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概要

  1. 戊辰戦争に参加した民間部隊。一番隊の隊長は相楽総三
  2. 創作作品である和月伸宏「るろうに剣心-明治剣客浪漫譚-」・かわぐちかいじ「兵馬の旗」などに登場する。
  3. 朝日新聞などを標的としたテロ事件。1987年に発生したが、2003年に迷宮入りとなった。

戊辰戦争における赤報隊

幕末、武力による幕府討伐を目指していた薩摩藩は、尊皇攘夷志士の相楽総三らを支援し江戸各地で破壊工作を行わせ幕府を挑発する。

慶応3年(1867年)、大政奉還によって一時は幕府討伐の大義名分を失うが、相楽らの活動に業を煮やした庄内藩や新徴組により江戸薩摩藩邸焼討事件が勃発。相楽らは江戸を脱走する。

翌年1月、鳥羽・伏見の戦いの後に徳川追討令が出されると、近江国松尾山にて相楽らが挙兵。公家の綾小路俊実、滋野井公寿を盟主、相楽総三を隊長として赤報隊が結成され、御陵衛士残党や水口藩士らが加わった。

赤報とは「赤心(まごころ)を以て国の恩に報いる」という意味。


新政府の許可を得た赤報隊は「年貢半減」を掲げて中山道を進軍。しかし新政府は資金難を理由に年貢半減を密かに取り消し、相楽が勝手に触れ回ったとして赤報隊に帰還命令を出した。

二番隊、三番隊は京へ帰還するが、相楽率いる一番隊は従わずに独断専行を繰り返したため、新政府は偽官軍の烙印を押し追討令を出した。相楽らは信濃追分宿で追討軍の襲撃を受け惨敗。下諏訪宿付近にて相楽ら8名の幹部が処刑され、赤報隊は解隊された。

主な隊士

相楽総三一番隊隊長。下諏訪にて処刑
渋谷総司相楽の江戸以来の同志。下諏訪にて処刑
金輪五郎相楽の江戸以来の同志。京との連絡役であったため処刑を免れる。後に大村益次郎暗殺に加わり処刑された。
鈴木三樹三郎二番隊隊長。元新撰組御陵衛士
油川練三郎三番隊隊長。水口藩士。
落合直亮相楽の江戸以来の同志。彼の処刑後岩倉具視暗殺を企てたが、岩倉に直接説得され思い止まり、彼の伝手で官吏となって赤報隊の名誉回復に尽力した。

るろうに剣心における赤報隊

 幕末に結成された相楽総三を隊長とする部隊。

 新政府側が官軍となってからはその草分けとして四民平等の世を目指し「年貢半減」を掲げ各地をまわっていた。

 だが、それからほどなく「財政難で年貢半減が不可能」と判断した明治政府が自分達の不手際を隠蔽するために全ての責任を赤報隊に押し付けてしまう。

 その後、赤報隊はトカゲの尻尾切り「政府から命に背き人々を欺いた“偽官軍”」という汚名を着せられ、隊長である総三は下諏訪にて捕えられ処刑される。


 総三を深く慕っていたのが当時少年であった準隊士の左之助克浩であり、総三を描いた錦絵が端となって両者は明治東京で再会する。

 左之助の苗字である「相楽」は農民の子である左之助が苗字許可となった暁に総三の苗字を名乗りたいとして自らつけた氏である。


赤報隊事件

1987年から1990年にかけて散発した一連のテロ事件。犯人は「赤報隊」の名で声明を出していたが、個人なのか団体なのか、全部の事件が関連のあるものなのかすら謎。

主に朝日新聞社がターゲットとされ、朝日新聞阪神支局襲撃事件では一名の記者が犠牲となった。

その他元首相、リクルート社、在日韓国人団体なども被害に遭っている。


言論の自由に対する弾圧として大きな問題となったものの、2003年にすべての事件が公訴時効を迎え、迷宮入りとなった。


現在も有名な未解決事件の一つとして特集が組まれることがある。


関連タグ

相楽総三

るろうに剣心

相楽隊長 相楽左之助 月岡津南

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