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伊庭八郎

いばはちろう

伊庭八郎は、幕末に活躍した剣客・幕臣。隻腕の美剣士として知られる。
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──露とのみ 消えゆくけふの名残にや 樹々の梢を つゝむ白雲──『徳川義臣伝』

──わかれ道 われ刀置く 道の為 君の武運を 祈り進まん──橘恭太郎村上もとかJIN─仁─

──剣士の物語は、たとえ実在した人物であっても誇張や美化をまぬがれがたいが、実際に、これほど流星のような、また落花のような壮絶な生涯はほかにあまりないかと思われる剣客が一人ある。

伊庭八郎である。── 山田風太郎『明治暗黒星』


概要

生没年:1844年(天保15年)-1869年6月21日(明治2年5月12日)

伊庭八郎秀穎(いば はちろう ひでさと)は、幕末剣客幕臣直参旗本)。幕府軍遊撃隊隊士。心形刀流の使い手で、「伊庭の小天狗」「伊庭の麒麟児」の異名を持つ。ファンからは“イバハチ”の愛称で親しまれている。


1844年(1843年説もある)、幕末に権勢を誇った江戸の四大剣術道場の一つ・練武館の心形刀流の第8代当主・伊庭軍兵衛秀業の嫡男として江戸下谷御徒町に生まれる。伊庭家は実力のある門弟が宗家の養子となって流儀を継承する習わし(一子不伝)があり、秀業も元の名を三橋銅四郎といい、伊庭家第7代当主の養子となって継いでいた。

幼少時は漢学蘭学に熱を上げる文学少年で、剣術を始めたのは16になってからと遅かった。しかしすぐにめきめきと頭角を現し、秀業の不慮の死後、第9代当主となった秀業の養子である伊庭軍平秀俊(元の名は塀和惣太郎)の養子(秀業から見ると秀俊が長男で、八郎が繰り下がって次男となる。秀俊から見ると八郎は長男)となり、ゆくゆくは第10代当主となる予定であった。

1863年(文久3年)、幕府の講武所剣術方に登用され、翌64年(文久4年)1月、徳川家茂警護の一行に加わり上洛している(この期間に書き残したのが通称「征西日記」)。同年(元治元年)9月、奥詰(将軍警護を預かる親衛隊)に抜擢され、1865年(慶応元年)、第二次征長戦争(長州征討)のため上洛する家茂の警護に伴うが、翌年家茂が大坂城で没してしまう。長州軍にも敗北し危機感を持った幕府は、八郎を始めとする奥詰・講武所勤めの剣客を再編し、幕府軍遊撃隊が発足する。

1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いで初陣を踏み、胸部に被弾、吐血するが奇跡的に助かる。薩長軍(新政府軍)に対し徹底抗戦を望むも、総大将の徳川慶喜が逃げ出したため、幕府軍は江戸へ敗退。江戸城無血開城後、徳川慶喜警護のため水戸へ随行する遊撃隊本隊から離脱し、同志人見勝太郎ら36名と共に品川沖の榎本武揚率いる旧幕府海軍に一旦合流。この時現れた勝海舟の説得に半ば折れた榎本に抗議し別行動を開始、自ら“脱藩”した請西藩主林昌之助林忠崇)と同盟を組み、請西・館山・岡崎藩の脱藩兵300名以上を加え遊撃隊を再編、八郎は遊撃隊第二軍隊長となる。

遊撃隊は、上野に陣取る彰義隊とは別に、箱根関所を占拠し江戸と以西の新政府軍の分断を画策、関所を預かる小田原藩を引き入れようとするが、「小田原評定」の諺そのままに小田原藩は時流に乗ろうと新政府軍と旧幕府軍の間で右往左往、しびれを切らした八郎は「反復再三、怯懦千万、堂々たる十二万石中、また一人の男児なきか」(ころころ態度を変えやがって、怖気づいたか腰抜けどもめ、十二万石もの大藩でありながら、誰一人立派な男はいないのか)と啖呵を切って小田原城を後にした。5月、上野戦争で彰義隊が一日で壊滅との知らせを受けた小田原藩は新政府軍と組んで遊撃隊と衝突(箱根山崎の戦い)、26日、八郎は箱根湯本の三枚橋付近で左手首を負傷、切断。6月、榎本率いる旧幕府軍に再度合流、人見・林らは“奥羽越列藩同盟”に加勢すべく長崎丸に乗り東北へ転戦したが、八郎は療養のため榎本艦隊の旭日丸に残された。

8月、ようやく品川沖の榎本艦隊8艦は旧幕府陸軍と合流するため仙台へ向け北航を開始、しかし八郎が乗った美賀保丸は途中暴風雨に逢い本艦からはぐれ座礁。追われる立場となったため、親友中根淑(旧幕臣)の縁故を頼り、横浜の尺振八(旧幕臣)邸での潜伏生活を余儀なくされる。

しかし戦意は衰えず、11月、横浜からイギリス艦に乗り箱館(現函館)に到着、旧幕府軍に合流、歩兵頭並・遊撃隊隊長となり、松前の守備を担当した。箱館戦争では隻腕の剣士として奮戦するものの、4月20日、木古内での戦いで被弾し重傷を負い、箱館病院で治療を受けるも、当時の医療技術では為す術もなく、闘病の末五稜郭で死亡。享年26。

死亡日や最期については諸説あり、死亡日は5月12日説(墓石に刻まれている)と5月15日説(八郎の最期を間近で見ていたとされる新撰組隊士田村銀之助の証言に基づく推測)の二通り。最期については療養中の民家で流れ弾に当たり死亡説、箱館病院で安楽死説、五稜郭で戦況の悪化を悟った榎本武揚から差し出されたモルヒネを飲んで自決した説などがあるが、近年では田村銀之助の証言であるモルヒネ自決説が有力視されている。

亡骸は5月11日に戦死した土方歳三ら幕臣ともども五稜郭の一角に葬られたと伝えられる。

毎年5月の最終日曜日、菩提寺の貞源寺で命日の法要「朝涼忌」が行われている。


逸話

人物・容姿

  • 江戸生まれ江戸育ちの生粋の江戸っ子で、華々しい経歴もさることながら顔も育ちも良ければ腕も立つということで、当時の江戸っ子庶民のアイドル&ヒーロー的存在だった。これに輪をかけて、徳川幕府が崩壊し、馬にも乗れない泳げないほどに弱体化サラリーマン化していた武士たちの中で一人気を吐き戦い続け、戊辰戦争での活躍より「左腕を斬られながらも100人斬りをした」「岩斬った」「松斬った」など誇張された話が出回ったことから、当時江戸では伊庭八郎の名を知らない人はいないほどだった。またその人気は、明治政府にとっては敵方だったにもかかわらず、錦絵(今で言うブロマイド)が作られるほどで、「るろうに剣心」でこのエピソードが語られている。
  • 背は五尺二寸(約158cm)と当時の平均身長より少し高い程度だが、剣士としては小柄な体格で、容姿に関しては、色白で美男だったと言われている。剣だけでなく文才にも秀で、気骨がありさっぱりとした性格で、弁が立つ人だったらしい。

 「白皙美好、清秀なる中に和気あり、性質快闊慷慨淋漓たる好丈夫」(中根香亭)

 「色白にして温雅いわゆる眉目秀麗、俳優の如き好男子なり」(高梨哲四郎)

 「身体は小さく、色白美形、婦女のよう。声は明るくさわやか。目はするどい眼光をはなち、勇ましい」(芳野金陵)

 「白皙俊爽、尤も武技に長じ、書史を渉猟し、気節を好む。議論鑿鑿として拠ること有り」(村上函峰)

 「弁舌の爽やかさ、全く胸がすくというのはあの事で、少々巻舌で実にてきぱきと論じました」(林忠崇)

  • 本人と思しき写真は二枚現存するが、一つは家族の証言を元に描かれた肖像画を写真で撮ったもの、もう一つは笠で顔が隠れてはっきり写っていないものである。
  • 創作作品だと総髪で描かれることが多いが、実際は「講武所髷」と呼ばれる月代の部分が狭い髪型をしていたと言われている。『征西日記』でも時々、月代を剃る記述がある。だが、美賀保丸座礁後の逃避行中、その髪型だとすぐに身元が割れるため、月代の剃り跡を隠すために坊主頭にしている。それからまた髪を伸ばしはじめ、ザンバラ髪で侠客に扮し箱館へ渡っている。

剣術など

  • 心形刀流は突き技を得意にしており、八郎もまた両手突きを得意とした。剣術稽古のときには、足で床板を蹴る癖があったという。
  • 講武所時代、北辰一刀流山岡鉄舟と勝負をし、互角に渡り合ったという逸話がある。
  • 心形刀流の技の一つに二刀之形(二刀流)があり、八郎が左手を失っても刀を振るえたのは二刀流の下地があったからだと言われている。

戊辰戦争期

  • 左腕が使えなくとも戦える手段として、左肘の上にスペンサー銃を据えて撃つという、見た目武器腕の元祖のような戦い方を編み出している。
  • 腕を斬られようが銃で撃たれようが苦痛を訴えることは一切なかった。斬られて腐敗した左腕を切断する手術は麻酔無しで行い神色不変たる態度だったといい、木古内での戦いで致命傷を負い箱館病院に搬送される際には「此の手がまだ動くから帰って来た」と右手を掲げ神色自若としていたとの証言がある。
  • 横浜で八郎は、尺振八の経営する英語塾の塾生として身を隠していた。不自由な左手を懐手にして隠していたが、事情を知らない塾生たちから次第に怪しまれるようになり左手に纏わる嫌がらせを受けることもあった。何気ない動作にも苦労したため、その度に尺やその妻から助けられ、八郎は、見ず知らずの自分を無償で匿ってくれた尺夫妻に恩義を感じ、渡航の際に尺の写真をもらい、死ぬまで手放さなかったという。
  • 八郎が横浜で潜伏していたちょうどその頃、買い取るはずだった幕府が瓦解したため宙ぶらりんの扱いになっていたアメリカ海軍装甲艦「ストーンウォール号」が横浜港に停泊していた。旧幕府軍主力艦の開陽丸を遥かに凌ぐ戦闘能力を持ち、この軍艦を手に入れた軍が戊辰戦争の勝者となるとも言われており、新政府軍も買取に躍起になっていた。八郎はこの軍艦を奪い取り、旧幕府軍への手土産にしようと考えたこともあったが、海に明るい仲間がいなかったため諦めた。この「ストーンウォール号」こそ、箱館戦争において新政府軍の主力艦となり、宮古湾海戦で旧幕府軍が数多の犠牲を払ってでもアボルダージュ(接舷奪取)しようとした無敵の戦艦「甲鉄」(東艦)である。
  • 八郎の箱館渡航費は、吉原遊郭稲本楼の花魁・四代目左近小稲(さこんこいな)が用立てたという話がある。横浜潜伏中の八郎が小稲への手紙を本山小太郎に持たせた際、手紙を読んだ小稲は泣き腫らし、翌日には50両を用意したと言う。ちなみにこの小稲、かなり気が強い性格だったらしく、後年、高橋由一の洋画「花魁」のモデルを務めたが、完成した絵を見て「私はこんな顔ではない!」と泣いて怒ったと言う。

愛刀

  • 『新選組剣豪秘話』によると、伊庭八郎は「大和守安定」「関兼元」の大小を持っていたとされている。同一のものかは不明だが、伊庭家には打刀の「大和守安定」が現存する。
  • 『征西日記』には、脇差「関兼□」(原文欠損)を京で購入したという記述がある。
  • なお、伊庭家には一家言があり、「名刀を持っていても使いこなせなければ宝の持ち腐れ。なまくら刀でも手利きが持っていれば容易に近寄れぬ。刀というものは折れさえしなければいい。丈夫で手頃の良いものを選んで使いこなせ」というわけで、八郎が実際に戦場で使っていた日本刀はすべて無銘だった。
  • 八郎が箱根山崎の戦いで百人斬りしたという逸話のついた無銘の日本刀は、甥(次弟・武司の長男)の海軍軍人金田秀太郎(通称金田中佐)が受け継ぎ、軍刀に拵えなおして愛刀にしていた。ちなみにこの金田中佐、用兵の専門家にもかかわらず、50万トン戦艦を発案したり、戦艦長門に七脚マストをつけさせたりと、譲らない造船技術者平賀譲中将を唯一譲らせることができた無類の戦艦好きとしてのほうがどういうわけか有名。
  • もう一振り、伊庭八郎の愛刀と伝わる無銘の日本刀がある。元は菩提寺の貞源寺にあったもので、現在では三重県で心形刀流を伝える亀山演武場の当主が代々受け継いでいる。

遺品など

  • 彼が唯一残した書物に、元治元年(1846年)将軍徳川家茂に随従し上洛してからの148日間の出来事を綴った旅日記「御上洛御共之節旅中并在京在坂中萬事覚留帳面」、通称「征西日記」がある。その内容は、幕末動乱の時期にもかかわらず、京都大坂観光に明け暮れどこへ行った何が美味しかったか良し悪しを判定し詳しく記載するという、かなり悠長としたツッコミどころ満載のもので、「元祖グルメ日記」「幕末版るるぶ」などと呼ばれている。ウナギの食べ方に並々ならぬこだわりがあったり、虫歯で稽古を休んだり、赤貝にあたって寝込んでいたら見舞品がすべて食べ物だったり、島原遊郭へ行ったら「殊の外そまつ」とケチをつけつつまた行ってみたり、三条大橋に首のない侍の死体が転がっていたり…。食と観光に記載を割いているものの仕事はしっかりこなしており、池田屋事件が勃発した際には帰路についていたものの、招集をかけられてすぐさま(道に迷いながらも)京に舞い戻っており(戻った頃には事件の処理は終わっていたが)褒美を貰っている。ちなみに池田屋事件の起きた晩はアヒルで宴会していた。
  • 遺品の一つに迷子札がある。巾着袋型の小さな金板に「下谷和泉橋通角伊庭軍兵衛倅八郎」と掘られたもので、市立函館博物館に現存する。
  • 「待てよ君 冥土もともにと思ひしに しばし後るる身こそ悲しき」が辞世の歌とされている。箱館戦争で先に戦死した親友本山小太郎を偲んで詠んだものと言われている。

関係者

  • 伊庭家の屋敷は、蘭方医伊東玄朴の屋敷と種痘所に挟まれるように建っていた。
  • 旧幕府軍を率いていた榎本武揚とは同じ御徒町生まれで、家も近く、二人とも強烈なべらんめえ口調だったと言う。ただこの二人、どうにも性格があわなかったらしく、八郎は榎本の優柔不断な態度に愚痴をこぼしていたという。八郎の従者の中に、八郎を慕って蝦夷地までついてきた料亭「鳥八十(とりやそ)」の荒井鎌吉という板前がいた。「鳥八十」には榎本の幼馴染が嫁いでおり、榎本は明治以降も足繁く通っており、鎌吉ともよく顔をあわせていたという。後に榎本は八郎の弟・想太郎と旧幕臣の子弟育成のための学校「私立育英黌」を設立、このうちの農業科を独立発展させたのが東京農業大学である。
  • 八郎が早世したため、心形刀流の第10代当主は実弟の伊庭想太郎が継いだ。想太郎は7歳上の兄を欽慕しており、家に兄の遺影を飾り日々の拝礼を欠かさなかったという。明治維新後は東京農学校(東京農業大学)初代校長、区議、銀行頭取などを歴任し何不自由なく暮らしていたが、明治34年6月21日(八郎が死亡した日と同じ日)、政治家の星亨が不正を働いていると聞き及び激怒、公衆の面前で一突きで刺殺した。そして逃げることもなく斬奸状を読み上げその場で取り押さえられ、獄中死した。伊庭家の血気盛んな血筋を窺わせるエピソードである。
  • 祖父が幕臣だった子母澤寛は幕臣贔屓で、新撰組や勝海舟のほかにも、伊庭八郎を好んでライフワークのように小説を書いていた(「剣客物語」では、生前の林忠崇に直接取材しに行っている!)。その中の一つ、短編「伊庭八郎」が映画化されることになった。江戸っ子の池波正太郎は、その映画を見て以来伊庭八郎の大ファンとなり、八郎主役の小説「幕末遊撃隊」の取材のため伊庭家の子孫を訪ねた際に八郎の写真をもらい、自室に飾って子母澤寛を招いて一緒に喜んだという話を書き残している(「戦国と幕末」)。また、グルメな江戸っ子という共通項から「書きよかった」とも述懐しており、その後も何度も八郎を自身の作品に登場させている。それに対して浪速っ子の司馬遼太郎は、伊庭八郎に全く興味がなかったようで、「燃えよ剣」に名はあるもののそれっきりで、彼に関する話は一切書いていない。その姿勢は、彼の祖父(三橋成方「菜の花の沖」)、弟(伊庭想太郎「坂の上の雲」)、住居の場所(「胡蝶の夢」)までも自身の作品内でとりあげているにもかかわらず八郎のハの字すら触れない、その徹底ぶりからも窺い知れる。

新撰組関連

  • 後に新撰組隊士となる面々が名を連ねた試衛館で伊庭八郎の姿をよく姿を見かけた、という話がある。道場破り対策で助太刀も兼ねていたらしく、道場主の近藤周斎のお気に入りだったとも言われている。
  • 箱館戦争で共に戦うことになる土方歳三とは悪所友達で、よく二人で周斎翁に吉原に行く駄賃をねだったりしていたらしい。また土方が吉原の花魁の奪い合いで起こした喧嘩(吉原田圃の大喧嘩)では、近藤勇と共に助太刀に駆けつけたという話があるらしい。
  • 以上のエピソードは、流泉小史「新選組剣豪秘話」にのみ書かれており、これらの話を証明しようにも証拠となるものは一切残ってない。他にも眉唾ものの話が数々記載されており歴史資料としての価値は乏しいため、信じる信じないは読み手次第。
  • 新撰組最年少の隊士田村銀之助は、箱館では土方歳三の小姓から榎本武揚の小姓となり、また歩兵頭並陸軍隊頭の春日左衛門の養子となっていた。春日は明治2年5月11日の戦いで重傷を負い、五稜郭内に運ばれ八郎と同室となり、八郎と同じ日にモルヒネを飲み死亡している。そのため、春日の養子だった銀之助は八郎の死も間近で見届けている。田村銀之助は大正9年の旧幕府史談会で数々の八郎にまつわるエピソードを語り残している。
  • 明治32年の旧幕府史談会で「八郎君の墓は函館五稜郭、土方歳三氏の墓の傍に在り」という証言があった。この証言を元に場所を特定、大正時代に五稜郭内の松の木の土饅頭を掘ってみたが何も出なかった。実は明治11年に五稜郭内の工事で土饅頭から遺体が見つかり近くの願乗寺に改葬しており、その寺でも改葬されて何がどこにあるのかわからなくなっていた。そのため、土方もだが伊庭八郎の遺骨も現在どこにあるのかさっぱりわかっていない。

創作作品での伊庭八郎

明治時代から現在まで、伊庭八郎を題材にした小説は切れ目なしに発表されている。幕末&剣豪ファンの間では安定した人気を保っているものの、戦後の一般的な知名度はかなり低い。

伊庭八郎主役の小説の常連登場人物は、親友の本山小太郎、自称子分の荒井鎌吉、実弟の伊庭想太郎(亥朔)、義妹で許嫁の礼子、吉原の花魁の四代目左近小稲(さこんこいな)、榎本武揚など。

「新選組剣豪秘話」出版以降の昭和時代後期から、新撰組(特に土方歳三)の活躍が取り上げられた作品(特に試衛館時代や戊辰戦争)にもまれに登場、箱館戦争においては土方を試衛館の頃から知る唯一の友人として描かれたりしている。また、沖田総司とは生年も没年も一年ずれている程度、愛刀が同じ、薄幸の剣士など共通点が多いせいか、二人を比較して描く作品も多い。

いずれにせよ、単独で登場する場合が多く、遊撃隊の仲間やその活躍も描いた作品はごくわずか。


1963年発表『剣士伊庭八郎』より改題。池波はこの作品以外にも『その男』などで伊庭八郎を登場させている。全作品共通して“労咳病み”だが、その事実を誰にも打ち明けず、酸いも甘いも噛み分けた粋な江戸っ子侍として描かれており、後世の他作者の創作における八郎のキャラクター像に多大な影響を与えている。そのため、池波独自の設定である労咳と流れ弾死を史実と混同する人が現在でも後を絶たない。


  • 岡田屋鉄蔵『MUJIN-無尽-』(主人公)

戦場2

幼少期から物語が始まる、幕府側から見た幕末を描いた歴史漫画&剣豪漫画。


  • 『瞬旭のティルヒア』(主人公)

ライアーソフトのスチームパンクシリーズの一作。元は桜井光の同人誌が原作。

瞬旭のティルヒア


薄桜鬼』シリーズの新規攻略キャラの一人。主人公雪村千鶴の年上の幼馴染「八郎お兄さん」。史実を踏襲しつつも、当作では珍しい乙女ゲームの王道を行く優しい王子様系キャラとして登場。なぜか外見が沖田総司に似ている。

伊庭さん(修正)


浮世絵師・月岡津南の錦絵で登場。その美しさから東京の女性たち(含む)は夢中になっていた。

六人の同志の一人鯨波兵庫は外見こそ似ても似つかない巨漢だが、隻腕の設定は伊庭八郎がモデルとなっている。


不死者となり隻腕の剣士として明治時代も生きている設定。主人公・鬼生田春安の憧れの人物であり、敵として立ちはだかる。


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