は出力強化のかいあって、九四式よりも更に多彩な戦果を挙げていたが、1930年代後半に複葉機では時代遅れもいいとこで、愛知航空機では一層の発展を求めて模索を続けていた。
「十一試艦上爆撃機」開発コンペ
しかし、九四式・九六式艦爆が旧式な事ぐらいは海軍にだって分かっていた。なにせ実戦で運用し、本当に出る死人や損害に耐えてたのは海軍なのだ。
昭和11年、海軍は九六式艦爆の後継機開発について、中島飛行機・三菱飛行機・愛知航空機の三社に新型艦上爆撃機の競争試作を命じた。三菱は後に辞退し、中島・愛知の競作となった。
中島案のD3Nの特徴は、愛知案と同じ全金属製という点にくわえ、「引き込み式主脚」を備えていることであった。急降下の際には主脚を引き出し、これをダイブブレーキ代わりに使おうという軽量化・兼用策である。しかし納期には間に合わず、いちおう比較審査してみても、愛知案を性能で完全に上回るに至らないというのだから、これはもう不採用しか無かった。
新しい爆撃機を作れ命じ、三社の中で一番良かった愛知航空機の機体に三菱飛行機のエンジンをつける事で決定。(試作機だけは中島のエンジン)
ドッグファイトをしようとすると機体が不安定なるという問題が起きた為ハインケル70を参考にして安定化に成功。
活躍
日本海軍初の単葉機の九九艦爆は開戦初期は搭乗員の練度と高い機体安定性が相まって各地で獅子奮迅の活躍。
アメリカ側から見れば熟練搭乗員が自由自在に動ける機体に乗っている事はすさまじい脅威だった。
高い命中度により真珠湾攻撃の時は停泊艦隊を軽々と半滅
セイロン沖海戦では英国巡洋艦のコーンウォールとドーセットシャーを20分以内に轟沈させ、その後空母ハーミーズと随伴の駆逐艦2を轟沈。
その後珊瑚海海戦やミッドウェイ海戦でも活躍した。
終わりへの路
1942年以降は日本軍の空母が減っていて、陸上から出撃するしかない状況が増えて滑走距離が長い彗星よりも九九艦爆の方が向いていた為継続して使われた。
1944年のフィリピン戦以降は降伏するまで特攻に使用されるも馬力が旧式化していた九九艦爆では戦果が挙がらなかった。
現在のパナソニックの創始者、松下幸之助が海軍トップに直談判されて作った国策会社「松下航空機」が、九九艦爆を木製で製造、練習機明星として使用する予定だった。(敗戦までに6機製造。)