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生涯

天文4年(1535年)~天正14年(1586年)

摂津池田家に仕える家臣の生まれだったが、三好三人衆と図って主君・池田勝正を追放して池田家を乗っ取った。後に織田信長に気に入られて織田家に仕えて、天正元年(1573年)に茨木城主となり、地元有力者の伊丹家を倒して伊丹城主となった。その後も播磨攻略や石山本願寺攻略など、織田家家臣として各地を転戦。

ところが、天正6年(1578年)に羽柴秀吉とともに中国攻めの最中に突如織田家離反を表明。明智光秀に説得されて一時は釈明のために安土城へ向かうも、側近の助言から引き返してしまう。その後は黒田官兵衛が説得に有岡城へ向かうも、逆に官兵衛を拘束し監禁。織田勢に徹底抗戦するも家臣の高山右近中川清秀が離反して孤立し、有岡城から脱出して尼崎城に移った。信長は開城すれば有岡城の妻子は助けると村重に伝えたが、村重は要求を拒否。これによって妻子や女房衆百数名が虐殺された。それでも村重は逃走を続け、毛利家に亡命。

本能寺の変で信長が倒されると、村重は帰京して豊臣秀吉に仕え、茶人として復帰し、千利休と親交を持った。しかし、キリシタンを快く思ってなかった村重は右近や小西行長らを讒訴しようとするも失敗し、さらに秀吉への悪口がねねを通じて秀吉に知られたため、出家して「荒木道薫(最初は道糞)」と号した。


謀反の理由については諸説あり、以前から親交のあった足利義昭や石山本願寺の要請で寝返ったとも、本願寺への物資横流しがばれることを恐れたためとも、官兵衛と謀略を図ろうとしたとも様々。

ちなみに、村重謀反の報せを聞いた信長は最初は信じられず、何度も許すチャンスを与えている。


荒木一族はことごとく根絶やしにされたが、乳母の機転で一人だけ幼児が生き延び、その子は後に江戸時代初期に浮世絵師として名を馳せる岩佐又兵衛である。


逸話

荒木村重を表した肖像画として、『太平記英雄伝』にある「を咥えて目を見開き半立ち」という、何とも奇抜で滑稽なものが有名である。

これは信長と村重にまつわる逸話に由来する。


村重は天正二年(1574年)に摂津国の調略を任され、これを成功させている。

この任は村重自身が名乗り出たものなのだが、このとき村重の言葉を聞いた信長は、おもむろに立ち上がると、茶菓子として出してあった餅を脇差に三つほど突き刺し、あろうことか村重に向かって突き出したのだ。

「食ろうてみよ」

この主君の度の過ぎた戯れに、場は一気に凍りつき、誰もが青ざめてしまう。

ところが、これを村重は……

「ありがたく頂戴いたします」

と礼を述べ、脇差に刺さった三つの餅を、そのまま口いっぱいに頬張って見せたのだ。

この豪胆さを見て信長は大笑いし、摂津国調略を村重に担当させた。

なお餅を刺した脇差は、村重の度胸への称賛としてそのまま与えられたという。

荒木村重のまんじゅう


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