そのため現代の女子高生、女子中学生を女学生と呼ぶことも間違いではないが、女子高の前身旧制女学校の生徒の呼称としてしばしば使われる。
そのため、黒髪、セーラー服、袴姿などの大正ロマン・昭和レトロ的なイラストが目立つ。
ここでは明治末期〜昭和初期の旧制女学校の女学生について絵を描くのに役立つと思われる情報も含めて概説する
時代背景
明治時代~昭和にかけての時代、教育制度は今のような一本道(小中高大学)ではなかった。義務教育は尋常小学校まで(今の小学校にあたる)であり、その後の進学路として高等小学校、旧制中学校、高等女学校などがあった。当時としては進路は性別によって制約があり、高等女学校は女子の最終教育機関として機能していた。5年制(4年生のことも)であり、就学の年齢は中高一貫校に近い。
時代が移る中、女学校も女学生も急速に変化し、数を増やしていった。
その性質・社会での受け取られ方
時代にもよるが、中等教育を受けられるのは成績優秀な富裕層に限られている時期もあった。難関校のお金持ちのお嬢様、といったところなのかもしれない。
成績優秀・比較的長い就学期間・思春期の女子ばっかりということで、一種独特の文化が生じた。それまでの時代になかった自由な発想・服装で彼女たちは街を闊歩したという。
当時としてはモダンで自由なその存在は中〜上流階級のきちんとした子女である一方で(当時としては)男勝り・ふしだらに見える事もあり、アンビバレントな受け取られ方をしたという。
格好
矢絣柄の小紋、海老茶色の女袴、編上げのブーツ、リボンを付けた束髪崩しやお下げ、断髪で描かれることが多い。もちろん、他にも色々なバリエーションがある。
袴姿
初期の女学生は袴ははいていなかったが、華族学校の制服を真似て流行したものと言われている。
多くの場合、海老茶や紫の袴姿と決まってはいても、それ以外(上着の柄など)は自由であることが多かったらしい。このスタイルや女学生自体の存在はそれまでなかったものであり、揶揄して海老茶式部・紫衛門などとも呼ばれた。
この服装の利点としては普通の和装に比べて大股で歩くことができることが挙げられる。
洋装が広まると共に廃れていった。
洋装
時代が移るにつれ、徐々に袴姿からセーラー服+断髪などの洋装に変化していった。セーラー服以外にも色々なものがあったという。今とそれほど変わらない。
袴もそうであるが、動きやすい服装である。
主な髪型
おでこを出すスタイルがほとんどだったようだ。
・断髪:短めのボブ。眉毛の上のあたりで切りそろえたり、73分けにしたり、ヘアピンをつけるなどした。後頭部を剃ることもあった。モダンである。
・束髪:庇髪ともいわれる、まるで椎茸のような髪型。詰め物をして大きくして結い上げる。女学生といえば束髪と言われた。
・束髪崩し:束髪の亜型。詰め物で膨らませた髪をまとめて後ろへ垂らすもの。ポニーテールとはすこし違うように見える。今ではこのスタイルのイメージが強いのかもしれない。
・お下げ:三つ編み。洋装和装共に似合うと言うことで好まれた、今も昔も変わらぬお下げ。
女学生の風習等
文通
女学生同士は毎日顔を合わせる相手であっても、下駄箱に手紙や贈り物を忍ばせてやりとりをしていたらしい。封筒などに凝っていて、可愛らしい物が好まれたという。
読書
当時はまだ漫画の時代ではなく、少女は近代文学や少女小説や詩を幅広く読んでいたという。読書家が多く、女学校の文学少女はハイカラな存在と捉えられることもあった。
エス
上級生・下級生で仲良くなっていつも連れ添い、現代でいうところの百合に近い間柄になる者も目立つようになったという。これをエス(sister sisterhood)という。当時の少女小説をみても、花物語(吉屋信子)など少女同士の恋愛の要素を含むものもある。
不良女学生
当時は学生同士の男女交際は不良行為とされたが、それでも男女関係で身を持ち崩した女学生は少なからずいたらしい。また、男性の芸能人に熱を上げること、活動写真を家族同伴でなく見るのも不良行為とされ、今よりも制約は多かったようだ。
関連書籍
乙女の港 川端康成と中里恒子の合作 :エスを題材にした少女小説。