概要
生没:舒明天皇3年(西暦631年)?~朱鳥元年9月9日(686年)
在位:天武天皇2年(673年)~朱鳥元年9月9日(686年)
生涯
舒明天皇と皇極天皇(斉明天皇)の第二皇子で、中大兄皇子の皇弟。
天智天皇7年(西暦668年)に中大兄皇子が即位された際(天智天皇)、大海人皇子は皇太弟となり、東宮にお就きになった。
天智天皇10年(671年)、病に伏した天智天皇は大海人皇子に自らの皇子の大友皇子(後の弘文天皇)の後事を託すよう願おうとしたが、大海人皇子はこれを辞退し、出家して吉野に移られた。その年に天智天皇は崩御された。
天武天皇2年(673年)、吉野で大海人皇子とその家臣達は挙兵を決意。美濃へ下り、兵を集め、弘文天皇を擁する近江朝廷軍との戦い「壬申の乱」が起こった。大海人皇子は天照大神を遠くから拝み、戦に勝利された。
飛鳥の宮で即位し、専制的な天皇親政と皇族中心の皇親政治によって中央集権国家である「律令」の建設を進められた。八色の姓や新冠体制に位階昇進制度の制定、豪族層の官人組織化、土地と人民の公的支配などを進められた。また、大嘗祭を設け、神道の振興を促し仏教を保護し、貨幣の流通を望み(富本銭)、史実を確定して『古事記』『日本書紀』を作成するようお命じになった。
都造営には最後まで苦慮し、複都制を考え、信濃や難波が候補に上がり、奈良盆地の藤原京の建設を進められたが、完成する前に崩御された。
そして、この天武天皇の時期に君主号「天皇」、国号「日本」が生み出されたと言われる。
人物
万葉集の歌人・額田王と関係があったともされ、天智帝との三角関係になったという説もある。
なぞなぞが趣味で、庶民の芸能も好んで見たと言われる。