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明智光秀

あけちみつひで

戦国~安土桃山時代の武将。織田信長に仕えた重臣の一人だが、後に反旗を翻し「本能寺の変」を起こした。
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概要

生年不明(後述)~1582年7月2日(天正10年6月13日)


戦国時代、安土桃山時代に活躍した戦国武将

別名・惟任日向守。家紋桔梗紋。


尾張の大名・織田信長に仕え、その覇業を支える重臣の一人であったが、後世に「本能寺の変」として伝わる謀反を引き起こした。こうした経緯から日本史(とくに信長や秀吉の時代)を語る上では必ず名が触れられる非常に有名な一人だが、その半生は謎に包まれている。


2020年には光秀を主人公とする第59作目の大河ドラマ麒麟がくるが放送。謀反人の代名詞として知られる男を戦国系大河の主人公に据えたということで話題になった。


生涯

出生~織田家仕官

清和源氏の土岐氏の支流・明智家の明智光綱の子として生まれたという。幼名は彦太郎

生年については通説では享禄元年(1528年)とされる。しかしこれは後世の作である辞世の句から逆算したものであり、不確かなものである。他説として当代記による永正12年(1515年)の説、武将としての活動記録と照らし合わせて天文8年(1540年)という説も有力視されている。

出身地も諸説あるが、岐阜県可児市明智城が有力とされている。青年期のおける光秀の行動は資料に乏しい。つまり、わからないことだらけの前半生である。

また前述の通り、出生時期に関しては、1515年説だと北条氏康と同い年、通説の1528年説なら上杉謙信より2歳上、1540年説なら前田利家より1歳下で徳川家康より3歳上になる。


明智家は美濃斎藤道三に仕え祖父の光継は道三の協力者で娘は道三に嫁ぎ小見の方(濃姫(帰蝶)や斎藤利治の生母)と呼ばれる。父・光綱が早世したため叔父の光安に養育されたという。道三の長男である高政(義龍)が父に反乱を起こした際、明智氏は道三に味方したため高政勢に明智城も攻められ光安は討死し光秀はわずかな生き残りと共に落ち延びたらしい。その後、光秀は朝倉義景の客将となり、足利義昭が朝倉家を頼ったのを機に義昭の従者となった。義昭と義景の関係が冷え込むと、光秀は義昭に対して織田信長を頼るよう勧め、自身も織田家臣となって仲介役を果たした。1568年頃の話とされる。光秀は母方の従妹に信長の正室となっていた濃姫がおり、その縁を頼って織田家臣となったと考えられる。


転戦と出世

1568年、三好三人衆が、義昭のいる本圀寺を襲撃したが、防戦側に光秀もいた。以降は光秀は信長と行動を共にするようになり、金ヶ崎の戦いでは殿を務めて防戦に成功。志賀の陣にも参加し、坂本城を築城して比叡山焼き討ちを任された。村井貞勝と共に京都の行政にも当たっていたようだ。

その後、高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆の鎮圧、丹波攻略、天王寺の戦い、雑賀攻め、信貴山城の戦い、有岡城の戦いに参加。丹波攻略は大いに手こずったが1579年についに黒井城を落とし、信長は光秀の労をねぎらった。こうして丹波一国拝領すると、近畿一帯の武将は光秀の指揮下となり、畿内方面軍が成立。そこには友人でもあった細川藤孝も含まれていた。


本能寺の変

天正10年(1582年)6月2日、信長の友人である徳川家康の接待役を務めていたが、羽柴秀吉の依頼により、毛利征伐の支援を命ぜられて出陣することになる。その途上、桂川を渡ってへ入る際に、光秀は何故か主君・信長の宿泊する本能寺へ向けて進軍する。

(この時に加わっていた武士の口述によると、行軍の理由は直前まで知らされず、当人は「徳川家康を討つ」と思い込んでいたという)


近習100人足らず、ましてや夜中の奇襲により碌に武装も出来ていない信長に対し、明智軍は1万3000人もの軍勢で包囲する。予期せぬ重臣の奇襲と圧倒的な戦力差に信長は近習とともに奮戦するも、最期は自ら寺に火を放ち自害したとされる。このとき、信長の嫡男・織田信忠も同じく京におり、父を助けようと戦火に飛び込み命を落としており、結果的に織田家は以降力を失っていくこととなる。ただし、信長(および信忠)の遺体は今現在も見つかっていないという(数日後に、この点を突いた秀吉は「信長様と信忠様は生きておられ、近江に逃れておいでだ」という偽情報の書状を畿内や近辺の諸将に対してばらまき、光秀に協力しないように呼び掛けている)。


その後

信長を討った光秀は京を押さえると共に信長の居城であった安土城を押さえるなど新政権を整えようとしたが、協力を求めた細川藤孝・忠興父子や筒井順慶などからいい返事は得られず、藤孝は出家して信長の喪に服し、忠興は妻・(光秀の三女)を丹後国・味土野に幽閉する。


その後、急遽毛利輝元と和睦して中国地方から引き返してきた(中国大返し)秀吉の軍と摂津国と山城国の境に位置する山崎にて交戦することになる。羽柴軍の予想以上に早い帰参に軍備が間に合わなかったことや、要所である天王山を先に押さえられたことにより敗北。逃走中に近江は小栗栖の辺りで落ち武者狩りに遭い、百姓たちの竹槍(もしくは錆びた槍)で深手を負いその場で自害したとされる。介錯は側近の明智茂朝溝尾茂朝)が務め、竹藪の溝に首を隠させたが翌日には発見され、信長の三男・織田信孝の手に渡り本能寺や粟田口にて晒されたという。信長の遺骸を確認できなかった事が秀吉に付け入る隙の一つを与えてしまった光秀だが、自身の遺骸は確保されてしまい、その死は天下に周知された。


謀反を起こしてわずか11日後の出来事である。


人物

「本能寺の変」により主君を裏切ったこと(加えて秀吉によるプロパガンダもあったとも)で悪名が知られるようになり、後世では野心家や裏切り者のように悪人として語られることが多かった。ただし、そもそも謀反を起こした経緯については未だ不明瞭であり、信長との関係や光秀の心の苦悩を物語る史料は少なく、良悪とも語られる経緯の多くは憶測や創作がほとんどである(本能寺を奇襲した際に発したとされる「敵は本能寺にあり」という言も実際は江戸時代幕末)の歴史家頼山陽の創作といわれる)。


『日本史』の著者であるイエズス会のルイス・フロイスは「狡猾」「陰謀を好む」「根暗」等と言った評価を下しているが、フロイスは京や大坂で布教を許されるなど信長に優遇されたこともあり、主君を討った光秀に対する採点が辛辣なものになった可能性がある(ただし、フロイスは光秀の事を評価していたのではないかという見方もある)。


内政手腕に優れ領民や家臣から慕われていた。教養人でもあり、平時は和歌茶道を好む文化人であったとされ自ら連歌会を催すことも多かった。また、苛烈な性格であった甥の細川忠興に対して「降伏した兵をむやみに殺すな」と釘を刺している。


信長からの信頼厚く、織田家臣になってから10年余りで軍団長クラスに抜擢されており、秀吉以上のスピード出世を遂げている。公家との交渉、京の行政、畿内の武将たちの監視、丹波の街道整備や築城、信長の護衛・雑用と幅広い任務に就いており、家臣団の中で最も重要な立場であった。一方で新参かつ寒門の出でありながらも、ここまでの出世を遂げた事で周囲の妬みを買い、他の家臣からは快く思われていなかったとフロイスは書いている。

また、フロイスの記述だと、光秀は信長の希望や嗜好に一切逆らうことが無く、むしろ信長を喜ばせるために万事を調べているほどであり、信長に対して不忠な者を見ただけで嘆くほどであったという。本能寺の変を起こす直前にも「一族みな信長様への御奉公に努めなければならない」との感謝文を書いていた。

このように光秀は信長に対して忠臣の中の忠臣であり(それが新参で軽薄の身でありながら取り立てられた背景の一つとも言えるが)、だからこそ謀反を起こしたのが謎と考えられている(同じく裏切り者である松永久秀についてはそれまでも旧主を何度も裏切ってきた経歴から誰も疑問に思わない)。とはいえ、同時代の光秀を知る人々が現在の人々のような視点だったというわけではないようで、上述のようにフロイスが光秀を「狡猾で謀略を好む」「同僚達に嫌われていた」と評したように、彼が「謀反を起こすような人物」だったことを同時代の人々はあまり違和感を覚えていなかった節がある。特に黒幕説などに関しては当時、全く疑われていた様子はない。


武芸においては鉄砲による射撃を得意とし、これが高じて義景に仕官できたという。

一部では、空に向けて十分に狙いも定めずに発射し、飛んでいた鳥に命中させたとまで言われているが、流石に俗説であるとのこと。


正室の煕子(妻木広忠の娘)とは非常に仲が良く、愛妻家であったことを示す逸話がいくつかある。煕子と結婚する際、煕子は天然痘にかかり顔が醜くなってしまい、恥と感じて縁談を無かったことにしようとしたが、光秀は気にすることは無かったという。また浪人時代に資金が困窮した際には妻が自身の髪を売って金を用意する話も伝わる。煕子との間に3男4女をもうけたとされるが、確証があるのは「十五郎」なる息子(本名は不明)と細川忠興の妻となる珠姫(玉姫とも。後世に附会されたガラシャの名の方が有名)の2名だけである。このため確実な子孫は忠興と珠姫との間に生まれた子、殊に長男で後に廃嫡された細川忠隆の子孫にあたる人物のみであり、各所で散見される「光秀の子孫」を名乗る人物俗説や自称にすぎない事に留意すべきである。

他に光秀の長男とされる十兵衛光慶も実在の可能性が高いと言われているが、上記の十五郎がそれに当たるとも言われている。


織田信長から折檻やパワハラを受けたとされているが、そうした逸話の多くは『川角太閤記』などの江戸時代の講談に基づくものであり、信憑性に欠く。「キンカ(金柑)頭」呼ばわりされていたという話も、『義残後覚』というネタ話集が原典であり、事実ではないと見られている。


本能寺の変の裏側

毛利攻めの出陣前に愛宕山の神社へ参詣し、三回おみくじを引いたが、すべて「凶」だったという。

その後に列席した連歌会で「時は今 雨が下しる 五月哉」と発句を詠んだ。この「時」は自身の出身「土岐氏」、「雨が下しる」は「天が下知る=治(し)る」の意味合いが込められ、すなわち「土岐氏が天下を治める」、または「朝廷が治める」を意味していると言われる。


光秀が信長を討った理由はわかっておらず、様々な説が唱えられ、光秀の意志だけで実行した単独説と、何者かの指示や協力で光秀が実行した黒幕説の大きく二つに分けられる。


なお、光秀は長宗我部氏と家臣団ごと関係が深く(元親の嫡男・長宗我部信親の母は光秀の重臣の妹で、「信」の字を信長から与えられた)、親三好氏に傾き三男・信孝と重臣・丹羽長秀に長宗我部氏を攻略させようとしていた信長に反感を抱いていた疑いが強い。

その頃に、同僚の家臣に引き抜きを掛けていたのが、「家臣間の引き抜き合い禁止」を方針にしていた信長にばれても返そうとせずに殴られていたという記録もある。


また、光秀の明智家の出身・土岐氏は源氏の中でも清和源氏の摂津源氏から続く美濃源氏で、摂津源氏は第六天魔王にも例えられた酒呑童子を倒した源頼光平清盛を倒そうと挙兵して敗れた源頼政の系統である。そして、第六天魔王を自称した信長の織田家の本姓は「平家」である。両者には運命づけられた因縁が潜んでいたかもしれない(尚、どちらもそう自称していた、という範疇であることに注意。織田氏は実際には越前劔神社の神官出身で忌部氏ではないかとされ、光秀は上述のように前半生がはっきりせず、本当に美濃明智氏の出身なのかすら不明である。後述のように明智氏の出身であることが疑わしい事柄も多い)


本能寺の変・単独犯説に挙げられる主な俗説

  • 丹波の波多野氏攻略に光秀は苦労し、明智氏滅亡以来ずっと連れ添った自分の母を人質にして講和を結んだが、信長はそれを許さず、城主兄弟を死罪に処した。当然、光秀の母は波多野氏側に殺され、光秀は信長を恨むようになったという説。しかしこの話は創作の域を出ない
  • みずからの領地丹波・亀山を召し上げ、新たに敵地にある出雲・伯耆もしくは石見への国替えを命じられたという説。
  • 本能寺の変直前に光秀は徳川家康の接待を命じられたが、そこで信長に接待の不備をとがめられ、大いに面目を失ったという説。ちなみにこのとき、信長の小姓である森蘭丸にその失態ゆえに顔を扇子で叩かれ、家康はじめほかの者もいる中で自分よりウン十歳も年下の若造からそんな屈辱的な仕打ちを受けたことに耐えられなかったとか。
  • 本能寺の変の約3カ月前、甲州攻めの祝賀の席において光秀が「我々も長年骨を折った甲斐がございました」と口にした際、信長が「お主がいつ、どこで骨を折ったというのだ」とキレて光秀に暴力を振るい、その理不尽な仕打ちに恨みを抱いたという説。しかしこの話は『祖父物語』という質の低い編纂物に書き記されたもので、現在では否定されている。
  • 家康の接待役を更迭され、毛利との戦いで苦戦している同格の羽柴秀吉の指揮下に入るよう命じられ、その屈辱的措置に愕然として謀反を起こしたという説。
  • 古今東西、家来の妻に手を出して滅びた主君の例は多く、好色かつ両刀使いだった信長も光秀の妻を気に入り強引に召し上げてしまい、愛妻家だった光秀の恨みを買ったという説。
  • 当時、信長は朝廷に対して平氏姓を名乗っており、源氏の末裔としてこのまま信長が天下を取った時に平氏の征夷大将軍が出る可能性を危惧したという説。これについては朝廷が征夷大将軍を渡そうとしたが断っている。
  • 信長が自分を神格化し、傍から見れば朝廷を足蹴にしていると捉えられる位の暴君に成り果ててしまったため、自らの身をもってその狂気的な暴走が双方にとって最悪の結果をもたらすことを防ごうとしたという説。これに関しては信長との関係や光秀の心の苦悩を物語る記録は少なく、良悪とも語られる多くは憶測や創作がほとんどで、それゆえに当時事件を予測した者や背景を理解した者はほとんどいなかった。しかし、近年の研究によって信長が光秀を家臣の中でも特に目を掛けていたと推察される記述(中心地である京都に光秀の領地を与えていたり、戦においても光秀の意見や知略等を積極的に取り入れていた等)も実際に幾つか見つかっており、信長を誰よりも敬愛し、誰よりも天下を取り泰平の世を創ることを望んでいたからこそ、それを当人自らが壊していく暗君となっていく様を傍観する事に耐えられなかった。止められる者がもう誰もいないなら自分でやるしか無かった…と考えたという説。

本能寺の変・黒幕説に挙げられた主な人物、組織

  • 朝廷説…信長の武力・政治力によって荒廃していた京の都は復興し治安も安定した。朝廷はその功を認め信長に右大臣職を与えたが、信長に朝廷を敬う意思はなく威光を利用するのみであり、その危機感に光秀に信長追討の命を下したという説。
  • 足利義昭説…信長のおそろしさに気づきつつあった光秀に、旧主君・足利義昭が光秀に密命を下したという説。
  • 羽柴秀吉説…秀吉と光秀が共謀して謀反を起こしたという説。「結果的に最も徳をした者が主犯」という考え方に基づく説。
  • 徳川家康説…家康が光秀に謀反をそそのかしたという説。家康の動機としては信長と同盟はしていたがけっして対等なものではなく、生殺与奪の権は信長にあった。事実、家康の嫡男・信康は信長の命により切腹、正室・築山殿も死罪という憂き目にあっている。(しかしながら、このとき家康は信長の招きにより京、堺を観光しており、信長横死を堺で知った家康は命からがら領国・三河に逃げ帰っている)
  • 斉藤利三説…光秀の家老。利三は、本能寺の変直前に信長の四国征伐によって滅亡の危機にあった長宗我部元親の妻の異母兄であり、妹のことを思って光秀にクーデターを起こすよう進言したという説。又、上述の「家臣間の引き抜き工作禁止」の方針を破った光秀は利三にその工作をさせており、信長はこの違反行為の責任を取らせる形で利三に切腹を命じるつもりであったという資料もある(同時代に編集された資料ではないが)。近年唱えられている「四国説」(利三の縁を使っての長曾我部との交渉・四国担当役だった光秀がこの任を外された上、四国征伐にも抜擢しなかった信長に大いに不満を抱いたのが謀反の原因という説)」とも絡めて語られることもある説。


光秀=天海説

一方では死なずに生き延び、天海と名を変えて徳川家康に仕えたという説もある。

天海の号である「慈眼」大師と光秀の菩提寺である「慈眼」寺、天海が建てた日光東照宮に桔梗紋(メイン画像参照)が掘り込まれていること、天海が名付けたという明智平など結びつける事象は多い。

また、天海本人にも経歴に謎が多く100歳以上の長命であったらしい。しかし光秀が1528年生とすると117歳で没したことになり、現実味に乏しい。ただ光秀は1540年生という説もある。

江戸幕府・第3代将軍・徳川家光の乳母・春日局の父は「本能寺の変」に際して処刑された光秀の家老・斎藤利三であり、謀反人の娘をそのような重職に就けたことに疑惑の目が向けられている(一説には紹介したのは天海であったという)。等、その説に拍車を掛けている。

創作作品ではこの説を汲み、光秀と天海が同一人物ないし、限りなく近い人物(娘婿とされる明智秀満など)として登場していることがある。


もう一つの生存説

あまり知られていないが、美濃へ落ち延びて荒深又五郎と名乗ったという説もあり、実際に美山に光秀の墓と位牌を所持している家もある。

しかし、関ヶ原の戦いに東軍として参戦する途中に水死したという。


諱に関して

「諱」とは実名(現在で言うところの姓名の名に当たる)を指し、明智光秀の場合“光秀”がそれに当たる。元服などの際に父親や偏諱親(関係のある有力者)から諱の一字を賜り自身の諱とするのが習わしなのだが、光秀が美濃の豪族明智氏の産まれだとすると諱が合わなくなってしまう。美濃明智氏では代々『賴』を偏諱としていたからである。通説では光秀の父親の代から『光』を偏諱としたされているが、その肝腎の父親が史料上に見いだせない。なので自身の箔付けの為に美濃明智氏の産まれと称していただけではないかとも言われている。


名を捨てた?

天正3年(1575年)7月、光秀は九州の名族であった惟任氏の名『惟任』を賜り同時に従五位下日向守に任官され惟任日向守となった。これは信長麾下において同時に姓を賜った塙直政(原田直政)及び丹羽長秀(惟住長秀)と同格となった事を意味し、併せて重臣層に加えられた事をも意味していたのだが、これ以降光秀は明智姓を名乗らなくなっている。朝廷より下賜された姓だから、朝廷や皇室を敬っていた光秀なのだから当然の事と言う人も居るが、あくまで惟任姓は信長配下での立場が上がった事への褒美に過ぎず、また先述の直政や長秀は本来の姓を捨ててはいない。あの秀吉ですら『豊臣』姓を賜った後も『羽柴』を名乗り続けていたのだから光秀が明智姓を名乗らなくなってしまった事は当時としても異質な行いである。故に元々明智姓では無く箔付けの為に名乗っていただけだから、より箔の付く惟任姓に乗り換えて明智の名は捨ててしまったのでは?と考えられるようになった。


なお“明智日向守”との表記を見かける事があるが、これは明確に間違いである。


余談

  • 中国の歴史書である「明史」の「日本伝」にも明智光秀に関する記述が有るのだが……中国に当時の日本の状況が伝わる過程で伝言ゲーム的な間違いが有ったらしく、以下のような意味不明(明智光秀に相当する人物が2人出て来ていて、しかも、片方が毛利氏と混同されている)な内容となっている。
    • 信長の家来に阿奇支(あきち)という者が居たが、信長の不興を買い、信長は秀吉に阿奇支を討伐するように命じた。
    • 秀吉が阿奇支を討伐している最中に、信長が家来の明智なる者に殺されたとの報が入った。
    • 秀吉は阿奇支を討伐した後、兵を返して明智を攻め滅ぼした。

関連イラスト

名将列伝を見て覇王の月


関連人物

家族

煕子(妻木煕子):妻

細川ガラシャ:娘

家臣

明智五宿老

明智秀満

明智光忠

斎藤利三

藤田行政

溝尾茂朝


妻木広忠


織田家

織田信長

濃姫

羽柴秀吉/豊臣秀吉

細川藤孝

細川忠興

その他

斎藤道三

朝倉義景

南光坊天海

子孫(と思わしき人物、名乗っている人物も含む)

坂本龍馬:幕末の志士、土佐山内家の郷士。明智秀満(光秀の娘婿)の子孫で、坂本姓は徳川幕府に気兼ねして明智姓を名乗れないので近江坂本から採り名乗ったとされている。

しかし、坂本龍馬自身は紀貫之の子孫と自称していた。

実は明智秀満の子孫と言うのは小説に登場したフィクションで、徳川幕府に気兼ね云々はそれに附会された話である

クリス・ペプラー:タレント。母方の祖母が光秀の実子という説もある土岐頼勝の子孫。……と言ってはいるが、あくまで自称に過ぎない。


明智憲三郎:明智光秀の子で残党狩りを逃れた「於隺丸(おづるまる)」の子孫との伝承を持ち、メディアなどで光秀の(本当の)子孫と名乗っている。本能寺の変の本当の原因などを自著などで主張しているが、そもそも「於隺丸」の存在が確認できない上に、徳川幕府を憚って「坂本」姓を名乗ったという話自体が龍馬の伝承と同じで信用が置けないなど、疑問点も多々ある。


今上天皇:由緒正しき明智光秀の子孫(細川忠興と明智珠の子孫)である


細川隆元細川隆一郎:政治評論家(隆一郎はタレントとしても活動)。こちらも由緒正しき明智光秀の子孫(細川忠興と明智珠の長男・細川忠隆の子孫)である。現在は隆一郎の子で政治評論家の細川隆三細川珠生、珠生の息子・片平凌悟へと受け継がれている。


明智光秀を演じた人物

NHK大河ドラマ

近藤正臣:国盗り物語

寺田農徳川家康

五木ひろし春日局

マイケル富岡信長 KING OF ZIPANGU

村上弘明秀吉

萩原健一利家とまつ〜加賀百万石物語〜

坂東三津五郎功名が辻

鶴見辰吾天地人

市村正親:江〜姫たちの戦国〜

春風亭小朝軍師官兵衛

岩下尚史真田丸

光石研おんな城主直虎

長谷川博己麒麟がくる

酒向芳どうする家康


関連用語

明智五宿老

光秀の重臣である明智秀満明智光忠斎藤利三藤田行政溝尾茂朝の五人を指す

明智三羽烏

本能寺の変の際に明智軍の先陣を切った安田国継(作兵衛)・古川九兵衛・箕浦大蔵丞の三人を指す。


関連タグ

戦国時代 戦国武将 本能寺の変

小早川秀秋:同じく歴史を動かす裏切りを行った戦国武将同士。ただし、光秀が悲劇の武将扱いされるのに対し、秀秋の方は何故か暗愚扱いされている。人生に関しては明らかに秀秋の方が不遇な目に遭っているのだが…。


創作の明智光秀

ほとんどが時代や信長に対し苦悩する人物像が描かれているが、史実では信長より年上なのに、近年のアニメ漫画の光秀は若い青年姿で描かれることが多い。ただし、前述の通り出自や前半生が謎だらけの人物なので決して無理がある改変ではない。

逆に言えば信長と同世代か、信長より若いか、信長より老けているかという各作品によって見た目のデザインが異なるという魅力を持った人物とも言える。


個別記事有り

  1. 戦国無双シリーズ』のキャラクター。→明智光秀(戦国無双)
  2. 戦国BASARAシリーズ』のキャラクター。→明智光秀(戦国BASARA)
  3. 戦国乙女』のキャラクター。→明智ミツヒデ
  4. 信長の忍び』のキャラクター。→明智光秀(信長の忍び)
  5. 戦国大戦』のキャラクター。→明智光秀(戦国大戦)
  6. ノブナガ・ザ・フール』のキャラクター。→アケチ・ミツヒデ
  7. 戦国†恋姫』のキャラクター。→エーリカ(戦国†恋姫)
  8. Fate/GrandOrder』のキャラクター。→明智光秀(Fate)
  9. 戦国 A LIVE』のキャラクター。→明智光秀(戦国ALIVE)

明智光秀(へうげもの

CV:田中秀幸

白髪の生えた中年で、物静かで無私の人物。主人公古田織部の数寄者ぶりを気に入っている。

領民や家臣を思い、天下の太平を望んでいたが、家臣よりも親族を可愛がり、世界制覇を目指して戦乱を続けようとする信長の野望を止めようと決起したが、秀吉千利休の謀略で追い込まれたものだった。ただし利休の関与には気づけなかった。

山崎の戦いで敗れて、延暦寺の招きで比叡山に向かうも、反対派の僧兵に襲われ、若き天海を庇って深手を負ってしまう。

直後に光秀を慕って駆けつけた家康に助けられ、秀吉による謀略の真実と自らの遺志を家康に託した。辞世の句を上の句しか詠まずその理由を「下の句など蛇足」と述べ命を絶つが、これが後々になって話に大きな影響を与えることとなる。


明智惟任光秀(ドリフターズ

CV:速水奨

容貌は壮年の白髪美丈夫。廃棄物サイド人物として、4巻45幕単行本化追加ページより本格的に登場。3巻で既に当人ではないかと示唆される、EASYに送り込まれた桔梗紋の装備をした竹槍で深手を負った武将が登場していたが、明確に素性が示されたこととなる。

本能寺織田信長の死体が発見されなかった事の理由がドリフターズ世界へ召喚された事である事を知り、今度こそ信長を殺害すべく黒王軍へと加入する。

黒王陣営では惟任姓を称しており、黒王陣営の者からは「コレトー」と呼ばれている。

6巻では大兵力を与えられ、信長と激突した。


テレビアニメ版では、最終話においてCVが判明。速水氏は上記の戦国BASARAでも明智光秀を演じている。


明智光秀(戦極姫

明智光秀

織田家重臣で火縄銃に優れ、冷静沈着で非情にもなるが、愛する者に一途に尽くす人物。


明智光秀(殿といっしょ

明智さんのお願いに半兵衛さんは…!?(画像右。左は竹中半兵衛

CV:平川大輔


長い黒髪とデコボクロが特徴的な男性。放火魔の主君とドSな従妹に振り回される気苦労の絶えない中間管理職森蘭丸からは弄り倒されている。

妻・熙子は良妻賢母であるがかなりの俗物であり、寝ている時に髪を剃られて売り飛ばされたことが二度もある。


明智光秀(戦国ARMORS

なぜ打ち切ったし

本作の主人公『南光坊天海』その人。重臣級甦土無「迦楼羅」を右腕に装着しており、岩や金属を瞬時に蒸発させる程の炎熱を生み出し敵を薙ぎ払う。この炎熱の効果により、信長より年上であるにもかかわらず(御年66歳!)非常に若い外見をしている。

信長の政治手法に疑念を抱いた秀吉に謀反を誘われるも断ったことが原因で、秀吉が起こした本能寺の変の濡れ衣を着せられ、「天下一の逆賊」として追われる身となる。

落魄した後に名を捨て仏門に入り、信長の遺児・お長を救い桃山政権を打ち倒すべく活動を開始した。

史実の光秀は生涯側室を娶らなかった程の愛妻家なのだが、本作では若い頃から大の女好きで、お市に色目を使って300回も信長にシバかれたという。仏門に入ってからもちっとも女禁を護っておらず、隙あらば遊郭に行こうとするほどのスケベジジイとして描かれている。


明智光秀(アニメ版戦国コレクション

信長様、そんなことおっしゃいましても…

声・日笠陽子 二つ名・復讐ノ牙

織田信長の家臣であったが、他の家臣への嫉妬が原因で謀反を起こし、信長等が現代へ飛ばされる原因を作ってしまった人物。

自身も森蘭丸と共に現代に飛ばされたものの、記憶を失ってしまう・・・

武器は刀の他に銃を使用する。


明智光秀(御城プロジェクト

御城プロジェクト:RE 敵兜「明智光秀」

という敵として登場。兜共通のゴツい装備をしており、キンカン頭は発光パーツで再現。ダサくならないようウサミミを添えている。イベントでその姿を始めて見せ、自身が建てた亀山城の城娘と共に主人公を強襲した。自分の城の城娘ですら翻弄するほどに根暗っぷりと策士っぷりに磨きがかかっている一方、自身が「明智光秀」の魂の模倣でしかない事を自覚しており、そこに自分なりの考えを宿している珍しい兜。

 対戦車ライフルか何かかと思う程の巨大な火縄銃を携え、大砲でもブッこんだのかと思うような効果音のする一撃で狙い撃ってくる。覚醒するとその場で三点バーストをしてくるため、低防御の城娘は一瞬で撃ち殺される。一撃が重い代わりに遅い石田三成と違い、射撃数と移動速度でパパっと仕留めにくる難敵。


明智光秀(ラヴヘブン

敵としてメインストーリーに登場するが、主人公たちの力により解放され仲間になる。


明智光秀(桃太郎電鉄

17作目の『桃太郎電鉄DS』より登場した歴史ヒーロー。土岐駅を独占すると仲間に出来る。

境の商人より軍資金を調達してきたり、未購入の物件を紹介してその場で1割~半額で購入できるようになる。

但し忠実の出来事通り仲間にした状態で6月に京都駅に滞在していると謀反を起こし総資産の1/3の金額を奪って逃走してしまい以後謀反を起こされたプレイヤーは二度と仲間に出来なくなってしまう。


明智光秀(麒麟がくる

演:長谷川博己

歴代大河ドラマでも1582年の本能寺を描く度に必ず描かれてきたが、2020年にはついに主役に抜擢。謎の多い前半生を紐解きつつ、室町末期の乱世から泰平を目指す時代へと移り変わる世の中を描く。

誰に対しても正直すぎて嘘がつけない」という良くも悪くも直情的かつ物怖じしない主人公。乱世の中で泰平の世にしか顕れない伝説の存在『麒麟』の到来とそれに相応しい統治者を待ち望むが・・・


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Akechi Mitsuhide

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