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片岡仁左衛門

かたおかにざえもん

日本の歌舞伎役者の名跡の一つ。現在の屋号は松嶋屋。当代は十五代目。
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概略

上方関西)で代々受け継がれる歌舞伎役者の大名跡。初代は延宝年間に活躍したとされ、十五代目が人間国宝に叙された時点で約330年もの歴史を誇る名跡である。

ただ、初代の子が二代目を継承して幾許もなく亡くなったとされ、それから長らく空位となっていた。途中別の歌舞伎役者による「預かり名跡」を経て、1788年に二代目淺尾國五郎が七代目を襲名し復活。当代に至るまでの系譜はこの七代目を始祖とするものである。

屋号もこれにより幾らか変遷しており、初代・二代目の屋号は不明であり、預かりである三代目以降の変遷も激しい。七代目以降は確固たる系図を有しており、以降の片岡一門の名跡は「松嶋屋」を本家の屋号としている。


初代

1656–1715

豐島春之丞の弟。当初三味線弾きで、藤川伊三郎と称する。のち山下半左衛門の門下となり、1696年には大坂岩井半四郎座の座頭となり座元もつとめた。立役。

二代目

生没年不詳

初代の子とされるが詳細は不明。仁左衛門の名跡を受け継いだが早世したとされ、ここで一旦仁左衛門の名跡は断絶する。

預三代目

生没年不詳

屋号は土佐屋でこれは五代目まで同一。藤川一門の屋号と思われる。実際に名乗ったのは「初代藤川半三郎、のち初代藤川繁右衛門」、初代の妹婿または初代の妻の弟とされる。初代藤川武左衛門の門弟とされ、二代目の早世後に仁左衛門の名跡を預かり、片岡家の三代目当主代行となるが、実際に襲名はしていない「預かり名跡」である。実悪を得意とし、元禄時代に活躍した。

伝四代目

生年不詳-1758

預三代目の養子。二代目藤川半三郎を名乗ったのち、延享四年(1747年))冬に仁左衛門を襲名したと伝わるが、詳細は不明。まもなく役者を廃業して狂言作者に転向し、藤川茶谷(ふじかわさこく)を名乗る。後に役者に復帰したとも言われるがその時の名跡も不詳であり、そもそも四代目も預かり名跡という説がありはっきりしない。

預五代目

生没年不詳

四代目の養子である三代目藤川半三郎が仁左衛門の名跡を預っていたとされる。実質五代目とされたのは七代目の襲名以後であると思われる。宝暦から明和年間、西暦で1750~70年代頃京都で活躍、敵役を得意とした。俳名は茶谷でこれは父親の名からと思われる。

預六代目

1731–89

屋号は富枡屋。京都の女形役者・三保木七太郎の門弟である二代目三保木儀左衛門(みほきぎざえもん)が仁左衛門の名跡を一時的に預っていたとされる。先代や次代との関係性ははっきりしない。ここまでが仁左衛門空白の100年間の「預かり名跡」の役者である。

七代目

1755–1837

京都に生まれた。初代淺尾國五郎の弟で自らも二代目淺尾國五郎を名乗った。最初は二代目中村十藏の門人となって中村松助、安永6年春、初代浅尾為十郎の門人となり、二代目淺尾國五郎襲名。一時期、師から破門され山澤國五郎と名乗るがその後許され名を戻す。

天明8年2月、大坂の叶雛助の許しを得て、二代目以降約70年に渡って途絶していた「片岡仁左衛門」の名跡を再興し七代目を襲名する。寛政6年には江戸にも出たが、翌年には大坂に戻り主に上方にて活躍。享年83歳。当時としてはかなりの長命であったが生涯現役であった。

門閥外の出であったが不屈の努力で松嶋屋一門の始祖としてその礎を築いた。初代片岡愛之助は実子だが早世しており、養子が八代目片岡仁左衛門を継承した。

八代目

1810–63

上方と江戸を何度か行き来し様々な役者の門下にて学んだ役者である。はじめは江戸の大名跡役者七代目市川團十郎の養子となり六代目市川新之助を襲名するが離縁。三枡岩五郎と改名。その後大坂の二代目嵐璃寛の門下となり嵐橘次郎と名乗り上方で活躍。

そこで七代目片岡仁左衛門に見初められて門人となり、天保4年に仁左衛門の養子となり、初代片岡我當(かたおかがとう)と改名し若手立役として活躍。天保9年には二代目片岡我童(かたおかがどう)を襲名。安政元年江戸に下り、上方仕込の和事の芸で大人気となる。

安政4年、江戸で八代目仁左衛門を襲名、座頭となる。文久2年秋に大坂に帰り、翌年同地にて没した。享年53。養父の七代目同様、立役から敵役老役、女形とあらゆる役柄を演じた。

贈九代目

1839-72

八代目の養子二代目片岡我當に追贈されたものである。当人は絵師の亀屋吉兵衛の次男。

はじめ四代目三枡大五郎の門人となって三枡梅丸と名乗る。嘉永4年、当時二代目我童であった八代目仁左衛門の養子となり片岡待之助と改名、その後養父とともに江戸に下り、安政3年江戸で二代目我當を襲名。文久2年には養父とともに大坂に戻り、以後は上方で活躍。和事が得意で将来を嘱望されたが、仁左衛門を継ぐ前に早世した。

後に十一代目が襲名する際に九代目仁左衛門を追贈され、これまで九代目であった先代が十代目に繰り下がった。弟が三代目片岡市蔵で、松嶋屋宗家と枝分かれした「松島屋」の現在の系譜上の始祖である。

十代目

1851-95

八代目の三男。初名は片岡土之助。以後父について修業し、慶応3年に片岡松若、明治5年に三代目片岡我童を襲名。幅広い役柄をこなす片岡家の芸風を受け継ぎ立役、敵役、女形をつとめ東西の舞台で人気を集めた。

明治28年に九代目(当時)仁左衛門を襲名するが、襲名披露興行の席で同座した初代市川右團次との間で一悶着が起こり舞台は台無しになる。これを気に病み間もなく病死してしまった。享年44。

十一代目は実弟、十二代目は甥で養子。十三代目は義理の甥。この後この十代目の系統と、弟十一代目の系統に松嶋屋宗家は分岐することになる。生前は九代目を名乗ったが、弟が十一代目を襲名する際に義兄の二代目我當に九代目を追贈したため、当代は一つ代が繰り下がって十代目となった。

十一代目

1858-1934

八代目の四男。主に立役。父が江戸に出た後に江戸で産まれた。初名は本名をそのまま名乗り初代片岡秀太郎。翌年には父や兄と共に大阪に移るが、その翌年に父は亡くなり、僅か4歳にして後ろ盾を失った。その後は地道に修行を重ね、明治7年東京(すなわち旧来の江戸)に再び戻り、明治9年3月、中村座で三代目片岡我當襲名。

その後は江戸・上方双方の舞台で活躍。鉄道が開通し、東西の行き来がしやすくなったこともこのような活動形態を可能にしたものと思われるが、以降松嶋屋が度々東京を軸に活躍する機会が増え、上方役者としての定着ぶりとしては上方成駒屋(中村雁治郎家)などに今一歩後れを取るようになる遠因ともなった。

兄が舞台の失敗後に亡くなった後、明治40年に十一代目仁左衛門を襲名。その際代数繰り下げを行ったことは上に書いた通りである。その後は東京に腰を据えて、歌舞伎座の座頭となり、五代目中村歌右衛門、十五代目市村羽左衛門とともに「三衛門」と謳われ、「團菊左」亡き後の東京歌舞伎を支えた。江戸への完全な移住は、上方のライバルでもあった初代雁治郎の圧倒的人気もあったものとされるが、五代目歌右衛門襲名に際し江戸の五代目芝翫を支持したことにも遠因があるとされる。実際には両者の仲は悪くなかったという。

一方で十一代目は気性の激しい男で、その短気故に雁治郎を含め度々他の役者と衝突しがちであった。それが原因で芝居を壊してしまうことすら度々あったが、襲名興行の失敗を引きずった兄とは対照的なエピソードと言える。またこの他、学術肌の一面もあり、これは息子の十三代目にも引き継がれた。

十二代目

1882–1946

十代目・十一代目の甥で八代目の娘の子。十代目の養子となったため十代目の系譜に数えられる。ここから当代までは十代目系統と十一代目系統の両統迭立の状態となった。門人により夫人や末息子ともども撲殺されるという悲劇的な最期で知られる。

明治18年東京・千歳座(現在の明治座)で本名の片岡東吉で初舞台を踏み、その後二代目片岡土之助を経て明治34年四代目片岡我童を襲名。十一代目没後の昭和11年に十二代目を襲名。東京歌舞伎での女形不足のため、主に十五代目市村羽左衛門の相方として東京の舞台で女形として活躍。ただし歴代の仁左衛門の例に漏れず立役・女形の双方をこなした。

最初の結婚後三男を儲けるが、うち次男は羽左衛門の養子に出した(二代目市村吉五郎)。後に先妻と死別。昭和15年、原節子の代役として主役デビューを飾っていた女優の小町とし子と結婚。小町は当時18歳で、仁左衛門との年齢差は39もあり、長男・次男より年下であり、親子以上の歳の差カップルであった。

戦後は苦境に立ち、贔屓筋も没落したとあっては戦前のような贅沢は出来ない有様であった。かつて片岡家の専属座付作家の遺児たちを引き取って門人・手伝いとしていたが、彼らを含めた使用人の配給米も幾らかせしめて生活しているほどであった。

当時の徒弟制度ではこの格差は慣習上やむを得ないものがあったが、食糧難の時代において門人は恨みを募らせていた。更に夫人はこの門人に常日頃から辛くあたり、十二代目自身も彼の書いた脚本を貶した挙句「荷物をまとめて出ていけ」と吐き捨てるほどであり、ついに恨みが溜まった門人は衝動に任せ、昭和21年3月、十二代目一家を虐殺。被害者の中には共に引き取られた妹(片岡家の手伝いであり、彼女が年端もいかないのに学校に行かせてもらえないことも怨恨の一つに繋がった)や、十二代目と後妻の間に産まれた三歳の末子も含まれており、夫妻が役者としてある程度有名だったともあり、戦後すぐの混乱が引き起こした惨事として語られた。

五人が殺害された事件だったにもかかわらず、この門人は無期懲役に留まったが、同じく悲惨な境遇にあった妹すら衝動的に殺害してしまうほど気が動転していたことや、日頃の怨恨が考慮に入れられたとされる。先妻との息子三人は当時皆成人して家を出ていたので被害から逃れたが、以後松嶋屋の主流は十一代目の系統に移ることとなった。

十三代目

1903–94

十一代目の養子。主に立役。実は安田財閥総帥の安田善三郎の三男で、生後すぐに養子に出された。安田財閥からは定期的に小遣いを貰い、戦後もあまり不自由しなかったとされる。もっともこ豊富な財力は、衰退を通り越して死滅寸前であった上方歌舞伎の最後の灯火を守る礎ともなった。

初めは本名の片岡千代之助、次に四代目片岡我當を襲名。養父の関係性から当初は東京の江戸歌舞伎で活動していたが、昭和14年に上方に舞台を移した。

十二代目が悲劇的な最期を迎えた後の昭和26年に十三代目仁左衛門を襲名するも、戦後の上方歌舞伎は著しい衰退期を迎え、これを憂いて自主公演の集まり「七人の会」をたちあげたが事実上失敗した。だがこれ以後も、上方歌舞伎の伝統の灯火を守るべく孤軍奮闘。60年代の時点では若手の二代目扇雀(現在の四代目坂田藤十郎)らが映画界に活路を求める中、私財を投じ「仁左衛門歌舞伎」と称した自主公演を決行するなど、上方歌舞伎を守るための術を惜しまなかった。

晩年においてよりその芸の評価が高まり、昭和47年には人間国宝に認定される。最晩年は緑内障に悩まされ、失明してしまうものの、なおも舞台に立ち続けた。平成6年死去、享年90歳は歴代仁左衛門でも最長寿であった。

鉄道ファンとしても知られ、鉄道友の会の理事、名誉会長なども務めた。晩年においても電車通勤していたことは映像記録にも残されている。残念ながら関西国際空港開業に伴い6年ぶりに関西地区でブルーリボン賞を受賞した南海50000系には会うことなく逝った。

夫人との間に三男五女を儲け、長男が五代目我當、次男が二代目秀太郎、そして三男が当代仁左衛門である。

贈十四代目

1910–93

十二代目の長男。歴代仁左衛門では唯一の真女形。古風な芸風で知られた。本来十二代目の跡を継いで十代目家の継嗣となるべきであったが、女形であったことや、父が惨殺されたこともあり、十三代目に名を譲って生前に仁左衛門を襲名しなかった。十三代目存命中に亡くなったこともその遠因である。しかしせめてもの矜持として、片岡我童の名を本来の代数である五代目ではなく「十三代目」として襲名、気持ちだけでも片岡家当主であるという現れであったとされる。その死後、十四代目を追贈された。

生涯未婚であった。実のところ、同性愛者であったとされ、「海老様」として知られた十一代目市川團十郎と愛人関係にあったという。先代(十二代目)團十郎が誕生するより前の戦前の話であり、後にその関係は解消されたが、十四代目は来世で共になれることを誓い、生涯茶断ちをしたとされる。次弟、六代目芦燕は既婚であったが同様に子はおらず、他家に養子に出た市村吉五郎にのみ男児が産まれたが、この子市村家橘にも娘しかいないため、十代目系統は近く断絶する見込みである。

十五代目

1944-

当代。十三代目の三男。主に立役。父の死後に十五代目を継承するまで本名の片岡孝夫で通した。長身に美形と恵まれた外見に加え、その容姿に違わぬ高い実力から人気を博し、20歳で初演した『女殺油地獄』の与兵衛が絶賛され、「大阪に孝夫あり」とまで言われた。

特に同時代を代表する女形・五代目坂東玉三郎との「孝玉コンビ」が話題を呼んだ。八人兄弟の七番目で、本来なら仁左衛門は兄が継承するはずであったが、この高い実力と容姿、人気面もあって他ならぬ父や兄の推挙を受け十五代目を継承した。

21歳で小学校時代の同級生と結婚しており、長男は片岡孝太郎、嫡孫は片岡千之助。平成27年、人間国宝に認定。父の死後は一人体制となっていた上方役者の人間国宝は、ここで再び二人に増えた。


後継者

十五代目の長男の孝太郎は女形であり、十六代目は継承しない可能性も高い。一方で孫の千之助が成長するまでの中継ぎとして一門の他の役者が後継候補に挙げられることもある。

一門の立役としては甥の片岡進之介、義甥の片岡愛之助がいる。

ただ、上に挙げた両者に跡継ぎは誕生しておらず、次の次の世代は今のところ千之助ただ一人となっている。松嶋屋の存続、ひいては上方歌舞伎の継承に向け、十五代目は孫の養育にも直接指導を欠かしていない。


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