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武士

ぶし

武士に関連するタグ。乱暴にいえば、馬上戦闘をこなす技能と権利を持った専業戦士のこと。
目次 [非表示]

本記事では、平安時代から安土桃山時代までの時代を中世とし、江戸時代を近世とする。


概要

「もののふ」とも読む。武士とは、平安時代中期(10世紀)から明治時代初期(19世紀)にかけての日本に存在した共同体の成員のことを指す。


武士内部でも身分は細分化されており、上級武士と下級武士の身分差が非常に大きい。家格や役職のほか、官位や家柄などで表される複雑な序列がある。上級武士の最上層は鎮守府将軍征夷大将軍、あるいは近衛大将、ひいては太政大臣等となって、日本国の軍事力を束ね武家政権を築く存在となった。このような上級武士を特に武家、もしくは軍事貴族と呼ぶ。


武士のもとで働いた武家使用人(中間・小者など)や足軽は農民などの家に生まれた者も多く、足軽の世襲化が進んだ江戸時代にも武士には入れられないことがあったらしい…。

なお明治以降は足軽や藩お抱えの人間や医者は士族で、それ以下は足切りで平民となった。


とは、平安時代において、下級官職を持つ役人の事で、のちに武士とほぼ同義語になった。奈良時代から「侍」という言葉は存在したが、もともとは「侍う」すなわち「身分の高い人にお仕えする」という意味の言語で、当時の文官も侍と呼ばれていた。

狭義では、先述の武家使用人の一種類、武士に仕え補助戦闘などを担当した者(いわゆる供侍)を限定して指す。「さむらい」で武士と侍の両方を意味し、史料上の「士」はさむらいと読む。

武士と武器


武士が存在していた時代の大半は、実質戦乱の時代といっても過言ではなく、武士の成り立ちから考えで見ても、武士と武器は切っても切れない関係にあった。



武士の武器の代表格といえば(刀剣)をイメージする人が多い。しかし、実際の武士の象徴は古来より弓矢であった。

これは武士の始祖たちが、戦場で弓を扱う騎兵だったからであり、刀剣はイメージとは対照的に、戦場ではだいたい脇役であった

(武器として使用されなかったという意味ではなく、状況によって使い分けるものだった。)



武士の象徴が弓矢から刀へ変わったのは中世末期から近世にかけてと結構遅い。

変化のきっかけは中世末期に行われた刀狩りにより、当時成人男性の証となっていた刀剣の携帯を、刀狩りにより武士限定としたためである。



戦乱の時代であろうが、武器を使う場というのは、戦争の中だけではない。


少なくとも武士が戦争をしていた時代では、強盗や通り魔が日常生活の中で多発し、喧嘩による切り合いが頻発していたため、

戦場では脇役でも、いつも身に着けていられる刀は護身用としては欠かせなかった。



当時は昼間でも飲酒を行うことは珍しくなかったということもあり、些細なことで怒りに駆られは暴行を働く武士は多く、

友人や家臣、果ては上司を含んだ、あらゆる人を殺そうとすることも珍しいことではなかった。その最もたる例が源氏である。


武器の中でも刀剣は比較的、携帯性や即応性の高いため重宝され、多くの武士がそのような事態に備えて枕元に刀剣を置いた。

時代が下るとともに帯刀する者が増え、中には剣術を学ぶ武士もいた。


(もっとも、武士ではない、農民や僧侶などの民間人も似たような状況であったがここでは割愛)



類似


なお、似たような存在に僧兵野武士地侍郷士などかいるが彼らは武士ではない。例えば僧兵は、実務担当の僧侶(堂衆)が武装したものだが、のちには次第に武士との違いが小さくなる。


野武士は、あくまで落武者狩りを本業に据えた武装した民間人であり、武士もいなくもなかったが実質武士ではなかった。


地侍・郷士はその領主が戦時に兵士として徴兵される義務を負っていた農民達であり、住んでいる町や村の有力者である場合が多く、町村の政治も担っていた。そのため、彼らは民間人から見れば武士だが、武士から見れば民間人であるという立ち位置だった。


歴史

前史

古代

663年(天智2年)、白村江の戦いで新羅連合軍に惨敗を喫した朝廷は九州北部から中国地方にかけて朝鮮式山城を築き、大宰府に政庁を置いた。このとき、各地の山城に配置された兵士が防人である。彼らが後世の武士とちがうのは、動員された兵士が食糧をみずからの手で賄わなければならないうえ、何の報酬も与えられず強制的に集められたという点である。


武士という言葉は奈良時代から確認できるが、当時はまだ「優れた兵士」くらいの意味合いでしかなく、身分として成立していなかった。


平安時代前期

平安前期には、軍の兵士は軍団への徴兵で、士官は官僚となった貴族で確保していたため、坂上氏小野氏といった将種と呼ばれる武人輩出氏族はいたが、まだ武士はいなかった。


平安時代

朝廷の軍事活動が下火になり、その一方で地方の有力者がしばしば治安を乱すため、対抗手段として有力者を臨時職にあたる征夷大将軍や征東大将軍などに任じ、その従者による弓騎兵を主体とした機動力の高い部隊で治安維持を行うようになる。


一方、貴族の一部は京の都での栄達をあきらめ、地方の役所(国衙)の役人(官人)や荘園の管理者(下司など)などに定着。これを私物化し、現地の豪族などの武装勢力と結びついて、朝廷を脅かすようになった。

一方、政争により九州北部に配流された藤原隆家のように、現地の豪族とともに武士団を結成し、女真族(中国の北方の民族。当時は朝鮮語から刀伊と呼ばれた)の侵略を防いだ例もあった。

このように複雑な過程を経て武士が発生したため、その起源についても学者の間で諸説ある。

比較的明確なのは、平氏源氏といった有力武家の出身で、これらはみな天皇の子孫であり、元皇族である。皇族として生きることを許されなかった(あるいは落胤と呼ばれる認知されなかった隠し子など)彼らの一部が、軍事に自らの行く末を見出し、様々な勢力と結びつき、なんやかんやあって(このあたりが実証不足)やがて武士の勢力として立ち上がっていったのである。


そして、地方での有力者間の抗争や、中央での貴族間の政争を経て、後期に桓武平氏の一族である伊勢平氏が覇権を握り、平清盛が初の武家政権である平氏政権を築き上げる。


鎌倉時代

平氏政権を滅ぼした源頼朝の勢力が、貴族としての家政機関を原型として鎌倉幕府を樹立する。初期には東国など国内の一部にしか勢力が及んでいなかったが、承久の乱でそれまでの最大勢力であった院(上皇・法皇とその近臣)に対して優勢になり、全国的に力を及ぼすようになる。


当時の武士は、幕府の将軍に仕える「御家人」と、その他の武士に分かれていた。ただし、御家人でない武士にも、末期の元寇を契機に幕府の支配力が及ぶようになる。

しかし、また嫡子相続という制度はできておらず、財産を平等に分配しつづけたため彼らの生活は時を経るたびに窮乏を極めた。そのため、幕府は苦肉の策として徳政令(借金を踏み倒してもいいという法令)を何度も発布し、当然ながら幕府と武士の評判は悪くなった。(建武政権、室町幕府もこの政策は踏襲している)

農民と武士の境界もあいまいで、彼らの多くは普段の生活では農地を耕し、いざことがあれば武装して戦に赴くという半農半武だった・・・というのが依然の定説だが、最近ではだいぶ怪しくなっている。

少なくとも当時、貧乏で自分も畑を耕していた「武士」や、武装して自分も戦争に赴いた「農民」が入り混じっていたことは確かなようだ。


この頃の武器は太刀や弓馬とも呼ばれ、騎乗して矢を放ついわゆる流鏑馬型のスタイルが中心であった。

1274年11月25日”日出ずる国、博多湾上陸阻止作戦”


南北朝室町時代

鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、武士も朝廷で一括支配する事を試みたが、武士に対する軽視が災いして、足利尊氏北朝を擁立して離反してしまう。尊氏が開いた室町幕府は、南朝と戦うため(と、味方の武士の離反を防ぐため)に朝廷(北朝)の支配権を幕府側に次第に吸収していき、貴族や寺社に仕えるごく少数の武士を除き、すべての武士を支配下に置くようになる。


当時の武士は、各国を支配する守護大名の支配下に置かれる事が多かったが、幕府に直属する「奉公衆」なども存在した。また、農民や町人の富裕層が家来を引き連れて武士化する事も多くなる。


 武士の装備も従者を率いた集団戦寄りになり、市街戦や山岳戦などが中心となったことで、鎧も徒歩に適した胴丸などに変わる。

鎌倉時代まで主流だった流鏑馬型の戦闘スタイルが廃れる。


当時の武士の軍勢は、武士や足軽を含めた十数人から数十人程度の大小の武士団からなる寄せ集めに近く、

攻城戦や籠城戦以外の状況では、敵や味方のグループが入り乱れた状態で戦闘を行う事が多かった。


当時から陣形の概念はあったが、統制が難しく、実際にそれを戦場で使うのは不可能だった。

この時代から足軽が戦力として、大きく機能するようになるが、戦闘の主力は専業戦士である武士である。

高師直


戦国時代

守護大名は次第に幕府のコントロールを離れ、または守護代・国人などに打倒され、戦国大名が現れる(ただし、国人の勢力が乱立していた地域も多い)。下剋上の時代ではあったが、武士の勢力は家臣団次第でもあったため、武士以外からのし上がった者も存在した。(その最も有名な例が豊臣秀吉斎藤道三も父からの二代がかりでようやく一国を支配できた)。


当時は庶民も普通に武装していたため、武士と平民の境目が一番あいまいだった時代かもしれない。

農村部を支配していた地主階級である地侍は、大名に仕え、戦争に赴き、年貢を徴収していたが、公的には「百姓」身分のままであった。


前半は室町時代と大差はなく、相変わらず市街戦や山岳戦、攻城戦や籠城戦が多かった。

また戦争の大規模化や物資不足により、なるべく防御力は下げず、作りやすい形式のモノへと変化していく。


後半からは火縄も用いられるようになり、戦国時代の末期には防弾性能をそなえた当世具足に変わる。



真田昌幸


江戸時代

江戸幕府が成立して、武士が「百姓」「町人」と並ぶ身分として確定された。


……と言い切れれば楽なのだが、武士も「将軍」を頂点として、その下に、大きな領地を持つ「大名」・将軍直属の「旗本」「御家人」・大名や旗本に仕える武士(将軍から見ると「陪臣」だが、大名並みの領地を持つ者も含む)・士分を持つが「侍」身分に入らない「足軽」・その下の「武家奉公人」がある。そのほか、武士と一般人の中間的な扱いを受ける「郷士」や、主君を持たない「浪人」も存在した。中には藩ごとに独自のルールを設けている例もおり(長州藩の上士、下士、地下浪人など)、構造がより複雑な存在となってしまっている。


つまりは、武士が官僚化していくと言われる時代であった。理由としてはもともと徳川氏の体制が、戦闘型組織ではなく、縦割り型組織だったと言われていることに始まるらしい。 よって武士のたしなみとされたかぶき者ばさら衆道というものが、受け入れられなくなっていた。侍=役人(つき従うの意味)と同じになるのはこの時代からである。


武士の装備は戦国時代のものを概ね引き継ぐが、実際の戦争がない時代が続き、予備軍としてのみ存在し続けるうちに、戦力としての質は下落を続けていた。武士としての倫理を構築する必要に迫られ、「武士道」が登場した時代である。


武士の経済については、将軍や大名から所領となる知行地を分与されるだけでなく、切米取りという給与の与え方が取られた。切米取りは「切米」もしくは「蔵米」ともいう。下級武士の中でも、最下級にあった武士・御家人たちは知行となる土地を与えられず、「蔵」に収められた米を与えられるのが主流だった。彼らは、毎年、自分に与えられる米の収穫高を記した「切符」のようなものを与えられ、米をあつかう商人に「米」を受け取りに行くのである。(まぁ、大概の場合、「米」を現金に換える武士が多かったのだが・・)。時おり、時代劇で見られる「三十俵二人扶持」などの扶持を与えられる下級武士がこれにあたるのだが、当然ながら生活は苦しくアルバイトにいそしむ武士が多かったらしく、中には「武士」としての身分を富裕な町人に売り払う者もいた。(有名どころでは坂本竜馬の実家は郷士株を買っており、逆に岩崎弥太郎の父は郷士株を売り払っている)


揃い踏み


幕末~明治時代

幕末には、戦国時代とあまり変化のない装備では西洋列強の軍に対処できない事が明らかになり、幕府や西国諸藩は軍事改革を行う。庶民や足軽出身者が将兵として活躍するようになり、武士の存在意義にひびが入る。


そして版籍奉還により、すべての武士は家禄(主君から武士の家に与えられる給与)を(公債を付与される代わりに)取り上げられ、廃藩置県で大名も藩主の座を失う。大名や新政府の高官などは華族となったが、その他の圧倒的多数は士族となり特権も与えられなくなったため、各種産業、職業に転身することとなり、主に政府と軍では薩摩長州の二大門閥となった。財閥も政商を含めれば土佐閥の岩崎家などの派閥が構成された。地域では藩のOBにあたる人間は今で言う公務員や有力銀行、企業の設立や経営ないし資本参加、鉄道や鉱山、酪農や製鉄所、大学、高等師範学校などに従事し明治の教育と殖産興業を支えたが、当然そこに加われなかった士族も存在し、各地で不平士族が発生、政治運動団体も結成された。


政府による一方的な特権取り上げに不満を持った士族は土着の民を巻き込み佐賀の乱や西南戦争のような反乱を起こしたが、士族以外の兵と専属の士族兵の両方とも多かった日本陸軍の圧倒的な兵力により鎮圧された。


時を同じくして政府の薩長閥から追い出されてしまった西郷隆盛板垣退助らは不平士族や自由主義者と共に政治団体を結成して自由民権運動へと繋がる活動を行い、大日本帝国憲法の普通選挙開始に伴う事実上の民主政治の礎を築いた。


現在は華族、士族共に廃止されたが、有力大名や富裕な武家であった家はその遺産として財団や屋敷などを所有し、今でも代々世襲する長が存在するなど、名門や一大資産家とも言える地位を築いている。


LAST SHOUGUN


関連タグ

将種 武家 大名 旗本 御家人 足軽 浪人 野武士 武士道

甲冑 装甲

騎士

人名: 武士の名は「苗字」「姓」「輩行名」、「◯◯守」などの名前が存在する。詳細はこちら

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