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霜月騒動の編集履歴

2023-07-18 21:43:03 バージョン

霜月騒動

しもつきそうどう

霜月騒動は、執権北条貞時政権下で発生した、御家人間の権力抗争。

概要

1285(弘安8)年11月、執権北条貞時姻戚関係にあった有力御家人安達泰盛一族が、内管領平頼綱らに滅ぼされた事件。

別名・表記ゆれ

泰盛の官職から秋田城介の乱、当時の元号から弘安合戦とも言う。

事件の背景

安達氏について

権勢の確立

安達氏は頼朝挙兵以来の重臣で、頼朝の側近として活躍した安達盛長の息子景盛は、北条義時大江広元らと共に三代将軍実朝期の幕政で中心的立場を強めていく。建保六(1218)年、景盛は秋田城介(あきたじょうのすけ)に任じられる。これは、武家の名誉職であると共に、御家人として国司に就任し、北条氏の立場と同格になったことを意味する。景盛以降、安達氏は秋田城介を世襲し、秋田城介氏とも称されるようになる。

その後、出家した景盛は、明恵上人への帰依を通して次期執権北条泰時との関係を深めていく(諸説在り)。景盛の娘松下禅尼が泰時の長子時氏と結婚し、生まれた二子(経時時頼)は、2人とも執権に就任したことにより、北条の外戚としての安達氏の権力が確立されていく。

外戚としての繁栄

時頼期には、北条氏の秘密会議である寄合に景盛の息子義景が加わっている。宝治合戦の際には、景盛を中心として三浦氏追討を主導した。

建長四(1251)年4月、義景は引付衆五番頭人に就任し、幕政に於ける主導者の一人に列せられる。

その子泰盛は、父親の権力を継承し、寛元二(1253)年に上野守護、建長五(1253)年、引付衆に加わり、翌年秋田城介に任じられる。康元元(1256)年4月、引付五番頭人に就任し、同年6月、評定衆に列せられる。以降、泰盛を中心とした安達一門及びその姻戚から多くの評定衆・引付衆が任命されることになる。

元寇における恩賞奉行としての活動を始め、泰盛は御家人の権利保護を優先する政策方針を執る


弘安徳政

弘安七(1284)年4月、執権北条時宗が死亡し、7月に14歳の嫡男貞時が執権に就任する。貞時の生母は泰盛の妹であり、執権の外叔父として権威を持った泰盛により、幕府の統治権強化と御家人体制の維持を基盤とした政策が展開される。

将軍の心がけを解いた「新御式目」の制定、諸国の寺社支配の強化、将軍の領地である関東御領からの徴税、裁判制度の見直し、河川・港湾の通行税(河手・津料)の徴収禁止、御家人の所領回復といった、この時期の泰盛による強権且つ急進的な一連の改革は、当時の京都に於ける亀山院政と合わせて「弘安徳政」と呼ばれる。

一方で、同時期に北条氏の被官として発言力を増していた御内人勢力は、御家人からの所領買入や海運業の利益が大きな収入源であったため、これらの改革をよく思わなかった。

中でも貞時の乳父内管領平頼綱は、御家人擁護派の泰盛と血縁的にも対抗勢力として増長し、御内人――御家人間の平衡を保っていた時宗の死によってその溝は深まっていく。御内人に加えて、泰盛の性急な寺社領保護方針により、寺社への還付を命じられた一部御家人や公家の反感を招いたことで、泰盛は次第に政治的に孤立していく事になる。


弘安合戦

史書「保暦間記」によると、頼綱は泰盛の嫡男宗景源姓を名乗ったことを、将軍になる野心があると貞時に讒言し、泰盛討伐の命を得たという。

弘安八(1285)年11月17日、貞時の元に参上するために松谷の別邸を出発した泰盛の行く手を御内人が阻んだことをきっかけに戦が起こり、約40名の死傷者が出た。この衝突をきっかけに争乱が拡大し、将軍の御所も炎上した。

午後4時、安達勢は大敗し、泰盛とその一族500名余りが自害して果てた。

泰盛らの死を皮切りに、各地で安達氏の分家や姻戚の諸家、守護国であった上野武蔵の御家人が滅亡していく一方で、内管領平頼綱が幕政の中枢に現れる。彼は安達氏の没官領を反安達派の御家人に分配し、それまでの評定衆・引付衆の役割を形骸化させ、寄合への出席者を寄合衆として制度化するなど、実権を掌握した。

しかし、永仁元(1293)年4月、貞時によって頼綱は滅ぼされ(平禅門の乱)、その後は貞時による得宗専制体勢へと移行していく。



関連タグ

内管領 安達泰盛 平頼綱 北条貞時 得宗 弘安徳政

永仁の徳政令 北条宗方の乱

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