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幕末

ばくまつ

19世紀中盤、開国から江戸幕府の終焉に向かう時代(1853年~1869年)。欧米列強による外圧を起因として時代は徳川幕府倒壊へと動き、倒幕派(維新志士)と佐幕派(新選組・白虎隊など)による15年にも及ぶ全面戦争も勃発した。
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概要

日本史江戸時代末期の時代で、「江戸幕府末期」という意味。具体的には嘉永6年(1853年)6月の黒船来航から明治2年(1869年)5月の戊辰戦争終結までの時期を指す。近世から近代への過渡期にあたる。また、明治維新と合わせて「幕末維新」とも呼ぶ。

政治背景が極めて複雑に入り組んでいて、単純な善悪・勝敗で割り切れない時代だが、それまでの身分や血筋に寄らない大胆な人材活用が急激に増え、創作作品で人気の時代の一つ。


前夜

財政が悪化した江戸幕府は天保12年(1841年)に老中・水野忠邦が「天保の改革」を断行するも弱体化はとどまることを知らず、それと相対するように長州山口)や薩摩鹿児島)などの有力藩が台頭していった。日本近海にイギリスフランスロシアなどの軍艦や商船・捕鯨船が出没し、開国を求めた。また、アヘン戦争では清国がイギリスに大敗し、国内に対外危機感が高まった。

天保14年(1844年)にはオランダ国王・ウィレム2世から開国の勧告が書簡にて幕府になされ、その2年後にはアメリカ海軍士官・ビッドルが浦賀に来航して幕府に通商を要求したが、いずれも幕府はこれを拒否している。

序章

嘉永6年6月(1853年7月)、ペリー率いるアメリカの艦隊(黒船)が来航(オランダが警告していた)し開国を要求。翌年に再来航すると、老中首座・阿部正弘は2つ(函館・下田)の港を開き、それまでの異国船打払令を改め、水・燃料・食糧を提供する「日米和親条約」の締結を決断した。その後も幕府は欧米列強と次々に同様の条約を締結し、鎖国は事実上終焉を迎えた。さらに諸藩の意見を広く求めたが、軍事力に圧倒的な差があることから幕府の外交方針にはやむをえないものがあったが、「戦うことなく欧米諸国に屈し」「徳川だけで問題に対処できないことを露呈させた」幕府に対し各地で、形の上では幕府の上位にある朝廷(後の皇室)の権威をもって外国勢力に対抗し、国を守ろうとする「尊王攘夷論」が展開され、同時にその朝廷と幕府を結びつけ、幕藩体制を再編・強化するという「公武合体論」も展開された。


安政5年6月(1858年7月)に大老・井伊直弼が天皇の勅許を得ずに「日米修好通商条約」の締結を強行したことで尊攘派の怒りを買うことになり、幕府権力は揺らぎ始める。「日米修好通称条約」は日本の国益をできる限り守った「日米和親条約」とはちがう不平等条約で、下田・函館に加えて4つの港(長崎・新潟・兵庫・神奈川)を開き、アメリカに治外法権と関税の決定権を認めることが定められていた。

また、アメリカ人が日本で犯罪を犯しても日本の法律ではなくアメリカの法律で裁かれてしまう領事裁判権が発動し、関税自主権も喪失することになった。

井伊は老中・堀田正睦を京に派遣して孝明天皇の勅許を得ることに失敗、13代将軍徳川家定の死後、尊攘派一番の実力者である水戸藩前藩主・徳川斉昭、紀州藩主・徳川慶福と14代将軍の座を争った斉昭の七男・一橋(徳川)慶喜、慶喜の将軍就任に賛成した越前藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城などの対立者や不穏分子を隠居・蟄居にし、吉田松陰梅田雲浜など尊攘派の志士や学者を弾圧・摘発する「安政の大獄」を実行した。万延元年(1860年)3月、井伊の強硬な政策に反発した水戸茨城)・薩摩の浪士が、井伊を暗殺する「桜田門外の変」を起こし、幕末の時代が本格化した。


動乱

老中・安藤信正は幕府と朝廷との融和を図って「公武合体」を画策、文久2年2月(1862年3月)に孝明天皇の妹・和宮が14代将軍・徳川家茂に降嫁することになった。しかしこれが尊攘派の怒りを買い、安藤は尊王攘夷運動の過激派に襲撃され、失脚した(坂下門外の変)。

8月(9月)には勅使・大原重徳を伴い、幕政改革(文久の改革)を主導しようとする薩摩藩国父・島津久光の行列に横割りした英国人が薩摩藩兵に殺傷される「生麦事件」が発生した。翌年6月(7月)には両国間の交渉が決裂し、「薩英戦争」へ発展し、薩摩は大きな被害を受けた。これ以降、攘夷論は力を失い薩摩は軍備の洋式化を図ることになった。長州も7月(8月)関門海峡を通る外国船を攻撃。朝廷内では会津藩と薩摩藩が協力して尊攘・過激派の長州藩と三条実美をはじめとする7人の尊攘派公卿を追放、彼らは長州藩にかくまわれることになった(八月十八日の政変)。この頃から、香港にヘッドオフィスを置いていたイギリスのロスチャイルド系ユダヤ財閥の一つジャーディン・マセソン商会の長崎代理店グラバー商会を営み、日本と主に生糸の輸出を中心に取引を行っていたトーマス・グラバーが、佐幕派・倒幕派問わずに近代の武器弾薬の販売を行うようになる。


元治元年6月(1864年7月)、新撰組が洛中に潜伏する長州・土佐藩士を摘発した「池田屋事件」を起こすも、7月(8月)、京での巻き返しを狙う長州と薩摩・会津が御所周辺で衝突した「禁門の変(蛤御門の変)」へ発展、長州は孝明天皇の身柄を押さえて主導権を握ろうとして、この戦いに敗北し名実ともに朝敵になった。8月(9月)、長州は英仏蘭米との「下関戦争」に敗れ、幕府も勅命により長州征伐に乗り出した。一時は長州を屈服させるも、慶応2年(1866年)6月には第2次長州征伐(四境戦争)が勃発。長州藩と同盟の密約を結んでいた薩摩藩に戦意がなかったこともあるが幕府は高杉晋作率いる奇兵隊のゲリラ戦により小倉城を失い、大村益次郎の軍略に翻弄されるなどの失態を重ねたあげく将軍・家茂が戦病死(毒殺説あり)して撤退するなど、幕府の事実上の敗北に終わった。


転機

土佐高知)浪士の坂本竜馬中岡慎太郎が薩長の仲介役となり、慶応2年1月(1866年3月)に「薩長同盟」を結ばせることに成功。また、龍馬は海援隊がまだ前身である亀山社中の頃から上述したトーマス・グラバーと親交があり、彼の手引きでグラバー商会と薩長は積極的な取引が成され、藩士のイギリス渡航なども行われた。同年12月(1867年1月)、慶喜が将軍になり、佐幕派の孝明天皇が崩御した。薩長が明治天皇からの討幕の密勅(岩倉具視が偽造)を手にする直前、慶応3年10月(1867年11月)に慶喜は武力討幕に先手を打つ形で「大政奉還」を実行し、江戸幕府は名目上の終焉を迎えた。(大政を奉還したとはいえ朝廷に外交に通じた人材がいないことから、慶喜は欧米各国の外交官に「外交はこれまで通りわれらが行う」と明言している)


公武両勢力が合体した新体制が作られようとしたが、慶応3年12月(1868年1月)に薩長は宮中で「王政復古の大号令」を発表させ、幕府を廃絶した新政府樹立を宣言、ついで、慶応4年(1868年)3月、明治天皇は京都御所で「五箇条の御誓文」を宣布した。また、同年9月には元号を1月1日にさかのぼる形で「明治」と改め、明治維新が行われた。またこの頃、全国でええじゃないか騒動が盛んになっている。


終末

慶応4年・明治元年1月(1868年1月)、鳥羽伏見の戦いを機に新政府軍と旧幕府軍との「戊辰戦争」が勃発。鳥羽伏見の戦いで勝利を収めた官軍が優勢となり江戸へ進軍。4月(5月)、慶喜は寛永寺に謹慎して恭順の意を示し、勝海舟西郷隆盛の会談により江戸城は無血開城し、幕府は事実上の終焉を迎えた。


東北地方および越後の諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結成して抵抗するも、秋田藩・弘前藩などが次々と官軍に寝返り、同盟軍は各地で敗退を重ね、9月22日(11月6日)、会津藩が降伏したことで「奥羽越列藩同盟」は崩壊した。10月(11月)、明治天皇により「江戸」という名を「東京」に改め奠都がなされた。


明治2年(1869年)、箱館において旧幕府残党を率いる榎本武揚政権蝦夷共和国)を立ち上げたが、5月(6月)に官軍との戦いに敗れて降伏し、戊辰戦争は終結した。


明治4年(1871年)の廃藩置県で幕藩体制は完全に終焉し、日本は近代国家体制に移行し、明治10年(1877年)に起きた西南戦争で「武士の時代」は終わったとされている。


国際情勢

幕末の日本は世界情勢にも大きく左右されていた。

19世紀後半の世界は新たな帝国主義時代を迎えており、とくに南下政策をとるロマノフ朝ロシア帝国は日本への圧力を強め、一方世界各地に植民地を有するビクトリア朝大英帝国はロシアを牽制し、日本の開国をうかがっていた。その中でアメリカがいち早く開国の一手を打ち、イギリスとロシアは出遅れた形となった。

慶喜によって幕府はフランスとの協力関係を築き、軍事教練や武器供与を受けていたが、長きに渡りフランスと犬猿の仲のイギリスは、一度は戦った薩摩と協力関係を築いて倒幕派を支援するようになり、両国の代理戦争状態となった。

アメリカで南北戦争が終結すると、有り余った武器が日本へ流出、薩長がそれを大量に買い付け、戊辰戦争では数で勝る旧幕府軍を圧倒する近代戦力になった。 江戸無血開城後の東北勢力はプロイセンから軍事援助を得ていた。

戊辰戦争で日本全域が内戦状態となり、各勢力が各国から軍事援助を受けていたが、戦争が早期に終結したため、外国からの内政干渉や武力介入は避けられた。


幕末の主な思想

  • 尊王攘夷…神の子孫とする天皇の権威を重んじ、「日本」から「異狄」を追い払う思想。
    • 尊王南北朝時代の南朝方の有力貴族・北畠親房の『神皇正統記』にも記され、水戸藩2代藩主・徳川光圀が編纂を命じた『大日本史』にも記されたことで、幕末において再び顕在化した思想といえる(これらの学問・思想を「水戸学」ともいう)。形式上、実質的に政治・外交をつかさどる「江戸幕府」の上に「天皇(朝廷)」が置かれていたことから、幕府は「国」を開くにあたって「天皇」の勅許を得ることが必要となり、それまで武家政権に利用されていた「天皇」の政治的権威は増すこととなった。
    • 攘夷…上記のとおり、「日本」から「異狄」を追い払う思想。しかし、それには強弱があり、水戸藩主・徳川斉昭のように直ちに武力行使を行うことを主張する者から、坂本龍馬のように一時は「国」を開いて交易し、その利益によって洋式軍隊を作り上げようと主張する者までいた。当時の状況では徳川斉昭の主張こそ多数派であり、坂本龍馬の思想はむしろ幕府上層部の開明派・勝海舟徳川慶喜に近いものであった。
  • 倒幕…世界情勢に対応できなくなった「江戸幕府」を打倒し、外国と対等に渡りあえる新政府を作ろうという思想。この言葉は、歴史上、溶けるように滅亡した室町幕府には当てはまらないが、後醍醐天皇の綸旨によって倒された鎌倉幕府はこの言葉に当てはまる。
  • 佐幕…「江戸幕府」という古い政治体制を守り、困難な政治課題に答えようという思想。 孝明天皇は攘夷派であると同時に佐幕派でもあったため、孝明帝の天皇在位中、朝廷では江戸幕府を打倒しようという動きは表面化することがなかった。
  • 鎖国…異国との外交を最低限にする思想。江戸時代、日本はすべての国に対して国を閉ざしていたように誤解されがちだが、朝鮮中国オランダとは交流を保っていた。幕府上層部は欧米諸国の正確な情報をオランダから得ており、ペリー来航にも備えていたが、国際情勢における日本がおかれた状況から、「開国」へと向かっていった。ちなみによく誤解されるが、日本で出来た言葉ではなく海外から伝来したものである。
  • 開国…異国との外交を積極的に行うこと。老中首座・阿部正弘が締結した「日米和親条約」は最近の研究では日本の国益をできる限り守ったものと評価されているが、当時の時代においても、大老・井伊直弼の締結した「日米修好通商条約」は関税権・裁判権をアメリカ側に渡した不平等条約であったとして批判され、明治44年(1911年)に関税権を回復するまで改定に苦労することとなった。
  • 公武合体…天皇を頂点とする伝統的権威を持つ大和朝廷と、徳川家を筆頭とする江戸幕府及び諸藩、『公(朝廷)』と『武(幕府)』を結びつけて幕藩体制を再編し強化するという思想である。3代将軍・徳川家光から13代・徳川家定まで将軍家は代々朝廷(天皇家・摂関家)から正室を迎えており、政治的にも軍事的にも朝廷を圧倒していたが、ここから朝廷と将軍家の間で政治的にも対等な婚姻関係を結ぶことで、混乱した政治体制を安定させるため、孝明天皇の妹・和宮と14代将軍・徳川家茂との政略結婚がなされた。
  • 朱子学儒学の一派で、保守的で身分制度の厳格化等を良しとする硬直化しやすい思想。体制にとっては都合の良い思想なので、江戸幕府では公式イデオロギー化したが、動乱が訪れると様々な問題点が一気に露呈した。(会議や形式を優先し過ぎる、幕府が意見を募っても幕府に従属することを良しとしていたため何も言えない等)
  • 陽明学…儒学の一派で、反朱子学から生まれた思想。善意からであれば行動あるのみとも言うべき思想で、反体制的な思想に走りやすく過激派とみられる事も有り、主流な学派ではなかったが、西洋思想に触れる以前の思想では比較的柔軟に物事に対処でき、攘夷志士の一部がこの思想を学んでいたことから、幕末の倒幕と佐幕の対立は陽明学派と朱子学派の対立でもあった。
  • 水戸学…水戸藩で形成された学問で、尊皇思想を中心とした広範な学問。「国」といえば「藩」の時代に「国」を「日本国」と位置付けていた一派でもあった。攘夷運動では陽明学と同じく多くの志士が学んでいたが、内紛や過激な行動に出がちで多くは自滅した。

鎌倉幕府や室町幕府と幕末

幕末という言葉は鎌倉幕府と室町幕府の末期にも当てはまりそうだが、この2つの時代に対して用いられることはない。

というのも当時の鎌倉時代と室町時代の武家政権に対して「幕府」という言葉は用いられなかった上に、幕末という言葉が武家政権そのものの終焉という意味を内包しているからである。

また鎌倉時代末期の混乱は南北朝時代、室町時代末期の混乱は戦国時代と呼んだ方がしっくりくるということもある。


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出来事

日米和親条約 日米修好通商条約 安政の大獄 桜田門外の変 坂下門外の変 東禅寺事件 生麦事件 薩英戦争 下関戦争 天狗党の乱 池田屋事件 禁門の変 寺田屋事件 近江屋事件 油小路事件 鳥羽・伏見の戦い 江戸城無血開城 上野戦争 戊辰戦争 会津戦争 箱館戦争 地租改正/地租改正反対一揆 岩倉使節団 佐賀の乱 秋月の乱 敬神党の乱(神風連の乱) 西南戦争



幕末諸隊

海援隊 額兵隊 奇兵隊 京都見廻組 甲陽鎮撫隊 御陵衛士 彰義隊 新撰組(新選組) 新徴組 赤報隊 天狗党 伝習隊 二本松少年隊 幕府軍(幕府陸軍幕府海軍) 白虎隊 遊撃隊


人物

朝廷孝明天皇 明治天皇 岩倉具視 三条実美 姉小路公知 鷹司政通 二条斉敬 錦小路頼徳 三条西季知 西園寺公望

江戸幕府徳川家慶 徳川家定 徳川家茂 徳川慶喜 阿部正弘 井伊直弼 堀田正睦 小栗忠順 勝海舟 福澤諭吉 榎本武揚 江川英龍 緒方洪庵 中島三郎助 山岡鉄舟 高橋泥舟 佐々木只三郎 今井信郎 伊庭八郎 松本良順 高松凌雲 渋沢栄一 渋沢成一郎 栗本鋤雲 黒川嘉兵衛 松前崇広 新見正興

大奥篤姫 和宮

新撰組近藤勇 土方歳三 沖田総司 斎藤一 永倉新八 藤堂平助 原田左之助 島田魁 山南敬助 井上源三郎 芹沢鴨 伊東甲子太郎 武田観柳斎 近藤芳助 谷三十郎 谷万太郎 尾形俊太郎 田村銀之助 稗田利八

会津藩松平容保 山本覚馬 山本八重(新島八重) 佐川官兵衛 柴五郎

長州藩毛利敬親 吉田松陰 大村益次郎 山県有朋 桂小五郎(木戸孝允) 高杉晋作 久坂玄瑞 吉田稔麿 入江九一 伊藤博文 井上馨 広沢真臣 三吉慎蔵 渡辺蒿蔵(天野清三郎) 野村靖 鳥尾小弥太

薩摩藩島津斉興 島津斉彬 島津久光 島津忠義 西郷隆盛 大久保利通 小松帯刀 五代秀堯 五代友厚 中村半次郎(桐野利秋) 篠原国幹 田中新兵衛 有村次左衛門 海江田信義(有村俊斎) 村田新八 別府晋介 川路利良 寺島宗則(松木弘安) 黒田清隆 益満休之助 有馬新七 大山綱良 大山巌 三島通庸

【土佐藩・海援隊】山内容堂 山内豊範 坂本龍馬(坂本竜馬) 武市半平太 中岡慎太郎 後藤象二郎 近藤長次郎 岡田以蔵 岩崎弥太郎 河田小龍 ジョン万次郎(中浜万次郎) 板垣退助 谷干城 田中光顕 陸奥陽之助 千屋寅之助(菅野覚兵衛) 池内蔵太 沢村惣之丞 北添佶摩 望月亀弥太 山本復輔 那須信吾 安岡嘉助 大石段蔵

水戸藩徳川斉昭 徳川慶篤 徳川昭武 藤田東湖 藤田小四郎 武田耕雲斎 戸田忠太夫 結城寅寿 市川三左衛門 香川敬三 平岡円四郎 原市之進

【江戸】相楽総三

【福井藩】松平春嶽 三岡八郎(由利公正)

【庄内藩】酒井忠篤 清河八郎 酒井了恒

【米沢藩】 宮島誠一郎 雲井龍雄

【長岡藩】河井継之助 山本帯刀

【松代藩】佐久間象山

【館林藩】岡谷繁実

【松本藩】福島安正

【芸州藩】浅野長勲 辻維岳

【宇和島藩】伊達宗城

【福岡藩・久留米藩】 黒田長溥 加藤司書 平野国臣 早川養敬(早川勇) 真木和泉 宮崎車之助

【佐賀藩】鍋島直正(閑叟) 鍋島直大 江藤新平 大隈重信 島義勇 副島種臣 大木喬任

熊本藩宮部鼎蔵 横井小楠 河上彦斎 太田黒伴雄

【琉球王府】尚育王 尚泰王 牧志朝忠

【海外】マシュー・ペリー シーボルト(フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト) アーネスト・サトウ トーマス・グラバー レオン・ロッシュ プチャーチン(エフィム・プチャーチン) タウンゼント・ハリス

ヘンリー・ヒュースケン

【商人】

小曽根英四郎 白石正一郎 小野善助 三野村利左衛門 清水卯三郎

【医者・学者・文化人】

高野長英 渡辺崋山 飯沼慾斎 手塚良仙 河竹黙阿弥 仮名垣魯文 安積艮斎 安井息軒

【幕末の女性たち】

お龍 坂本乙女 幾松([[木戸松子)

西郷いと 高杉雅子 一条美賀子 近藤つね 渋沢千代 村岡局 堀川紀子

作品

風雲児たち 新選組! 獅子の時代 八重の桜 JIN 薄桜鬼 風光る 篤姫 るろうに剣心 銀魂 幕末機関説いろはにほへと 幕末志士の恋愛事情 月華の剣士 幕末男色恋物語 AZUMI 落語天女おゆい 修羅の刻 鞍馬天狗 陽だまりの樹 遙かなる時空の中で5 お~い!竜馬 超幕末少年世紀タカマル 幕末魔法士 長州ファイブ 幕末義人伝 浪漫 幕末Rock 山本さんちのガン・ガール ばくだん!~幕末男子~ 西郷どん 東京魔人學園外法帖

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