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島田魁

しまださきがけ

新撰組隊士。二番隊付き伍長。名は史実からすると「さきがけ」が正しいが、「かい」とも読まれる。

島田魁は新撰組で活躍した隊士。身長八尺(約180cm)、体重四十五貫(約169kg)の巨躯、怪力であった事でも有名。

  • 生:文政十一年一月十五日(西暦1828年2月29日)
  • 没:明治三十三年3月20日(西暦1900年同日)

美濃国岐阜県)生まれ。庄屋である近藤伊右衛門の次男として生まれたが、父であるこの伊右衛門が務めていた木曽川奉行にて氾濫によって木材を流すという不始末から切腹を申しつけられ果てる。そうして実母が子を置いて再婚してからは叔母の長縄半左衛門家で育てられたが、しかし半左衛門も流行病で急逝すると島田は各家に養子として出され転々とする生活を送ることになる。そうした流転の最中で天稟に優れた剣術に目覚めて以後、尾張柳生の門弟が数多、出場する尾張藩名古屋城下の十四代目尾張徳川家当主、徳川慶恕の御前試合で優勝した事が大垣藩藩士、島田才(嶋田とも)の目に止まり、それが切っ掛けで島田家の養子となった。
その後、江戸に出て坪内主馬が道場主を務める心形刀流坪内道場に通い、五年の歳月を掛けて心形刀流の免許を皆伝。同じく坪内道場にて師範代を務めていた十一歳年下の永倉新八と邂逅を果たす。従って永倉新八とは剣術を通して師範の関係であり、その事から永倉の伝手で文久三年(西暦1863年)、京都にて新撰組に入隊したと見られる。また、心形刀流の免許を皆伝してから島田は大阪に居を移し、後に同じく新撰組隊士となった谷三十郎と、その弟である谷万太郎兄弟が開いていた槍術道場にて種田流を学び免許を皆伝していた。
新撰組内ではその巨体を活かして相撲を取ることに長けていたことから「力さん」という愛称で親しまれた。永倉浪士文久報国記事には「五斗俵三俵(18リットル×5×3俵)を抱え持つ」と記される剛力であったという。は一滴も嗜まず遊女も買わない博打もしないという、当時としては真に珍しい清潔な人間であった模様。当初は新撰組にて調役を勤め、また伊東甲子太郎北辰一刀流の面々が入隊して組織構造が一変されてからは、永倉新八が隊長を務める二番隊の伍長となる。
新撰組内での活躍としては、池田屋事件の発端となる長州藩士の古高俊太郎を捕縛、池田屋事件にも出動し長州藩士と刃を交え多くを捕縛し報奨金を賜っている。伊東甲子太郎を暗殺した油小路事件では服部武雄と戦い、慶応三年(西暦1867年)年末、局長の近藤勇が鉄砲にて狙撃される中、これを良く守り機転を利かして近藤が乗る馬を先に走らせる等が目を引く。また調役として隊規を厳しく言い渡す土方歳三の傍らでその汚れ役も引き受けていた模様。
慶応四年(西暦1868年)、鳥羽・伏見の戦い緒戦で大砲の守備を担う敵陣に、永倉と共に抜刀隊の一人として切り込んだ際、火攻めにあって武装の重さに油塀を登れずにいる永倉新八をひょいと抱え上げた怪力の持ち主でもあり、身の丈六尺(180cm)を越える巨躯を持ちながら酒は嗜まずに甘い物に目が無く、他の隊士は誰一人として手を付けられないような、膨大な量の砂糖を入れた「島田汁粉」を一人で作っては平らげたり大福餅を十個二十個と腹に入れたりと、戦闘以外での逸話にも事欠かない人物である。
江戸にて近藤勇との確執から永倉新八らが新撰組を脱退するが、島田は新撰組に籍を残して軍艦北海道に渡る。戊辰戦争では新撰組も靖兵隊も共に会津で幕府軍の傘下に置かれ戦線を共にするが、永倉は米沢に招聘されて戦後、明治二十年に再会するまで音信不通となる。島田はといえば戊辰戦争函館五稜郭五稜郭戦争まで戦い抜き、明治二年(西暦1869年)5月、土方歳三が戦死し新撰組が降伏するまで抗戦した剛の人である。その咎で同年11月まで謹慎処分に処された。函館で戦死した土方歳三に最後まで随伴した新撰組の幹部でもある(斉藤一会津の戦線で混乱から離脱を余儀なくされている)。
謹慎が明けると京都で剣術道場や雑貨屋、レモネード屋を開くが余り流行らなかったようで困窮したという。明治政府樹立後にはかつての上司である榎本武揚から招聘の連絡を受けたが、「呼び出すならば呼び出した方から会いに来るのが道理というものだろう」と突っぱねているのは新撰組隊員としての意地を通した為か、貧困にも曲がらず主君への筋を通した。明治十九年(西暦1886年)にはかつて新撰組の駐屯所があった西本願寺の夜間警備員に雇用され、薄給(月給九円。当時の巡査の初任給であったという)の中に赤貧を貫いて明治三十三年(西暦1900年)、持病の喘息が悪化したのを伴って退職(西本願寺の好意で実際には休職扱いに)。その一ヶ月後の3月20日、自発的な巡回中に喘息の発作を起こし、実直な性格を物語るかのようにそのまま倒れその場で逝去する。享年七十三(満七十二歳)。葬儀には函館から遙々、永倉も参列した。
妻は京都にて見初めたおさと。身の丈六尺(約180cm)、目方四十五貫(約169kg)の島田に対しておさとは身長が四尺(約120cm)しか無かった為、隊士からも冷やかされてはその隊士を締め上げるという日常が繰り広げられていたという。夫婦仲は非常に良く、名古屋城下で謹慎中の島田をおさとが遙々、京都から幼い長男を連れて逢いに来た程で、更におさとはこの謹慎所で懐妊、出産までしている。敗軍組織の新撰組に肩入れする迷惑な存在だと、おさとは実家から勘当されてまで島田への愛を貫いた。
最終的に島田は五男一女に恵まれたが長男、長女、三男を亡くすという不幸にも遭った。そういった因果に戦後の島田は散った新撰組の隊士や自らが斬った時の政敵を重ね合わせ、毎日の念仏を欠かさず深く浄土真宗に帰依したという。また文章にも明るかったらしく永倉新八新撰組顛末記と等しくして、島田が記した島田魁日記は今日に新撰組の有り様をまざまざと伝える貴重な資料として現代に読み継がれている。

薄桜鬼

CV:大羽武士
新選組を影から支える縁の下の力持ち的存在である。甘いものが大好き。

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