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足利義昭

あしかがよしあき

足利義昭とは、室町幕府の第15代将軍。室町末期の政情不安の最中、織田信長らの力を借りて将軍職に就任。やがて信長と対立し畿内より追放されるも、「信長包囲網」の構築などでその後も信長に抗し続けた。(1537年-1597年)
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概要

室町時代戦国時代)・安土桃山時代政治家武将

室町幕府第15代征夷大将軍(在任:永禄11年10月18日~天正16年1月13日(1568年~1588年2月9日))。


生涯

将軍への道

室町幕府第12代将軍・足利義晴の次男として生を受ける。兄は第13代将軍・足利義輝

6歳の時に奈良興福寺一乗院門跡に入り、覚慶の法名を名乗る。本来であればこのまま僧として生涯を送るはずであったが、永禄8年(1565年)、兄・義輝が三好三人衆らの襲撃を受け殺されたことで、その運命は激変する。

後世、永禄の変と呼ばれるこの事件の直後、松永久秀らによって軟禁状態にあった覚慶は、程なくして側近の和田惟政細川藤孝らに守られ奈良を脱出。その後還俗して義秋と名乗り、義輝亡き後の足利将軍家の当主となる事を宣言したのである。


当初近江六角義賢の許可の下、矢島の地にて「矢島御所」を設けた義秋は、当地より上杉輝虎を始めとする諸国の大名に幕府再興を依頼。こうした御内書を多数発給しての外交工作は、その後も鞆幕府時代まで実に20年前後に亘って続く事となる。永禄9年(1566年)4月には次期将軍が就く官職である「左馬頭」に任官される。

義秋や和田らは、それまで敵対関係にあった六角・浅井・斎藤・織田といった諸大名を和解させ、彼等の支援の下で上洛を目指す心積もりであった。事実、和田・細川の両名の尽力で織田と斎藤が一旦は和解に応じており、同年夏には織田信長の軍が義秋を奉じて上洛の途につく手筈ともなっていた。

ところが、土壇場になって三好三人衆の調略を受けた斎藤龍興が、和睦を破って織田軍を急襲。さらにそれまで義秋を支援していた六角氏も三好三人衆と内通している事を知るに至り、義秋らのこの構想もまた頓挫を迎え、已む無く若狭武田義統、ついで越前朝倉義景を頼る事となる。しかし若狭武田氏も朝倉氏も、上洛には消極的な姿勢を見せており、結果越前にて空しく時間を空費している間に、義秋の従兄弟で三好三人衆の擁する足利義栄が、第14代将軍の座に就く事となってしまう。


再び転機が訪れたのは、元服し名を義昭と改めた後の永禄11年(1568年)夏頃の事である。当時朝倉家に仕えていた明智光秀の仲介により、一度は見切りを付けていた織田信長を再び頼る事となった義昭は、信長に奉じられて今度こそ上洛の途につく事となった。近江の浅井長政の支援もあり、信長軍は三好三人衆や六角氏といった抵抗勢力を退け、無事京都入りを果たす。かくして10月18日、朝廷からの宣下を受けた義昭は、室町幕府第15代将軍へ就任したのである。


信長との対立と京都追放

将軍就任を果たしたとはいえ、義昭にとってはまだまだ安心できる状況にはなかった。翌永禄12年(1569年)正月には三好三人衆が早くも巻き返しを図り、仮の御所としていた本圀寺に襲撃を仕掛けており、これをきっかけとして信長により烏丸中御門第(旧二条城)が整備され、万全の防御機能も備えた新たな御所として定められた。

上洛や御所の整備など、これら一連の信長の功績に対し、義昭は信長を父と称して感謝の意を示し、さらに彼の望みに応じて和泉守護にも任じている。加えて管領(管領代)の地位や副将軍へも推挙しているが、これらに関しては信長から辞退されている。


その後もしばらくの間は信長との関係は良好であったが、幕府権力の復興を目論む義昭と、あくまで「先例(※)」に則って幕府を支えようとする信長との間には見解の相違が存在し、やがて将軍権力を制限する「殿中御掟」を信長が提出した事で、両者の不和が徐々にではあるが顕在化していく事となる。

もっとも、この条文は信長が一方的に定めた訳ではなく、あくまで先例などを吟味の上で幕府再興の理念を示したものとされる。また義昭が将軍専制を大名だけでなくその家臣にまで御内書(将軍からの手紙)や密書を濫発した事で、社会的な混乱という実害が起きかけていたという事も、この掟が出された背景として指摘されている

(※ そもそも、室町幕府という機構は鎌倉幕府や江戸幕府のそれとは異なり、有力な守護大名による連立・合議によって運営され、将軍はこれら有力大名に推戴される存在という図式を基本としていた、という見解が近年の研究から一般視されている。将軍自身がこれら守護大名を凌ぐ強い権力を保持していたのは、3代将軍の義満や、6代将軍である義教の在世時などごく僅かな期間のみに過ぎず、140年前後続いてきた室町幕府の歴史上ではむしろ「例外」とも言えるものであった事に留意されたい)


いずれにせよ、あくまでも臣下の立場にある信長のこうした抑制的な行動は、主君である義昭にとっては到底容認出来かねるものであった。もっとも、これをもって即座に両者の関係が険悪なものに転じたかというと決してそうではない。元亀年間に入り、浅井・朝倉や三好三人衆、それに延暦寺や本願寺などの宗教勢力を中心とした信長包囲網が構築されると、当初は信長の要請により朝廷と共に和解を取り持ち、野田城・福島城の戦いにおいては自らも三好三人衆討伐のため出陣に及んでいる。

他方で元亀2年(1571年)に入ると、前出の諸大名・宗教勢力のみならず、甲斐の武田信玄や安芸の毛利輝元らにも御内書を下すようになる。従来こうした動きは信長との対立から、武田や毛利といった諸勢力と組んで信長の追い落としを図ったもの、即ち「信長包囲網」形成の一環として見られてきたが、こうした見解は必ずしも実情に即したものとは言い難い。

そもそも細川政元の横死を端緒として将軍職を追われた足利義澄や、細川晴元の失脚により近江への逃亡を余儀なくされた足利義晴・義輝父子のように、将軍が特定の有力者のみに依拠する体制は、その有力者の没落と連動して将軍の立場をも揺るがす危険性を孕んだものでもあった。

これらの背景や、前述した室町幕府の構造などを鑑みれば、周辺に敵を多数抱えつつも後ろ盾が信長のみという状況に危機感を抱いた義昭が、武田・毛利などへも助力を依頼したと見るのが実情と見るのが妥当であろう。そもそもこの頃の織田と、武田や毛利との関係も決して険悪というわけではなく、前者に至っては信長の養女と武田勝頼(信玄嫡男)との間での縁組などを通して同盟関係が構築されるなど、むしろ良好な状態にあったとも見られている。


とはいえこうした義昭の動きは、自らが将軍や幕府を支えていると自認していた信長の面子を潰すものに他ならず、さらにそれ以前からの改元問題や朝廷への対応の相違、そしてそれらを受けての「17条の意見書」の提出なども相俟って、両者間の関係にさらなる隙間風を吹かす格好となった。

そして元亀3年(1572年)秋、信玄による西上作戦が始まるに至り、義昭は遂に信長との協調路線を捨て、二条城にて兵を挙げた。これら一連の動きにより、信長をしばし窮地に追い込んだ義昭であったが、直後の朝倉軍の撤退や信玄の病死などにより、決定打を与えるまでには至らなかった。一方、その間信長からは子息を人質とする申し出が出されるなど、再三に亘り和睦の働きかけがなされており、実際に元亀4年(1573年)4月には一旦和睦が成るものの、7月に入ると宇治の槇島城に籠り再び信長への敵対姿勢を示した。

流石の信長もこれには堪忍袋の緒が切れたのか、槇島城は半月ほどで落とされ、義昭も信長への降伏と、京都からの追放を余儀なくされてしまう。さらに僅かに残っていた畿内の幕府直轄領の支配権も喪失し、またかつての幕臣らの多くも幕府の職務から離れて明智光秀長岡藤孝らの麾下に置かれるなど、一連の流れを経て京都における幕府機構は解体され、250年近く続いた室町幕府もここに事実上滅亡の時を迎えたのである。


鞆幕府

京都を追われたとはいえ、義昭自身は依然将軍の座にあり、実質的に天下人の座を引き継いだ信長も将軍の地位を求める事はなく、両者の間では安国寺恵瓊らを仲介として義昭の帰京に向けた動きも見られたが、義昭が人質を出すよう信長に求めた事もあり、交渉は決裂に終わっている。

その間にも河内から堺、さらに紀伊田辺へと居を移しながらも、武田・北条・上杉への和睦を呼びかけるなど、義昭はなおも信長包囲網の再構築に向けた取り組みを続けていた。そして天正4年(1576年)に入ると、毛利輝元を頼って備後(現広島県福山市)に移り、当地にて亡命政権である「鞆幕府」を樹立する。鞆の地は、義昭の先祖である足利尊氏が、新田義貞討伐の勅命を光厳上皇から受けたのを始め、足利氏にとっては様々な由縁のある地でもあった。


鞆幕府の樹立後、義昭は京都への帰還や信長打倒を目指して諸国の大名へ御内書を下し、三度信長包囲網が構築される事となった。こうした動きは信長の傘下にあった大名の一部にも影響を与え、中には信長から離反する者まで現れるなど、その後3年余りに亘って信長を苦しめる事となる。またそれに関連して、毛利氏の上洛を促すため背後の敵である大友氏の勢力を弱める事も画策しており、これが大友氏が島津氏に大敗を喫した耳川の戦いなどの遠因となったとも言われる。

しかし反信長の急先鋒であった上杉謙信の死や、石山本願寺の陥落によりまたしても包囲網が瓦解を迎え、さらに甲斐武田氏の滅亡などで情勢は着実に義昭不利へと傾く中、天正10年(1582年)6月に信長が本能寺の変(※)で倒れると、これを好機と見た義昭は輝元だけでなく、羽柴秀吉柴田勝家にも積極的な働きかけを行い、度々上洛に向けた動きを見せるようになる。しかし秀吉とも近しい小早川隆景の反対もあり、輝元は中央の戦いに関与することなく傍観に徹し、また柴田勝家も賤ヶ岳の戦いで滅びるなど、結局ここでもまた上洛の機会を逸する事となるのである。


(※ 本能寺の変に関しては義昭を黒幕と見做す説も存在するが、明智光秀が細川藤孝らに出した書状の中に、両者共通の旧主である義昭への言及が見られない事、また義昭を庇護していた毛利氏の事変発生後の動向などから、この説は現実的でないとの反論が呈されている)


京都への帰還

天正14年(1586年)、羽柴改め豊臣秀吉は関白・太政大臣に就任し、その天下統一に向けた動きもますます盛んになりつつあった。これに関連して、「秀吉が義昭を大名に取り立てるのと引き換えに、彼の猶子となる事で将軍になろうとしたものの、義昭が縁組要請を拒否した」とされる逸話が残っている。落ちぶれたとはいえ、仮にも将軍の座にあった者の気骨を感じさせる話であるが、これは林羅山の「豊臣秀吉譜」を始め、後世語られるようになった巷説に過ぎないとされる。さらに言えば天正12年(1584年)、既に秀吉は朝廷から征夷大将軍への任官を勧められており、これを自ら断っていたという経緯もあった(「多聞院日記」より)。

その後、秀吉が薩摩の島津氏の征伐に乗り出すと、義昭も将軍として島津義久に対し度々和睦を勧告、九州平定に向かう途上では秀吉も備後の津之郷にて義昭と対面している。やがて島津氏が秀吉の軍門に下るに至り、義昭もようやく京都への帰還を果たした。時に天正15年(1587年)10月の事である。翌天正16年(1588年)正月には将軍職も辞し、出家して名を昌山(道休)と号した。

晩年は秀吉の御伽衆として良き話相手となったとされ、また槇島に一万石の領地を与えられ、大大名以上の待遇を持って接せられた。文禄・慶長の役にも秀吉たっての要請で、旧奉公衆からなる200の軍勢を従え肥前名護屋まで参陣している。慶長2年8月28日(1597年10月9日)、大坂(もしくは鞆とも)にて死去。享年61、歴代の室町幕府将軍としては最も長命であった。


義昭の死後、足利将軍家は嫡男の義尋(大乗院義尋)の子らが仏門に入り子を成さなかったため、一般的にはこれをもって断絶したとされる。また義尋以外にも一色義喬や永山義在(休兵衛)など、義昭の子息と伝わる人物も複数存在するものの、いずれもその出自を決定付ける論拠に乏しいのが実情である。


創作における足利義昭

信長の野望

兄の義輝と同時に戦国群雄伝から初登場。近年の作品では信長包囲網の首謀者であることなどを評価され、知略・政治に優れた武将となっている。兄と共に戦場に出せば互いの弱点を補える。作品のシナリオによっては兄と同じく最初から征夷大将軍についていることもあり、さまざまな恩恵を受けられる。


戦国無双

武器:薙刀(2Empires) 槍(3以降) 刀剣(4Empires) 声:福原耕平(2Empires) 山田真一(3Empires) 宮坂俊蔵(4)


将軍家の血に刃向かうとは謀反人め!」(4Empires特殊台詞)


初登場の2Empiresでは公家ボイスのモブ武将の1人として登場していた。『3Empires』では声が変更されて再登場。基本的に若武者の顔モブ(毛利輝元などのモブ武将と同様)で、イベントではオカマ口調で喋るが、戦場に出すと何を血迷ったのか知将ボイス化(その上、義輝と異なり特殊台詞無し)する。4で特殊モブ化。主に織田の章に登場し、基本的に通常のセリフを喋るが、窮地に陥るとオカマ口調に変化する。


4Empiresでは兄・義輝同様に固有武将の1人として登場しており、武器の変更と特殊台詞が追加された。特殊台詞を喋る時はやや怯えた口調(台詞字幕の表記は無いが「ひぃぃ!」と言ってから上記の特殊台詞)で喋る。


5では固有武将として登場。

無双奥義・無双秘奥義の文字…【公】『将』

区分:固有武将

得意武器:刀

所属:足利将軍家

CV:三野雄大

将軍。臆病な性格。



殿といっしょ

短身痩躯で見るからに頼りない風貌の青年。信長を頼って尾張に向かうが、当の信長からは「焼き討ちの名目」くらいにしか思われておらず、とんでもなく下に見られている。

やがて細川幽斎に唆されて信長に憎悪を滾らせ、一方的に織田家を離脱する。

明智光秀は「朝倉家を見捨てた裏切者」として警戒しており、信長が煽るもんだから日に日に猜疑心が強くなっている。


信長の忍び

超がつくほどの野心家で、語尾には「のだ」を付ける。一見自宅に攻め込まれても駄洒落を連発するなどアホそうであるが、己の保身と利益の為であればどんな艱難辛苦も汚れ役も辞さないかなりの厄介者(とウザさ)。信長からは「出世の道具」としか思われていないことに気付くと、彼を討ち取るために石山本願寺武田家などあらゆる敵対勢力に協力要請として手紙を書きまくった。実の兄・義輝を殺した松永久秀にまで協力を懇願しており、内心自分が将軍になれる可能性を作ったということでそこまで嫌ってはいなかったらしい。曰く「昨日の敵は今日の友、乱世ではよくあること」。

しかしあまりに反信長路線を突っ走ったため、腹心の細川藤孝にうっかり「将軍の座を奪われるくらいなら乱世のほうがましなのだ!!」と口走ってしまってしまい、堪忍袋の緒が切れた細川一門の離脱を招いてしまう。その結果、槇島城の戦いでは織田軍に包囲されて1日で落城、降伏に追い込まれ、土下座させられた末に「貴様など殺すにも値せぬ」と吐き捨てられた挙句追放される(これにより室町幕府は実質的に滅亡した)。


…が、全く懲りておらず、『軍師黒田官兵衛伝』では毛利家に居着いて信長や秀吉の軍勢を倒そうと躍起になっている。『余は引き続き各地の大名に打倒信長を呼びかけるのだ!!誰に手紙書こっかなー島津…伊達…ダメもとで明智とか?


戦国乙女

お絵描き練習 (足利義昭)

か わ い い

13代将軍・足利ヨシテルの実弟で、ヨシテルの失脚に伴い15代将軍に任ぜられた10歳美少年。落魄していた自分を将軍の座に着かせてくれた明智ミツヒデの事を深く信頼している(所謂おねショタである)。


信長のシェフ

信長の力で京に戻れたが自信を軽んじる信長を敵視しており様々な勢力に命令し信長の排除を画策する。ケンの事は悪く思っておらず自身の手元に置いておきたいと思っているが信長の命令を受けたケンの料理で度々追い込まれている。


戦極姫

シリーズ3作目に登場。将軍としての覇気を感じさせる姉とは違いその生き方から心を閉ざしており今一つ人望がない。


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足利義昭(アンサイクロペディア)


関連タグ

義昭 手紙


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