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ドイツ帝国

どいつていこく

1871年1月18日から1918年11月9日までヨーロッパに存在した国。Deutsches Kaiserreich。

概要編集

ドイツ帝国は、1871年1月18日から1918年11月9日まで存続した、プロイセン国王をドイツ皇帝に戴く連邦国家を指す歴史的名称である。「帝政ドイツ」または「第二帝国」とも言われる。


普墺戦争・普仏戦争を経てドイツ地方を統一、パリ郊外のヴェルサイユ宮殿でプロイセン王ヴィルヘルム1世の皇帝戴冠式が行われて成立。


第一次世界大戦末期のドイツ革命の勃発、そしてドイツ敗戦により、皇帝ヴィルヘルム2世がオランダに亡命して崩壊した。


歴史的には神聖ローマ帝国の時代から続く、数多の小国が象徴的な皇帝の元に寄り集まる国家連合体の体をこのドイツ帝国も踏襲しており、ドイツ皇帝は同時にプロイセン国王であり、プロイセン領ではない連邦領地には各々の「君主」が存在するという、今日ではあまり見られない特異な国家体型であった(現在において近いものはアラブ首長国連邦マレーシアであろうか)。

内訳で言えば、4つの王国・6つの大公国・5つの公国・7つの侯国と、3自由都市、帝国直轄州エルザス=ロートリンゲン(仏語アルザス=ロレーヌ)で構成されていた。このうちプロイセン王国領土が全体の63%を占め誰が見てもリーダー格は明らかではあったが、各「国家」は対等な関係という名目のもとにあった。

もっとも、神聖ローマ末期の余りにもバラバラな連邦体制と異なり、ある程度は中央集権国家としての体裁を整えつつあったが…先行していた西欧列強との争いに後塵を拝することとなり、これが第一次世界戦争の引き金の一つにもなった。

ドイツ革命では、皇帝ならびにプロイセン国王の地位は元より、連邦を形成する22の君主国全てにおいて君主が順次退位し、ドイツ帝国を構成していた国は全て君主制が廃止となる形で革命が完了した。


その後ドイツにはヴァイマル共和政(ワイマール共和政)が成立した。ただし、ドイツ帝国からヴァイマル共和政・ナチス・ドイツに至るまでドイツの正式な国号は変わらず、Deutsches Reich(ドイツ国)である。(Deutsches Kaiserreichはワイマール共和制時代と特に区別するために用いられる語で、当時の正式な国号ではない)

ワイマール共和制において各領邦国家は「州」とはなったがその名前においては依然「~国」という名称を使うことが多かった。その後のナチスドイツ・東西分割を経てようやくドイツは一つの州制連邦国家になったといえる(尤も、各州の自治制を重んじ中央集権的システムに重きを置かないという伝統は今現在も守られている)。



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