概要
1918年にルーマニアの村の農家で生まれ、11歳で首都ブカレストへ移住。1960年代から80年代にかけての24年間にわたり、ルーマニア共産党政権の独裁者として君臨。東欧社会主義圏にあってソ連から距離を置いた自主的な外交政策を展開するが、国の人口増加のために堕胎と離婚の禁止や党や国家の要職も親族や家族らを独占させるなどの強権的な統治や個人崇拝などの政治を行なった結果、国民の怒りは爆発し、1989年、東ヨーロッパ諸国の大変動であるルーマニア革命によって権力の座を追われ、処刑された。
ルーマニア革命と最期
1989年に東欧各地で民主政権が起こった(東欧の春)。ルーマニアにもこのような動きが波及することを恐れたチャウシェスクは、ソ連軍に軍事介入を要請したがゴルバチョフ政権下のソ連はこの要請を拒否。彼はなおも権力維持を図ろうとしたが首都ブカレストを含めて全国規模で暴動が勃発。ソ連の介入がないことが確定的となったため、ルーマニア国軍もチャウシェスク政権に反旗を翻した。同年12月に起きたルーマニア革命でチャウシェスクは完全に失脚し政権は崩壊、12月25日、逃亡先のトゥルゴヴィシュテにおいて、革命側の手によって妻エレナとともに身柄を拘束され、公開処刑(銃殺刑)された。
チャウシェスクの恐るべき政治 怖い…。
・国家秘密警察『セクリタテア』の創立。ルーマニアの全土に盗聴器を設置して、民衆を恐怖に陥れた。又、孤児たちを洗脳してセクリタテアのメンバーにする一方で、全国の小学校にも授業時間にセクリタテアのメンバーを間諜として送り込み、チャウシェスク政権への不平や不満を政府に報告していた。 お前らはゲシュタポか
・ 1966年、国の人口を増やすため、人工妊娠中絶を法律で禁止とした。妊娠中絶は42歳以上の女性、もしくはすでに4人(のちに5人に変更)以上子どもを持つ母親のみ例外的に許された。ルーマニアでは5人以上子どもを産んだ女性は公的に優遇され、10人以上の子持ちともなると「英雄の母」の称号を与えられたが、殆どの女性は興味を示さず、せいぜい子ども2〜3人程度がルーマニアでは平均的であった。また、秘密裏に行われた妊娠中絶で多くの女性が障害を負ったり、亡くなったりした。
・チャウシェスクは上昇傾向にあった離婚率にも目を付け、離婚に大きな制約を設けて禁止。1960年代後半までにルーマニアの人口は増加に転じたが育児放棄によって孤児院に引き取られる子供が増えるという新たな問題が生じた。これらの子供は十分な栄養も与えられず病気がちとなり、さらに子供を死なせた場合にはその孤児院の職員の給与が減らされるため、無理な病気治療のひとつとして大人の血液を輸血され、エイズに感染する子どもが激増した。
こうした人口政策で発生した孤児たちは「チャウシェスクの落とし子」と呼ばれ、ストリートチルドレン化するなど、後々までルーマニアの深刻な社会問題となった。
誕生日
1月26日
命日
12月25日 クリスマスです