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豊臣秀吉

とよとみひでよし

「サル」の渾名で知られる室町時代末から安土桃山時代にかけての戦国大名。群雄割拠に割れる日本を統一した人物でもある。
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概要

  • 生:天文五年(西暦1536年)
  • 没:慶長三年八月十八日(西暦1598年9月18日)


本能寺の変にて横死した主君、織田信長の経営手腕を継いで更に洗練させ、日本を中世に於いて世界でも屈指の国家レベルに僅か一代で成長させた辣腕の国家運営者。日本史上に於いても有数の、出自定かならぬ身分から天下人まで成り上がった天下無欠の出世人物でもある。

史実

織田政権初期

生まれは天文五年(西暦1536年)とされるが確かではなく、その出生は全く謎に包まれており、天皇の落胤とまで諸説ある。母であるなか(後の大政所)によると父を木下弥右衛門とし、尾張国愛知郡中村郷中中村にて生を受けたとされるが本人も自身を流民と称しており、各地を流転して小商いをしていた下層民であるのは確かな模様。
当初は木下藤吉郎と名乗り一時、今川家に仕えていた事もあったが天文二十三年(西暦1554年)頃、織田信長に仕官したとされる。織田家仕官の頃から秀吉の名を名乗っていたといわれる。
永禄四年(西暦1561年)に当時としては珍しく恋愛の末、織田家家臣浅野氏の娘ねね(「おね」とも)と結婚。美濃国攻略では蜂須賀正勝ら地侍の協力を得て要衝、墨俣砦の防衛に成功して武功を上げ、足利義昭を奉戴しての上洛でも観音寺城の戦い箕作城を攻め落とし武功を上げた。本國寺の変では京都奉行として足利義昭の救援にも赴いている。
しかし何より秀吉の武名を世に知らしめたのは、元亀元年(西暦1570年)の金ヶ崎の退き口であろう。順調に戦勝を重ねていた越前国大名、朝倉家征伐の最中に突如、離反した北近江の大名浅井長政に挟撃され、織田家主力が決死で撤退する最中、殿軍として池田勝正明智光秀と協力し朝倉軍に遅滞戦闘を仕掛け、本隊の撤兵を成功させた武威は一夜にして木下秀吉を時の人とした。退き口(撤退戦)を成功させながら自身まで京都]に生還したのは実際、瞠目に値する。 この後、秀吉は元亀元年七月に勃発した浅井・朝倉連合軍との正面衝突である姉川の戦いに参戦し、恩賞として浅井家から奪取した小谷城南直下、対浅井戦線の最前線となる横山城を与えらる大出生を果たす。姉川の役を前後して両兵衛が一人、名参謀竹中重治が木下幕僚に加わった模様。
そして浅井侵攻の前線基地を更に北の虎御前山に移し、天正元年(西暦1573年)八月初旬、一乗谷の戦いに従軍して越前国国主、朝倉義景を自害の追いこむと返す刀で小谷城に進攻。小谷城の戦いにて単独兵力三千名で堅城小谷城の虎口を抜いて僅か一日で京極丸を攻め落とし、浅井家前当主である浅井久政を自害に追いこむ。
この小谷城の戦いで湖北浅井家が滅亡すると、それまでの戦功を讃えられて木下秀吉は浅井家の旧領である近江湖北三郡、坂田郡、東浅井郡、伊香郡の計十二万石に封ぜられ、晴れて織田家中での与力大名に躍進した。
尚、この時点で木下藤吉郎秀吉は姓を改め「羽柴藤吉郎秀吉」と名乗っている。一説に寄らばこの姓は織田四天王の丹羽長秀柴田勝家の姓から一文字ずつ賜ったとされる。

織田政権中期

近江三郡を拝領した後、急速な出世に伴って家臣団の形成に迫られ妻の実家である杉原氏の杉原家次、浅野氏の浅野長吉ら多数が秀吉幕下に入っている。
三方ヶ原の戦い(元亀三年、西暦1573年)は北の浅井・朝倉連合軍に備えて不参戦であったが、武田家陣代である武田勝頼と正面衝突した長篠の戦い(天正三年、西暦1575年)には主力を率いて参戦。この戦勝によって織田信長が朝廷から官位を賜るが、織田信長は是を辞退し、代わりに主だった家臣の賜姓、任官を願い出て是が認められ、此処で羽柴藤吉郎は筑前守の位を賜り、「羽柴筑前守秀吉」となるのである。

織田政権後期

長篠の戦いが明けて対武田戦を有利に進める事が出来た織田家は、朝倉義景を討つもその後、織田信長に従って国権を得た朝倉氏元家臣団を打倒し国権を奪取した越前一向一揆の平定に入り、羽柴秀吉も是に従軍。信長越前一向一揆を根切りにする(但し一向宗の門徒全てを悉く皆殺しにした訳ではなく、実際に征伐したのは信長との和睦に反対していた教如支持派、後の大谷派のみで、是に関与していない顕如支持派、後の本願寺派や専修寺派、三門徒派は標的にしていない)。
本願寺包囲の最中にあって突如、同盟国であった越後上杉謙信が一向一揆と和睦し織田家への弓を引く(天正四年五月、越賀一和。並びに越中方面への進攻)。是によって北陸方面指揮官の柴田勝家は上杉家と一向一揆の双方を相手取る事となり、同時に加能越の親織田派、特に能登国七尾城から後詰めの要求が届き、柴田勝家を大将とした後詰め戦に羽柴秀吉も従軍する。しかし原因は定かでないが、羽柴秀吉は加能越への後詰めにあたって重大な軍務違反である無断帰陣を行い、長浜に帰参してしまうのである。是について羽柴秀吉は織田信長から大いに叱責されているが、改易や領土返上などは辛うじて免れた。

対毛利指揮官「羽柴筑前守秀吉」

羽柴秀吉は一向宗門徒が多い雑賀衆(とはいっても、実際の宗派比率では1/3程度で、あとは浄土宗と新義真言宗)と同じく、本願寺の兵站線を担っている毛利家に備える為、播磨国へと出兵。別所長治荒木村重の離反も相次いだが苦難の末、播磨の平定を終える。

参照:三木の干殺し


三木城の開城で東の憂いが断たれた秀吉は、続く因幡国対毛利戦で吉川経家が入る鳥取城を、今度は三木城攻略に二年かけた反省から前もって余剰の兵糧米を全て買い占め、更に前鳥取城城主で因幡国安堵を条件として親織田派に傾いた前因幡国国主、山名豊国の案内もあって秀吉は瞬く間に陸路、海路を完全封鎖。此処に鳥取の飢え殺しが行われ、鳥取城は僅か四ヶ月で降伏開城する事となる。

参照:鳥取の飢え殺し


さて状況は前後するが上記、三木の干殺しが展開されていた頃に備前国の有力国人である宇喜多直家、同じく伯耆国有力国人である南条元続も毛利家から離反し織田家へと味方したので、この両軍勢によって荒木村重別所長治の兵站線を切断していたのだが、この両者が倒れた後は宇喜多、南条の両名が連携して戦線を構築した事により、戦略拠点を失った毛利家の戦線は一挙に西へと押し返されてしまう。
さて鳥取城が開城した同年、羽柴秀吉は血気に逸る吉川元春との全面対決を躱し羽衣石城の南条元続を全面撤兵させつつ(馬ノ山の戦い)、一方で毛利氏の海洋前線基地であった淡路島攻略に取り掛かる。池田元助池田恒興の長男)と共に自ら渡海し是を攻略。播磨灘の制海権を握り、淡路島の国権は古参の仙石秀久に委ねた。また、安宅清康由良城の戦いで破り帰順させた事によって安宅清康が拠点としていた小豆島も支配下に置いている。
そして南条元続吉川元春に圧されて後退する最中、毛利家と大激戦を繰り広げていた宇喜多直家が天正九年二月に没し宇喜多軍の動静が怪しくなると、村上水軍も総動員した毛利家の総攻撃の前に損害を嫌って秀吉は、天正九年後半には備前国、並びに備中国から退却する決定を下す。

天下人への第一歩、中国大返しの「羽柴筑前守秀吉」

後退した戦線を巻き返す為、秀吉は天正十年三月、二万の軍勢にて備前国に再侵攻。当時は陸続きでなく島であった児島にて常山城の戦いを緒戦に、四月中旬には宇喜多家嫡男、まだ若干十二歳である宇喜多秀家(秀家の「秀」は秀吉からの偏諱。この時点で秀吉の偏諱は意味を持っていた事が伺える)が率いる宇喜多軍とも合流し、また織田信長の四男で羽柴秀吉の養子になっていた羽柴秀勝も初陣を飾ると、破竹の勢いで戦勝を重ねていく。また毛利水軍の調略も行い結果、毛利主家から毛利水軍が離反するという事態を抱え毛利家はいよいよ追い詰められていき、羽柴秀吉は堅城、備中高松城に籠もる勇将、清水宗治の攻略に着手。
この名だたる堅城、備中高松城が僅か二ヶ月で水攻めによって水没すると、毛利輝元は遂に織田家と講和を決意。しかし秀吉はこの講和交渉の最中、本能寺の変で主君、織田信長が横死した事実を知り、薄氷の講和を締結させると即座に撤退を開始、信長を討った明智光秀の討伐に兵を向けるのである。

参照:高松城の水攻め


 備中高松城の戦いで毛利氏と手早く講和交渉を纏めると、秀吉は疾風の如く馬首を返し京都へと進軍、山崎(摂津国山城国の国境)で明智光秀を討ち果たす事に成功する。後にこの迅速な撤退行動は中国大返しと呼び習わされるようになる。

参照:山崎の戦い


清洲会議から織田家の主導権争いである賤ヶ岳の戦いへ

前述の如く明智光秀を山崎の地で討ち主君の敵を討つと、家督を相続していた織田信忠迄もが自刃した事より、早急に織田家の後継者を決定する為の合議が清洲城にて開催される。是を後に清洲会議と呼ぶが、参加者は対北条戦中であった滝川一益を除き、池田恒興丹羽長秀柴田勝家の四名で行われた。
羽柴秀吉は自身が織田家を牛耳ることを目論み、当時3歳であった織田信忠の長子・三法師(後の織田秀信)を後継者として推薦し、自身が後継人を務めると提案。これに対し池田恒興丹羽長秀両名が賛成の意を表明したが、織田信孝が異を唱えた。結局、当主は三法師になったものの、後見役は織田信孝に譲ることとなった。信長の居城・安土城は本能寺の変の直後に本丸が焼失していたため、これの修築が完了するまで三法師は織田信孝の住む岐阜城に同居することになった。

武田征伐によって新しく織田領として編入された信濃国甲斐国は、信長に任命された甲斐国主である河尻秀隆が地侍の蜂起によって殺害され、更に信濃国川中島四郡(高井郡、水内郡、更科郡、埴科郡)が与えられた森長可、伊那郡の毛利秀頼といった、信濃国に封じられた織田家家臣団も地盤が定まらぬ信濃から撤退しており、空白地帯になった甲斐国信濃国両国を最終的には徳川家康が接収している(天正壬午の乱)。

しかし秀吉は同年、柴田勝家が雪で動けない(領国は越前)のをいいことに、「織田信孝安土城に三法師を戻さない」という理由で、突然織田信孝を攻撃。岐阜城を包囲した。安土城の本丸は本能寺の変で焼けて以後、廃城となるまで再建されていないことが、これまでの発掘調査で判明している。よってこれは完全に表向きの理由であった。とはいえ、数万の兵に囲まれ、柴田勝家の援軍も見込めない織田信孝は、三法師を差し出すしかなかった。

秀吉はさらに織田信雄に接近して、丹羽長秀らと共に、柴田勝家の後援を得た織田信孝と争う(賤ヶ岳の戦い)。秀吉は柴田勝家滝川一益らを破って勝利し、ますます織田家内で権力を強めた。

参照:賤ヶ岳の戦い


両雄並び立つ、小牧・長久手の戦い。

賤ヶ岳の戦いの後、秀吉はかつては形式上従っていた織田信雄に対し、「挨拶に来るように」と伝える。事実上の臣従命令である。激怒した信雄は、父の同盟相手で当時五カ国の太守であった徳川家康の協力を取り付けると、家中の親・秀吉派の家老を粛清。これをきっかけに小牧・長久手の戦いが勃発した。
 しかしこの小牧・長久手の戦いは先の賤ヶ岳の戦いとは異なって秀吉が譲歩した形での和睦となり、家康の善戦と四国九州の状況から引き出された譲歩は後の日本史に多大な影響を及ぼす事になる。
 なお、この和睦交渉中、秀吉は朝廷からの征夷大将軍への推を断わり、かつての信長と同じ官位を受けている。この時点でもなお信長の権威は健在であった。

参照:小牧・長久手の戦い


関白への第一歩、紀州征伐

天正十一年には大阪城が既に完成しており、豊後国大友宗麟はこの城を眼前にして驚愕の余り「三国無双の城である」と讃えている。小牧・長久手の戦いが終結した後の天正十二年十一月二十一日、秀吉は官位を従三位に改められて、晴れて公卿に任ぜられるのである。
この時点で秀吉は、三法師丸織田信雄よりも官位が上となり、主従関係は逆転した。明くる年の天正十三年三月十日には正二位内大臣に叙位され、三月二十一日、先の小牧・長久手の戦いにて敵側に付いた紀伊の諸勢力平定を行い紀伊全体を統治下に置くのである。

参照:第二次紀州征伐


関白への第二歩、「内大臣秀吉」の四国征伐

小牧・長久手の戦いで秀吉に反旗を翻した内の一組織である紀州諸勢力が倒れると、今度は賤ヶ岳の戦い小牧・長久手の戦い等で幾度も背後を脅かされた四国長宗我部元親に矛先が向く。天正十三年三月十日には正二位内大臣に任官された秀吉は四国にも自身の手で出兵を試みるがこの頃、秀吉は病を得ていた事によって弟、秀長に激務を諫められ、四国征伐については総大将として羽柴秀長が着任し総動員兵力数十万名、加えて毛利輝元小早川隆景宇喜多秀家といった各地の大名も動員した凄まじい規模の軍団は五月四日、進攻を開始し、七月二十五日には長宗我部元親阿波讃岐伊予の三国割譲という条件を呑んで降伏開城するのである(開戦前に大阪から提示されていた和睦条件は讃岐伊予二国の返還)。
 さてこの四国征伐が行われていた頃、朝廷では秀吉の官職をどうするか侃々諤々とした論争が為されていたが(関白相論)、最終的には秀吉が前関白である藤原氏近衛前久の猶子になる事によって天正十三年七月十一日、秀吉は関白に任ぜられる事になる。本来であれば秀吉の次の関白は再び藤原氏系の近衛信輔に譲らせる筈であったが秀吉はこの約束を反故し、自分の嫡子を関白職に就ける事を朝廷藤原鎌足の例までなぞらえて納得させ、その過程で新たに「豊臣」という姓が天正十四年九月九日、下賜される。これによって七百年続いた藤原氏族の五摂家による摂関職持ち回り制度が事実上、途絶える事になり、更に秀吉は主立った部下を率先して官職に就けるという武家関白制を取り仕切る事になるが、これは結果だけを見れば、鶴丸の夭逝、並びに豊臣秀頼の誕生が余りにも遅かった点と相まって朝廷内に要らぬ軋轢と孤立を生むだけとなった。
但しこの頃の朝廷というモノは表向きの権威すらも織田信長羽柴秀吉らに頼って再建している最中だったので、そういった問題は現代に於いてすらも話題の俎上に上がる事は先ず無いのが現実である。
 とまれ、天正十四年には豊臣秀吉が誕生するのであるが、それには先ず一年の時を待たなければならない。

豊臣秀吉の誕生


天下人の陰り、秀次事件

明・朝鮮連合軍との戦争の真っ只中である文禄4年(1595年)、秀吉は現関白である豊臣秀次を謀反の疑いがあるとして高野山に送り出家させ、そのうえで切腹させた。 そして、三条河原において、秀次の家族及び女人らも処刑されることになり、秀次の首が据えられた塚の前で、遺児(4男1女)及び側室・侍女ら併せて39名が処刑された。この中には最上義光の娘でありまだ秀次との対面もすんでいない当時15歳の駒姫も含まれていた。約5時間かけて行われた秀次の家族らの処刑後、その遺体は一箇所に埋葬され、その埋葬地には秀次の首を収めた石櫃が置かれた。その後、畜生塚と名づけられた秀次ら一族の埋葬地は慶長16年(1611年)、豪商の角倉了以によって再建されるまで、誰にも顧みられることなく放置されていた。また、秀次に連座して側近である前野長康、木村重茲等を始めとして20名以上が処罰を受け切腹、あるいは改易に処された。

なぜ突然秀吉が自身の後継者と目しており、甥かつ当代の関白でもあった秀次を切腹に追い込んだのかは諸説ある。 実子である秀頼の後継を確実なものとするため、将来邪魔になるであろう秀次を側近もろとも始末したという説、秀次が奇行に走った為という説、石田三成淀殿など秀吉側近の陰謀説が挙げられている。切腹の直接の理由である謀反について言及する説はほとんど無く、たいていは秀頼にとって秀次が邪魔だと思い込んだ秀吉が、老齢による判断力の低下もあいまって過剰かつ無差別な粛清を実行したという意見が大勢である。

そして、二度目の朝鮮出兵の最中、慶長3年(1598年)、醍醐で花見を楽しんだその年、秀吉は豊臣秀頼を輝元や家康など五大老に託して、内外に多数の火種を残したままその波乱の生涯を閉じた。

辞世の句は、

つゆとおち、つゆときえにし、わがみかな、難波のことも、ゆめの又ゆめ

流民から一代で天下人にまで駆け上った人物が最期に為した句として見るには、余りに儚きに過ぎる清廉な詩である。

偉業

秀吉が天下人として為した偉業は以下の通りである(織田信長の延長上にあるモノも含める)。

それまで日本全国でバラバラであった重さ、長さ、容積などのあらゆる単位を国内統一した。これは欧州のセンチメートル法にも先駆けた先進手法である。
政治から宗教勢力の恣意操作を一切、排除して能力主義の健全な体勢を確立した。今日の日本に於いても政治宗教色合いが他国に比べて薄いのは此処を原点とする
国家運営をそれまでの地方、中央分離式ではなく、地方の農作物生産高に応じて連動して計画できるよう、全国の生産高を正確に把握した。
  • 商工政策の充実と貨幣制度の積極導入
国家運営に於いて食料だけの運営でなく工業商業流通による立国を目指した。是によって前述の太閤検地と併せて地方国家(地方政府)の運営者にもキチンと定期収入が懐に入るよう財政の多角化も進められた。
  • 土木、灌漑技術の向上(織田信長からの継承路線)
国家運営を他国(日本の他州)からの略奪ではなく自国の生産高から計画する為、全国の農作物生産高を技術導入によって飛躍的に高めることに成功した。
  • 港湾都市の整備(織田信長からの継承路線)
流通政策の整備の為、敦賀博多大阪江戸長崎といった港湾都市を整備した。
国力を略奪による疲弊の連鎖から生産による向上へと傾注させる為、刀狩り惣無事令等で私闘禁止令を敷き、更に法治国家思想と前述の政教分離で可能な限り公平な裁定を天下に統一して施行することに成功した。
また、これを発する事により各地の大名を攻める事に大義名分が出来たという点でも大きな役割を果たしている(後北条家などはこれを利用されて滅ぼされた)。
上記の惣無事令と併せて農民、商人、宗教者を私闘による略奪に従事させる事無く、身の安全を保証する代わりに農耕、商業、流通に専念させることによって国家生産力を飛躍的に高めた。

人物

「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」
と言われるほどの自信家。

織田家家中の際には「木綿藤吉」(絹のような派手さはないが、何にでも使える便利者)とうたわれた。人の心の機微に通じ人格的には難しいところのある信長と君臣の良い関係を築いており、また信長死後の天下平定の際にも(黒田官兵衛らの助力もあったが)その才は外交・調略にいかんなく発揮された。一部では「引き継いだ織田家の勢力の誇示と硬軟使い分ける辺り、ある意味で信長以上にえげつない」という評価もある。
容姿は多くの史料で小柄な色黒の猿似だったと言われ、付け髭をしていたという。一説には6本指とも言われる。好色で女好きだったが、出自のためか上流階級の嗜みであった男色には全く興味を示さず、派遣された美少年の小姓に女兄弟はいるかと尋ねたほど。

呼び名が猿なせいか本当に猿の姿で描かれる作品が多く(後述のゲッテンカの他、戦国毒饅頭ハンベエ、戦極姫1作目等)、時たまゴリラのように描かれる場合がある。
他にも「ハゲネズミ」など数多くのあだ名が有ったらしい。

関連タグ

歴史 日本史 戦国時代 安土桃山時代 戦国武将 戦国大名 大河ドラマ 大阪 
木下藤吉郎 羽柴秀吉
織田信長 ねね 豊臣秀長 豊臣秀次 豊臣秀頼 茶々
柴田勝家 お市 明智光秀 徳川家康 毛利輝元 伊達政宗
蜂須賀正勝 竹中半兵衛 黒田官兵衛 石田三成 千利休 加藤清正 福島正則 前田利家 前田慶次 
山内一豊 小早川秀秋 真田昌幸 大谷吉継 宇喜多秀家 小西行長 古田織部 島左近

創作上の秀吉

豊臣秀吉(戦国無双)

サルのイメージそのままで小柄な人物。
声優は、現在は石川英郎。(2~) 1・1猛将伝では戸北宗寛
武器は三節棍。妻のねねには頭が上がらない。
コミカルな印象。
戦国無双』では「羽柴秀吉」だったが、『戦国無双2』になって豊臣姓に変更されている。2以降でもシナリオ前半は「羽柴秀吉」で登場することも
さらに金ピカになった。

1ではバリバリの名古屋方弁だったが、2以降は標準語よりになっている。今でも「おみゃあ(お前)」と言う事も。
雑賀孫市と戦友であり、共に笑って暮らせる世を築くために奔走する。
また、前田利家とも戦友であり、共に腕を競う場面も。

こちらの秀吉は史実でもあった、浮気癖が酷くねねを困らせている。特にお市には目がない。
あまりにも推しすぎて市から「気持ち悪い」と評された(初代)
戦友であり、タラシである孫市によく「美女の集まる場所」に誘われては乗る。多忙だろうが乗る。
そんなおねね様は主従である信長の妻、お濃様に相談を持ちかけると、「あんなヘボザル」と酷評されている。
子飼い達(三成・清正・正則)や家臣や民兵のことをよく気遣っている。

hdys
おサルさん



豊臣秀吉(戦国BASARA)

詳しくは豊臣秀吉(戦国BASARA)の項目を参照。

ネコと秀吉



豊臣秀吉(へうげもの)

声優:江原正士
愛嬌ある様子の反面、腹黒く冷徹に行動する。
信長の家臣だったが、千利休に扇動されて光秀を唆して決起を促し、さらに自ら本能寺に潜入して信長を斬殺した。
若い頃は日焼けで色黒、ヒゲが生えないのか、天下人となった後は付け髭で威厳を保っている。金ピカ趣味は終生健在で、すでに悪趣味の領域。
主人公の古田織部を旧名の「佐介」と呼び続ける親しい付き合いで、秘密の共有者であり、数少ない友としている。織部から見ると孤独な男であるが、数寄者としてのセンスは乏しい。

黄金太閤
夢のまた夢


左は関白の秀吉。右は晩年の太閤秀吉。

モンキー秀吉(歴史大戦ゲッテンカ)

本名は豊臣秀吉。装備アイテムカードの組み合わせで、ゴリ秀吉に変身する。

ゲッテンカ秀吉



羽柴・藤吉郎・秀吉(境界線上のホライゾン)

M.H.R.R.勢。詳しくは羽柴・藤吉郎・秀吉の項目を参照。

豊臣秀吉(戦国コレクション)

秀吉ちゃん


大好きな猿子。詳しくは「太閤娘・豊臣秀吉」で。

木下秀吉(信長の忍び)

信長のパシリから侍大将へと出世するが、出世後もパシリ兼務。愛嬌はあるが文も武もダメ(いわゆるボケ担当)。しかし意外性と信長に対する忠誠心は高く、ここぞという場面では勇気ある決断と行動を見せる。
不死身で、矢を何本食らっても平気だが、ねねの作る激マズ料理には耐えられない。
お市に憧れており、秀吉曰く「永遠の憧れにして片思いの相手」。
ねねのことを一番好きだと言っているが、お市のことは「殿堂入り」と言って殴られる。

時代劇NHKNHK大河ドラマ

太閤記(1965年)

はじめて主人公となった作品。当時新人であった緒形拳が演じ、後年の作品にも秀吉で出演している。

おんな太閤記(1981年)

西田敏行扮する秀吉がねね(演:佐久間良子)を呼ぶ際に用いた二人称「おかか」は流行語にもなった。

独眼竜政宗(1987年)

座頭市シリーズで知られる勝新太郎が演じた。戦国BASARA版秀吉の如く、穏和で人たらしといった従来の秀吉像を覆したキャスティングが話題となった。

秀吉(1996年)

竹中直人によるエネルギッシュ溢れる好演が人気を博した。名台詞「心配御無用!」は流行語にもなった。

戦国大戦

戦国大戦]秀吉


若き日の姿「羽柴秀吉」名義で参戦。
二つ名は「木綿藤吉」(SR)と「戦国大名」(EX)。
筺体から排出されるSR仕様と、ムックの付属版であるEX(UC)仕様が存在する。

SR仕様解説

スペックはコスト1.5 武力4/統率9の槍足軽で、特技は「攻城」と「魅力」。
こちらにはかつて「伏兵」があったが、エラッタにより現在は無い。
武力こそ控えめだが、高い統率により大筒の防衛や攻城で活躍する。
とくに統率を上げて虎口攻めをしようとする秀吉を止めることは難しい。
突入が成功すれば、「攻城」特技による「本丸攻め」(攻城ダメージ特大)を含んだ三択を敵軍に強いることが出来る。
持ち計略「一夜城」(いちやじょう)は、士気4を使用し、大筒の敵陣ラインに沿って城型の張りぼてを作る。
敵軍がいくらぶつかっても破壊されないが、所有権が敵でも味方でも点火された大筒が発射された瞬間に張りぼては消えてしまう。
大筒の防護・鉄砲隊の保護と用途は幅広だが、「発射してしまう」と消えてしまうため、防柵として扱うのであれば点火させないことが第一条件になる。

EX仕様解説

スペックはコスト1.5 武力4/統率7の弓足軽で、特技は「防柵」と「魅力」。
SRと比べて兵種が変化し、前衛での押し合いメインから後方援護に適したスタイルになった。
持ち計略の「立身への采配」(りっしんへのさいはい)は、味方の武力を底上げする。
ただし、これは秀吉は範囲に入れないのが問題だが、重ね掛けが利く。

「信長様っ!このサルの命、いかようにもお使いくだされっ!」

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