1885年の官制改革以前の内務大臣の名称、太政官制では太政大臣・右大臣らとともに評議に出席した。初代は大久保利通
職掌は主に地方行財政・警察・土木・衛生・殖産興業・鉄道(工部省との共管)・逓信など、内政の全般をつかさどった。大久保利通は内務卿だけでなく参議も兼職しており、太政官において主導的な役割を担っていた。さらに、佐賀の不平士族が元司法卿兼参議の江藤新平を担いで引き起こした「佐賀の乱」の際には、当時の帝国陸軍と帝国海軍を完全に指揮する立場となり、一時的とはいえ、軍の指揮権を握るまでになった。
「当時の日本軍の大将などが物申しても、大久保の迫力と権勢の前にはかわなわなかった、天皇陛下を諌めた」などの今残っている逸話が当時の内務卿の絶大さを物語る。
内務大臣
大日本帝国憲法が発布されると卿官は廃止され『内務大臣』と改称した。内務省は大久保利通が暗殺されて以降、殖産興業は農商務省に全面移管され、鉄道省、逓信省などが独立した官庁になるなど、職掌は次第に整理されていき、地方行財政・警察・土木・衛生に限られるようになった。
しかしながら、内務省は地方における総合出先機関であった道府県庁を指揮下に置いていたため、道府県庁を通じて他の官庁の職掌にも関与し続けたほか、警保局を通じて全国の警察機構を統治していたことにより、政府の内部において強い発言力と地位を確保し続けた。そのため、内務大臣は副総理格のポストとされた。