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豊臣秀吉

とよとみひでよし

「サル」の渾名で知られる室町時代末から安土桃山時代にかけての戦国大名。群雄割拠に割れる日本を統一した人物でもある。
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概要

  • 生:天文五年(西暦1536年)
  • 没:慶長三年八月十八日(西暦1598年9月18日)


本能寺の変にて横死した主君、織田信長の経営手腕を継いで更に洗練させ、戦国の乱世を統一に導いた。

前近代の日本史上においては極めて稀な、出自定かならぬ身分から天下人まで成り上がった日本一の出世頭である。

史実

織田政権初期


 足軽もしくは百姓の子として天文五年(西暦1536年)に母であるなか(後の大政所)によると父を木下弥右衛門といい、尾張国愛知郡中村郷中中村(現・名古屋市中村区)にて生を受けたらしい。
侍となることを目指して木下藤吉郎と名乗り天文二十三年(西暦1554年)頃、織田信長に仕官したとされる。永禄四年(西暦1561年)に当時としては珍しく恋愛の末、織田家家臣浅野氏の娘ねね(「おね」とも)と結婚。

秀吉の武名を世に知らしめたのは、元亀元年(西暦1570年)の金ヶ崎の退き口であろう。越前国大名、朝倉家征伐の最中に突如、離反した北近江の大名浅井長政に挟撃され、織田家主力が決死で撤退する最中、殿軍として池田勝正明智光秀と協力し朝倉軍に遅滞戦闘を仕掛け、本隊の撤兵を成功させた武威は一夜にして木下秀吉を時の人とした。
小谷城の戦いで湖北浅井家が滅亡すると、それまでの戦功を讃えられて木下秀吉は浅井家の旧領である近江湖北三郡、坂田郡、東浅井郡、伊香郡の計十二万石に封ぜられた。
尚、この時点で木下藤吉郎秀吉は姓を改め「羽柴藤吉郎秀吉」と名乗っている。

武田家陣代である武田勝頼と正面衝突した長篠の戦い(天正三年、西暦1575年)には主力を率いて参戦。此処で羽柴藤吉郎は筑前守の位を賜り、「羽柴筑前守秀吉」となるのである。
この後越前一向一揆と上杉家と一向一揆の双方との戦争にも従軍している。しかし原因は定かでないが、このとき重大な軍務違反である無断帰陣を行い、長浜に帰参、織田信長から大いに叱責されている。

そして羽柴秀吉は毛利家に備える為、播磨国へと出兵。別所長治荒木村重の離反も相次いだが苦難の末、播磨の平定を終える。

参照:三木の干殺し


三木城の開城で東の憂いが断たれた秀吉は、続く因幡国対毛利戦で吉川経家が入る鳥取城を、を完全封鎖。此処に鳥取の飢え殺しが行われ、鳥取城は僅か四ヶ月で降伏開城する事となる。

参照:鳥取の飢え殺し


しかし羽衣石城の南条元続が吉川元春に圧されて後退する最中、村上水軍も総動員した毛利家の総攻撃の前に損害を嫌って秀吉は、天正九年後半には備前国、並びに備中国から退却する決定を下す。

天下人への第一歩、中国大返しの「羽柴筑前守秀吉」


後退した戦線を巻き返す為、秀吉は天正十年三月、二万の軍勢にて備前国に再侵攻。破竹の勢いで戦勝を重ねていき、備中高松城に籠もる勇将、清水宗治の攻略に着手。
備中高松城を水攻めによって水没させると、毛利輝元は遂に織田家と講和を決意。しかし秀吉はこの講和交渉の最中、本能寺の変で主君、織田信長が横死した事実を知り、講和を締結させると即座に撤退を開始、信長を討った明智光秀の討伐に兵を向けるのである。

参照:高松城の水攻め


 備中高松城の戦いで毛利氏と手早く講和交渉を纏めると、秀吉は疾風の如く馬首を返し京都へと進軍、山崎(摂津国山城国の国境)で明智光秀を討ち果たす事に成功する。後にこの迅速な撤退行動は中国大返しと呼び習わされるようになる。

参照:山崎の戦い


清洲会議から織田家の主導権争いである賤ヶ岳の戦いへ


前述の如く明智光秀を山崎の地で討ち主君の敵を討つと、家督を相続していた織田信忠迄もが自刃した事より、早急に織田家の後継者を決定する為の合議が清洲城にて開催される。是を後に清洲会議と呼ぶ。
当時3歳であった織田信忠の長子・三法師(後の織田秀信)が後継者として推薦され、三法師の跡継ぎが決定する。この頃から主君であった織田信長の仇を討ち、信長の実子である織田秀勝を養子に迎え入れていた秀吉の権力が増大していく。

秀吉はさらに織田信雄丹羽長秀らと共に、柴田勝家の後援を得た織田信孝と争う(賤ヶ岳の戦い)。秀吉は柴田勝家滝川一益らを破って勝利を収めると降伏した信孝を切腹させた。この戦いは便宜上、織田信雄織田信孝の兄弟争いという名目で決着がついたが、秀吉本人はますます織田家内で権力を強めた。

参照:賤ヶ岳の戦い


両雄並び立つ、小牧・長久手の戦い。

賤ヶ岳の戦いの後、羽柴秀吉織田信雄の対立が表面化する。信雄は、同盟相手で当時五カ国の太守であった徳川家康の協力を取り付けると、家中の親・秀吉派の家老を粛清。これをきっかけに小牧・長久手の戦いが勃発した。
 しかしこの小牧・長久手の戦いは先の賤ヶ岳の戦いとは異なって秀吉が譲歩した形での和睦となり、信雄家康連合軍の善戦と四国九州の状況から引き出された譲歩は後の日本史に多大な影響を及ぼす事になる。なお、この和睦交渉中、秀吉は朝廷からの征夷大将軍への推を断わり、かつての信長と同じ官位を受けている。

参照:小牧・長久手の戦い


関白への第一歩、紀州征伐


天正十一年には大阪城が既に完成しており、大友宗麟はこの城を眼前にして驚愕の余り「三国無双の城である」と讃えている。天正十二年十一月二十一日、秀吉は官位を従三位に改められて、晴れて公卿に任ぜられるのである。この時点で秀吉は、三法師丸織田信雄よりも官位が上となった。

明くる年の天正十三年三月十日には正二位内大臣に叙位され、三月二十一日、先の小牧・長久手の戦いにて敵側に付いた紀伊の諸勢力平定を行い紀伊全体を統治下に置くのである。

参照:第二次紀州征伐


関白への第二歩、「内大臣秀吉」の四国征伐


小牧・長久手の戦いで秀吉に反旗を翻した内の一組織である紀州諸勢力が倒れると、今度は四国長宗我部元親に矛先が向く。

秀吉は四国にも自身の手で出兵を試みるがこの頃、秀吉は病を得ていた事によって四国征伐については総大将として羽柴秀長が着任し総動員兵力数十万名、加えて毛利輝元小早川隆景宇喜多秀家といった各地の大名も動員した凄まじい規模の軍団は五月四日、進攻を開始し、七月二十五日には長宗我部元親は降伏開城した。

豊臣秀吉の誕生と九州征伐


 さてこの四国征伐が行われていた頃、朝廷では秀吉の官職をどうするか侃々諤々とした論争が為されていたが(関白相論)、最終的には秀吉が前関白である藤原氏近衛前久の猶子になる事によって天正十三年七月十一日、秀吉は関白に任ぜられる事になる。

この過程で新たに「豊臣」という姓が天正十四年九月九日、下賜される。天正十四年には遂に豊臣秀吉が誕生するのである。

その頃九州では大友氏・龍造寺氏を下した島津義久が勢力を大きく伸ばし、島津に圧迫された大友宗麟が秀吉に助けを求めてきていた。関白となった秀吉は島津義久と大友宗麟に朝廷権威を以て停戦命令(後の惣無事令第一号)を発したが九州攻略を優勢に進めていた島津氏はこれを無視し、秀吉は九州に攻め入ることになる。天正十五年には秀吉自らが、弟・秀長と共に20万の大軍を率い、九州に本格的に侵攻し、島津軍を圧倒、島津義久を降伏させる。

小田原征伐と天下統一


天正十七年、側室の淀殿との間に鶴松が産まれ、後継者に指名する。同年、後北条氏の家臣により真田家の名胡桃城が奪取されたことをきっかけとして、秀吉は天正十八年に関東へ遠征、後北条氏の本拠小田原城を包囲した。
3か月の篭城戦の後に後北条氏は降伏した。北条氏政北条氏照は切腹し、北条氏直北条氏規は紀伊の高野山に追放された。小田原城を包囲中に、伊達政宗ら東北の大名も秀吉に恭順の意を示した。これによって、名実ともに秀吉の天下統一事業が完遂された。

後北条氏を下し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせたが、あくまで朝廷の威光を軸とする豊臣秀吉の天下取りでは、徳川家康伊達政宗島津義弘など有力大名は滅ぼすことはできず、臣従させるにとどまっている。
また前田利家細川忠興池田輝政黒田官兵衛など、旧織田信長の家臣たちの助力も仰がねばならず、秀吉個人の直臣や領土は、天下人にしては脆弱であった。これら豊臣本家の基盤の弱さと、有力諸大名の処遇が、後々の豊臣政権の崩壊へとつながって行く。
天正十九年、長く補佐役を務めていた弟・秀長と後継者に指名していた鶴松が相次いで病死した。そのため、甥・秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになる。また、同年には政治顧問ともいえる茶頭千利休も切腹させている。利休を切腹させた理由はいまだわかっていない。

文禄・慶長の役


文禄元年、当時ルソン(フィリピン)に総督府を置いていたスペイン帝国による明の植民地化が成される前に、明の征服と朝鮮の服属を目指して宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵した。初期は朝鮮軍を撃破し、漢城、平壌などを占領するなど圧倒したが、各地の義兵による抵抗や明の援軍が到着したことによって戦況は膠着状態となり、明との間に講和交渉が開始された。
しかし講和交渉は決裂。慶長二年、小早川秀秋を元帥として14万人の軍を朝鮮へ再度出兵する。二か月で慶尚道・全羅道・忠清道を制圧。京畿道に進出後、日本軍は撤収し南岸に文禄の役の際に築かれた既存の城郭の外縁部に新たに城塞(倭城)を築いて城郭群を補強した。秀吉は慶長四年にも大規模な軍事行動を計画しており、それに向けて倭城に兵糧や玉薬などを諸将に備蓄するように命じていたが、計画実施前に秀吉が死去したため実施されることはなかった。

天下人の陰り、秀次事件


明・朝鮮連合軍との戦争の真っ只中である文禄四年、秀吉は現関白である豊臣秀次を謀反の疑いがあるとして高野山に送り出家させ、そのうえで切腹させた。 そして、三条河原において、秀次の家族及び女人らも処刑されることになり、秀次の首が据えられた塚の前で、遺児(4男1女)及び側室・侍女ら併せて39名が処刑された。
なぜ突然秀吉が自身の後継としていた甥かつ当代の関白でもあった秀次を切腹に追い込んだのかは諸説あるが、老齢により判断力の低下した秀吉が、秀頼にとって秀次が邪魔だと思い込み過剰かつ無差別な粛清を実行したと見られている。

天下人の最期


二度目の朝鮮出兵の最中、慶長3年(1598年)、醍醐で花見を楽しんだその年、秀吉は豊臣秀頼を輝元や家康など五大老に託して、内外に多数の火種を残したままその波乱の生涯を閉じた。
英傑織田信長の後を継ぐ形で、農民から天下人へと登りつめた日本でも指折りの英傑であったが、
死後同じく英傑とされる徳川家康の台頭を招くことになった。

辞世の句は、

つゆとおち、つゆときえにし、わがみかな、難波のことも、ゆめの又ゆめ

流民から一代で天下人にまで駆け上った人物が最期に為した句として見るには、余りに儚きに過ぎる清廉な詩である。

しかし彼の覇業の犠牲者になった多くの人物にとっては夢などという言葉で片付けられてはたまらなかっただろう。

偉業


秀吉は天下人として様々な政策を行った(織田信長の延長上にあるモノも含める)。

それまで日本全国でバラバラであった重さ、長さ、容積などのあらゆる単位を国内統一した。これは欧州のセンチメートル法にも先駆けた先進手法である。

政治から宗教勢力の恣意操作を一切、排除して能力主義の健全な体勢を確立した。今日の日本に於いても政治宗教色合いが他国に比べて薄いのは此処を原点とする。

国家運営をそれまでの地方、中央分離式ではなく、地方の農作物生産高に応じて連動して計画できるよう、全国の生産高を正確に把握した。

  • 商工政策の充実と貨幣制度の積極導入
国家運営に於いて食料だけの運営でなく工業商業流通による立国を目指した。是によって前述の太閤検地と併せて地方国家(地方政府)の運営者にもキチンと定期収入が懐に入るよう財政の多角化も進められた。

  • 土木、灌漑技術の向上(織田信長からの継承路線)
国家運営を他国(日本の他州)からの略奪ではなく自国の生産高から計画する為、全国の農作物生産高を技術導入によって飛躍的に高めることに成功した。

  • 港湾都市の整備(織田信長からの継承路線)
流通政策の整備の為、敦賀博多大阪江戸長崎といった港湾都市を整備した。

国力を略奪による疲弊の連鎖から生産による向上へと傾注させる為、刀狩り惣無事令等で私闘禁止令を敷き、更に法治国家思想と前述の政教分離で可能な限り公平な裁定を天下に統一して施行することに成功した。
また、これを発する事により各地の大名を攻める事に大義名分が出来たという点でも大きな役割を果たしている(後北条家などはこれを利用されて滅ぼされた)。

上記の惣無事令と併せて農民、商人、宗教者を私闘による略奪に従事させる事無く、身の安全を保証する代わりに農耕、商業、流通に専念させることによって国家生産力を飛躍的に高めた。

人物

「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」
と言われるほどの自信家。

織田家家中の際には「木綿藤吉」(絹のような派手さはないが、何にでも使える便利者)とうたわれた。人の心の機微に通じ人格的には難しいところのある信長と君臣の良い関係を築いており、また信長死後の天下平定の際にも(黒田官兵衛らの助力もあったが)その才は外交・調略にいかんなく発揮された。一部では「引き継いだ織田家の勢力の誇示と硬軟使い分ける辺り、ある意味で信長以上にえげつない」という評価もある。

容姿は多くの史料で小柄な色黒の猿似だったと言われ、付け髭をしていたという。
ルイス・フロイスが書き残した史料では「多指症で右手の指が6本あった」とも言われている
る。
これを裏付ける物として、今のところ前田利家の回想録「国祖遺言」にのみ残っている。
他の資料や証拠は秀吉により破壊されたと考えられる。

好色で女好きだったが、出自のためか上流階級の嗜みであった男色には全く興味を示さず、派遣された美少年の小姓に女兄弟はいるかと尋ねたほど。

呼び名が猿なせいか本当に猿の姿で描かれる作品が多く(後述のゲッテンカの他、戦国毒饅頭ハンベエ、戦極姫1作目等)、時たまゴリラのように描かれる場合がある。
他にも「ハゲネズミ」など数多くのあだ名が有ったらしい。

関連タグ

歴史 日本史 戦国時代 安土桃山時代 戦国武将 戦国大名 大河ドラマ 大阪 
木下藤吉郎 羽柴秀吉
織田信長 ねね 豊臣秀長 豊臣秀次 豊臣秀勝 小早川秀秋 豊臣秀頼  茶々
織田信忠 丹羽長秀 池田恒興 前田利家 堀秀政 蒲生氏郷 織田秀勝
柴田勝家 お市 明智光秀 徳川家康 滝川一益 織田信雄 織田信孝 
毛利輝元 伊達政宗 上杉景勝 宇喜多秀家 大友宗麟 佐竹義重
蜂須賀正勝 竹中半兵衛 黒田官兵衛 石田三成 千利休 加藤清正 福島正則 前田慶次 足利義昭 
山内一豊 小早川隆景 真田昌幸 大谷吉継 小西行長 古田織部 島左近

創作作品における秀吉

豊臣秀吉(戦国無双)

詳しくは豊臣秀吉(戦国無双)の項目を参照。

豊臣秀吉



豊臣秀吉(戦国BASARA)

詳しくは豊臣秀吉(戦国BASARA)の項目を参照。

ネコと秀吉



豊臣秀吉(へうげもの)

声優:江原正士
愛嬌ある様子の反面、腹黒く冷徹に行動する。
信長の家臣だったが、千利休に扇動されて光秀を唆して決起を促し、さらに自ら本能寺に潜入して信長を斬殺した。
若い頃は日焼けで色黒、ヒゲが生えないのか、天下人となった後は付け髭で威厳を保っている。金ピカ趣味は終生健在で、すでに悪趣味の領域。
主人公の古田織部を旧名の「佐介」と呼び続ける親しい付き合いで、秘密の共有者であり、数少ない友としている。織部から見ると孤独な男であるが、数寄者としてのセンスは乏しい。

黄金太閤
夢のまた夢


左は関白の秀吉。右は晩年の太閤秀吉。

モンキー秀吉(歴史大戦ゲッテンカ)

本名は豊臣秀吉。装備アイテムカードの組み合わせで、ゴリ秀吉に変身する。

ゲッテンカ秀吉



羽柴・藤吉郎・秀吉(境界線上のホライゾン)

M.H.R.R.勢。詳しくは羽柴・藤吉郎・秀吉の項目を参照。

豊臣秀吉(戦国コレクション)

秀吉ちゃん


大好きな猿子。詳しくは「太閤娘・豊臣秀吉」で。

木下秀吉(信長の忍び)

信長のパシリから侍大将へと出世するが、出世後もパシリ兼務。愛嬌はあるが文も武もダメ(いわゆるボケ担当)。しかし意外性と信長に対する忠誠心は高く、ここぞという場面では勇気ある決断と行動を見せる。
不死身で、矢を何本食らっても平気だが、ねねの作る激マズ料理には耐えられない。
お市に憧れており、秀吉曰く「永遠の憧れにして片思いの相手」。
ねねのことを一番好きだと言っているが、お市のことは「殿堂入り」と言って殴られる。
後述の戦国大戦とまさかのコラボ。戦国数寄枠として一時期排出された。

時代劇NHKNHK大河ドラマ

太閤記(1965年)

はじめて主人公となった作品。当時新人であった緒形拳が演じ、後年の作品にも秀吉で出演している。

おんな太閤記(1981年)

西田敏行扮する秀吉がねね(演:佐久間良子)を呼ぶ際に用いた二人称「おかか」は流行語にもなった。

独眼竜政宗(1987年)

座頭市シリーズで知られる勝新太郎が演じた。戦国BASARA版秀吉の如く、穏和で人たらしといった従来の秀吉像を覆したキャスティングが話題となった。

秀吉(1996年)

竹中直人によるエネルギッシュ溢れる好演が人気を博した。名台詞「心配御無用!」は流行語にもなった。

戦国大戦

戦国大戦]秀吉


若き日の姿「羽柴秀吉」名義で参戦した後、『1582 日輪本能寺より出づる』にてついに独立勢力『豊臣家』を率いて再登場を果たす。

流石天下人だけあってそのカードは多数存在しており、最初のバージョンより存在する自軍の大筒の前にハリボテの城を召喚する「一夜城」を計略に持つ織田家のスーパーレアカード、バージョンアップにて追加された、日輪ゲージによって様々な効果を得る采配「日輪の天下人」を計略に持つ豊臣家のスーパーレアカードをはじめ、釣りバカ日誌のやまさき十三氏が描いた若き日の木下藤吉郎、漫画『へうげもの』より参戦した豊臣秀吉、前述の漫画『信長の忍び』より参戦した木下秀吉、といった漫画枠の秀吉の他にもムックの付録であるEXカード(イラストは一夜城と同じ)、1582へのバージョンアップの際に一新されたスターターパックの中の一枚(戦国鬼札版、イラストは一夜城と同じ)、データのみの存在で、戦国鬼札を切り替えることによって使用可能のとなる宴版、1590へのバージョンアップで追加された「刀狩の陣」を計略に持つスーパーレアと、その数なんと最多の10枚。
そのどれもがスターター以外の10枚中8枚はスーパーレア級のカードで、EXに至ってはカードの意匠こそアンコモンと同じだがムックの付録で通常排出は無い、ということで彼の優遇っぷりがよくわかる。

群雄伝ではスターター及びSR、EXの秀吉を用いて話を進めていくのだが、真っ直ぐに立身出世を目指す姿が描かれる。半ば無理矢理前田利家に織田家への口利きをしてもらったと思ったら直後に仮にも上役にあたる利家を呼び捨てして友のように振舞ったり(歳の離れたまつと利家が祝言を挙げる際は変態呼ばわりした)するなど、どこか憎めないお調子者としての姿も散見された。

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