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鳥取の飢え殺しの編集履歴

2014-03-04 11:34:10 バージョン

鳥取の飢え殺し

とっとりのかつえごろし

 天正九年(西暦1581年)、羽柴秀吉が吉川経家の籠もる因幡鳥取城を包囲した作戦。

鳥取の飢え殺しとは第二次鳥取城攻めの別称である。「鳥取の渇え殺し」とも。天正六年(西暦1578年)に播磨三木城攻略戦で用いられた兵糧攻めが此方では凄惨な状況を生み出した事で有名。


飢え殺しが行われた背景

 鳥取の飢え殺しは先ず前段階として織田信長の命で羽柴秀吉が天正八年(西暦1580年)六月より、因幡国守護職である山名豊国が籠もる鳥取城を包囲した上で三ヶ月後の九月、山名豊国を降伏させた事から始まる。

 が、鳥取城家臣団は毛利家への従属を主張して山名豊国と対立する中で、豊国が織田信長と内通している事が露呈し、家臣団は鳥取城城主である山名豊国を追放して毛利氏より新たな城主を迎え入れる事を決定する。

 此処ではそのまま流して見てしまいがちであるが、過去には一国の太守を務め自身の城主でもある名門、山名氏の傍流、山名豊国を家臣団が率先して追放しているのは一つの注目点でもり、ある意味では下克上の一つとしても見て取れる。


鳥取城攻め開始

 これを受けて豊臣秀吉も鳥取城に再派兵する事を決断し、天正九年六月二十五日に鳥取城へと二万の兵数にて出立、六月二十九日に因幡国に進攻する。

 対する鳥取城は去る三月十八日、石見吉川家の吉川経家が鳥取城城主として入城。吉川経家は帝釈山(現在の太閤ヶ平、本陣山)に本陣を構えた豊臣秀吉と文字通り「顔を見合わせて」対陣する事となる。本陣同士の直線距離(鳥取城本丸と帝釈山山頂との距離)が1.5km足らずという誠に驚かされる帝釈山山頂に七月二十日、秀吉は僅かにも敵を寄せ付けず突貫で同時に帝釈山山頂も含めた十四、五の砦を瞬く間に築城し、あれよという間に鳥取城の包囲陣を完成させるのである。誠に大胆且つ素早いこの様な土木、建築職人集団は後の秀吉躍進を支える土台となる。

 さて一方、鳥取城ではの不作による高騰に流されて兵糧米の備蓄を鉄砲、弾薬へと交換しており、城兵千五百名に対して米の備蓄は二百俵しか用意されていなかった。二百俵は現代数値に換算すると1.2tという数値になるが、これは兵数千五百名当たりで換算すると一人8kgしか割り当てられない、誠に少ない量である。先年、山名豊国が籠城した折には充分であった兵糧が吉川経家赴任の以前、皮肉にも自ら以てして追放した城主が不在の間に兵糧の多くが流されていたのである。

 そのような中で追放された前因幡国守護、山名豊国の案内もあって一気に鳥取城を包囲した豊臣秀吉は、七月末から築城と築堤による頑強な包囲網を形成し、更に徹底して敵支城を攻撃し敵の兵站線を遮断して鳥取城の補給の手を完全に絶つ。加えて包囲網内にある村々を攻撃し住人を鳥取城へと逃げ込むよう仕向けた。水軍では細川藤孝らが沖合にて敵の兵站線を遮断し、鳥取城付近まで流れる千代川も河口で浅野長政が封じ込めた。毛利氏の援軍も山陰伯耆国有力国人である南条元続山陽は同じく備前国有力国人である宇喜多直家が抑えて僅かの補給も許さず、進軍の六月から僅か一ヶ月で鳥取城は兵糧が尽き始め餓死者が出始める。一人当たり8kgの米では無理も無かろう。

 鳥取城は尾根伝いに雁金山城丸山城と二つの支城を持っていたが、敵側に疲労が見られた頃、鳥取城と丸山城を連絡する雁金山城を宮部継潤が強行に攻めてこれを落城させ、雁金山城の敗残兵に周囲の村人と、飽和した逃散民や兵士達の食料は遂に絶望的となった。

 日本史上に於いて人肉を食したという記録は殆ど見られないが、その例外中の例外がこの第二次鳥取城攻めであり、日夜問わず撃ちかけられる鉄砲と鳥取城へと間断なく行われる威力偵察で鳥取城内はほとほと疲れ果て、飢餓に苦しみ助けを請う城兵は鉄砲で打ち倒され、その死体の人肉が陣中で奪い合いになるという餓鬼地獄の如き苛烈を極めた兵糧攻めから、鳥取城は天正九年十月下旬に降伏開城する。城主である吉川経家ら有力者の切腹と引き替えに士卒兵卒の助命が聞き入れられたが、「空腹の余り勢いに任せて米を喰らった兵士が胃痙攣で死亡した」という記録は目を見張るものがある。この胃痙攣で生存していた鳥取城詰めの人間が更に半数、死亡したというのである。


鳥取城、降伏開城へ

 当初、豊臣秀吉は吉川経家の処刑まで必要はなく、切腹は抗戦派の重臣である森下道誉中村春続の両名で済ませ、吉川経家は織田家に帰順させようと調整を図っていたが吉川経家の意志はげに固く、最終的には織田信長の許可を得て吉川経家を含めた森下道誉、中村春続の三名が切腹している。森下道誉、中村春続は天正九年十月二十四日に割腹、吉川経家はその翌日、十月二十五日に割腹して果て、こうして鳥取城は降伏開城するのである。吉川経家、享年三十五歳。

 尚、吉川経家が切腹する場面は克明に吉川経家の小姓である山縣長茂によって記載され、現代でも吉川経家の人となりを知る事が出来る。曰く、


行水をつかい、かねて好みの青黄の袷を着用して廣間へ出た。主従別れの盃をくみかわす。納めの盃は介錯する静間源兵衛に与えた。このとき経家は、声高に二三度からからと笑った。具足櫃に腰掛け、脇差に中巻を作らせてそれを手に取る。座中の者を見まわして、大音に云い放った。 「内々に稽古したものでもないから無調法であらうかもしれぬ」十月二十五日寅刻(午前四時)生年三十五  寛永二十年(西暦1644年)筆、「山県長茂覚書」


 辞世の句は、


武士(もののふ)の 取り伝えたる梓弓 かえるやもとの 栖なるらん


 尚、吉川経家が切腹直前、家族や本家家臣団に宛てた五通の手紙の内、三通が現存している。

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