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生涯

永禄5年(1562年)~天正19年(1591年)

北条氏政武田信玄の娘・黄梅院の子で、没落した今川氏真が北条家に転がり込み、氏直の養父となって今川家の家督と領地領有権を相続した。天正5年(1577年)に初陣を果たし、天正8年(1580年)に氏政の隠居で家督を相続し、北条家当主となった。

織田信長徳川家康と同盟して共に叔父・武田勝頼(黄梅院の異母弟)を滅ぼした。しかし、本能寺の変後は両者との同盟を破棄して織田家重臣・滝川一益に対して勝利

のちに空白地帯となった信濃へと侵攻するが、そこで叔父・上杉景勝(景勝の正室は黄梅院の異母妹・菊姫)と対陣。のちに和睦し、甲斐にて徳川軍と衝突したが、かえって翌年から両者は盟友関係を復活させ、小牧・長久手の戦いでは家康に協力した。


西日本豊臣秀吉が天下の覇権を拡大させ、秀吉が私戦を禁じた「関東惣無事令」の発布で、氏直は秀吉との対決必至と見て軍備を増強。秀吉は氏直に臣下の礼を要求し、叔父の北条氏規を代理に上洛させ、要求を拒み続けた。

天正17年(1589年)に叔父・北条氏邦の部下の猪俣邦憲真田昌幸の名胡桃城を襲撃して奪ったことから、秀吉は関東惣無事令違反であると咎め、天正18年(1590年)に秀吉による小田原征伐を決行した。強固な小田原城を中心に抵抗を続けたが、圧倒的な物量の前に敗退が続き、降伏を決意。自らの首を差し出して家臣の助命を求めたが、秀吉は氏直を助命させ、かわりに氏政と叔父の氏照を切腹させた。

高野山で謹慎を続け、天正18年(1590年)に謹慎を解かれて、関東での領地も与えられ、正式に豊臣家臣となったが、大阪に到着して病死した。享年30歳。事実上、戦国大名としての後北条氏最後の当主となったが、氏規が一応家督を継いで系譜は幕末まで続いた。


架空の北条氏直

戦国無双での北条氏直

「北条の野望、ここに潰えたか…」(2の死亡デモ)

「父上、徳川家はよほど貧しいのでしょう 橙ごときが珍しいとは…哀れな…!」(2empiresのイベント「橙」より)


武器:刀剣 山田真一(2) 岡本寛志(3)

戦国無双2より登場。この時は一般武将の帥将グラで登場するが、2empiresでは父の氏政同様に何を間違えたかグラフィックが一般武将の豪将でボイスが帥将のままというちぐはぐ仕様で登場。(父の氏政も一般武将の帥将でボイスが智将という仕様で登場していた。おそらく川中島の戦いのシナリオが最初であるため祖父北条氏康も登場してることを逆算したためだと思われる。)

2empiresではオレンジが送られてきた際に氏政がみかん(橙)と勘違いし、その時に徳川家が貧しさゆえに橙が珍しいとはと勘違いしていた。


戦国無双3』ではやはり空気扱いだが、戦国史モードの小田原征伐では前作同様父の氏政と共に秀吉に決死の突撃をかけるなど、『2』の活躍を彷彿とさせる場面がある。なお3empiresでは何故か結城秀康や今川氏真、真田信綱・昌輝などと同じく最弱武将の1人であった。


関連タグ

日本史 戦国武将 戦国時代 安土桃山時代

後北条氏 北条氏政 武田信玄 黄梅院 今川氏真 織田信長 徳川家康 豊臣秀吉 真田昌幸

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