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元寇の編集履歴

2011-03-19 19:33:23 バージョン

元寇

元寇を取り扱ったイラストなどに付けられるタグ。


概要

 元寇は、1274年と1281年に行われた、モンゴル帝国による2度の日本遠征。

 博多湾を中心に、九州北部あるいはその周辺で戦闘が行われた。


 戦争の結果、モンゴル軍は日本の防戦によって遠征に失敗し、多くの被害を出した。


 かつては、2度とも「神風」と呼ばれる暴風雨がモンゴル軍を襲い、日本が防戦するまでもなく勝利した等と伝えられて来た。

 しかし、日本、モンゴル高麗(こうらい)それぞれの資料の研究が進んだ結果、日本軍とモンゴル軍との間で激しい攻防があった事が解明されつつある。



経緯

 1268年、モンゴル帝国第5代皇帝であり、元(げん)の皇帝のクビライ・カーンは、モンゴル帝国に服従していた朝鮮半島の国・高麗を通じ、日本に対して服従を求める使者を送った。

 高麗の使者から書状を受け取った鎌倉幕府だったが、幕府執権の北条時宗は、これを黙殺する事を決定し、使者を送り返した。

 その後もモンゴルは使者を送り続けたが、日本側はこれらも全て黙殺し、使者を送り返した。


 これを受けたクビライは、日本を服従させる事を諦め、武力による制圧を決定した。

 クビライは高麗に命じて大量の軍船を建造させ、兵力を集めて日本侵攻の準備を行った。

 この動きは日本側も知る事となり、モンゴルの侵略に備えて態勢を整えて行った。


文永の役

交戦勢力

勢力日本モンゴル帝国
戦力鎌倉幕府軍10000元軍25000
高麗軍8000
軍船900
総戦力1000033000


侵攻開始


 1274年10月3日、モンゴル軍は朝鮮半島の合浦より出発。九州の対馬壱岐松浦に襲来した。


・10月5日、対馬にモンゴル軍が襲来。対馬守護代の宗資国は通訳を使者に出すなど情報収集を試みたが、モンゴル軍の激しい攻撃を受けた。宗資国は絶望的な戦力差ながら応戦し、佐須浦で全滅した。

・10月14日、壱岐にモンゴル軍が襲来。壱岐守護代の平景隆は迎撃したが破れ、樋詰城に篭城した。しかし、モンゴル軍に包囲され、平景隆は樋詰城で自害した。

・10月16日、松浦の島嶼にモンゴル軍が襲来。松浦党の武士らが応戦したが壊滅し、松浦党で佐志村地頭の佐志房が、松浦郡にて3人の息子と共に戦死した。


 日本側の守備戦力は、応戦するものの、強大なモンゴル軍に全く歯が立たず、次々に制圧されていった。

 高麗側の資料(高麗史)によると、占領された島々の住民は200人程度が捕虜となり、残りは皆殺しにされたと記録されている。



博多上陸


 10月19日、モンゴル軍が博多湾に出現。20日に上陸し、大宰府を目指して進軍した。

 対する日本側は、対馬から脱出した者達によってモンゴル軍の来襲が伝えられており、モンゴル軍が博多湾に到着する頃には迎撃態勢を整えていた。

 そのため、上陸したモンゴル軍は、直後に日本軍と交戦する事となる。

 緒戦はモンゴル軍が優位に進めたが、次第に一進一退となった。


・戦闘開始直後、日本軍の武士がモンゴル軍に一騎打ちを挑む事が多く、それにより一方的に被害を受けた。そのため、日本軍はまもなく集団戦に切り替えた。

・鳥飼塩浜へ進軍したモンゴル軍は、福田四郎隊によって百道浜まで押し戻された。

・箱崎へ進軍したモンゴル軍は、日本軍の大友頼康隊を破って敗走させた。

・百道原に上陸した金方慶率いる高麗軍は、赤坂にて菊池武房隊の突撃を受けて敗走した。それを追撃した竹崎季長隊が敵に深入りしてしまったため、救援に白石通泰隊が突入し、そのまま両軍は矢戦となった。

・洪茶丘率いるモンゴル軍の主力は、日本軍を破って麁原山を占領した。

・敗走する日本軍を追撃したモンゴル軍だが、少弐景資隊の反撃により、モンゴル軍副司令官の劉復亨が重症を負うなどの被害を受けた。


 上陸したモンゴル軍と、それを迎撃した日本軍は各所で激しい矢戦を繰り広げた。

 戦いはモンゴル軍が優勢だったが、激しい矢戦のため、夕方頃にはモンゴル軍の矢が尽きる事となる。そのため、次第に日本軍が優勢となり、モンゴル軍を押し返し始めた。

 劣勢となったモンゴル軍は進撃を諦め、博多の市街に火を放って後退した。日本軍も、日没により追撃を断念して後退した。


 モンゴル軍はこの日の夜の軍議で撤退を考えていた。高麗軍の金方慶は再戦を求めたが、モンゴル軍総司令官の忽敦は撤退を決定した。

 モンゴル軍は21日の朝までに全軍が博多湾から撤退したが、撤退の途中で暴風雨に見舞われ、多くの軍船が沈没したとされる。



戦間

 文永の役の後、1275年と1276年の2度に渡り、元より日本に使者が送られるが、北条時宗の命令によって全員が処刑された。処刑の理由は諸説ある。


 日本遠征に失敗したモンゴル軍だが、この使者の処刑を受け、クビライは再び日本遠征を計画する事となる。

(文永の役でのモンゴル軍の撤退の早さから、モンゴル軍は文永の役の時点で、すでに再侵攻の目処が立っていたとする説がある)

 1280年、日本侵攻を企画するべく征東行省を設立した。

 作戦立案の結果、モンゴル軍の侵攻計画は、朝鮮半島の合浦から出発する東路軍と、中国南部の慶元から出発する江南軍の、2つの部隊での侵攻作戦となる。

 この2つの軍団が壱岐で合流する予定であった。


 なお、モンゴル帝国は、1279年に中国南部の国・南宋(なんそう)を滅亡させている。

 この際に降伏した南宋の兵がモンゴルの財政を圧迫していたため、この兵を日本侵攻に当てようとする狙いがあったとも言われている。

 実際に、慶元から出発した江南軍は、この南宋の兵を多く含んでいた。


 対する日本側は、使者の処刑に見られる通り、モンゴル帝国に対して徹底抗戦の構えを取っていた。

 鎌倉幕府はモンゴル軍の来襲に備えて九州沿岸の警備を強化すると共に、1276年には沿岸部に防塁を建造した。

 この九州沿岸に築かれた防塁は「石築地」と呼ばれ、福岡の今津から香椎まで約20キロメートルにも及ぶ大規模な防塁であった。


 こうして、両国は2度目の戦争へと向かう事となった。



弘安の役

交戦勢力

勢力日本モンゴル帝国
戦力鎌倉幕府軍40000東路軍
元軍30000
高麗軍10000
軍船900
江南軍
元軍100000
軍船3500
総戦力40000140000


再侵攻


 1281年5月3日、東路軍が合浦を出発。

 5月21日に対馬を、5月26日に壱岐を攻撃し、日本軍の守備部隊を壊滅させた。


 しかし、壱岐で合流する予定だった江南軍はまだ慶元を出発していなかった。

 出発直前に江南軍総司令官の阿刺罕が病気を患い、総司令官が阿塔海に交代していたため、江南軍に遅延が発生していた。



上陸戦


 6月6日、東路軍は江南軍の到着を待たず、博多湾の志賀島へ上陸を試みる。しかし、日本側はすでに東路軍の動きを察知していた。

 文永の役にてモンゴル軍の戦法を解析していた日本軍は、東路軍を相手に優勢に戦った。

 日本軍は東路軍に対してゲリラ戦を展開し、東路軍を海上に押し戻した後も小船による襲撃で東路軍に被害を与えて行った。

 海上に押し戻された東路軍は、鷹島に撤退し、江南軍を待つ事にした。


 6月18日にようやく江南軍が慶元を出発し、6月26日に対馬に到着した。

 ここまで上陸できずにいた東路軍は、江南軍と合流するため壱岐へ移動したが、そこに日本軍の追撃があり、日本軍と、東路軍および東路軍に合流した江南軍の一部との間で戦闘になった。

 この戦闘はかなりの激戦だったらしく、日本軍は少弐資能が重症を負い、少弐資時が戦死している。

 残る江南軍は鷹島へ移動したが、ここでも日本軍に迎撃され、ついに鷹島への上陸すらままならなくなった。



「神風」


 6月20日から風が荒れ始める。台風が接近していたものと思われる。

 日本軍の抵抗と長大な防塁に阻まれ、およそ1ヶ月も九州本土への上陸を果たせずにいたモンゴル軍は、海上で台風の到着を待つ結果となった。


 6月30日夜、鷹島付近に集結していたモンゴル軍を、台風が直撃する。

 海上は5日間荒れ、さらに日本軍が嵐に乗じて攻勢を仕掛けた。


 長らく海上に封じられていたモンゴル軍は、不慣れな渡海作戦も相まって疲弊していた。

 さらに、船上で発生した疫病や、しつこくゲリラ戦を仕掛けてくる日本軍によって、台風の前の時点でモンゴル軍は満身創痍であった。

 そこに襲来した台風に、モンゴル軍はもはや成す術がなかった。軍船は次々に沈没し、台風が過ぎ去った頃には壊滅状態になっていた。

 かろうじて残ったモンゴル軍の軍船は、鷹島などに上陸していた味方を置き去りにして逃走を始めた。


 7月2日以降、壊滅状態のモンゴル軍に、さらに日本軍が襲い掛かり、戦いは掃討戦となった。

 モンゴル軍のうち、南宋の兵の多くは捕虜として命を取り留めたが、それ以外は全て殺害され、残存していたモンゴル軍はついに全滅した。


 この戦いで生還できたモンゴル軍の兵は、わずか3万人程度だと言われている。



戦後

 大敗を喫したモンゴル軍は、それでもなお大陸に圧倒的な兵力を有していた。

 クビライは3度目の遠征を計画するが、内乱や財政難により断念する事となり、ついに3度目の遠征は無かった。


 戦争に勝利した日本軍だったが、防衛戦という性質上、戦いで得た物はほとんどなく、命懸けで戦った武士達に与えられた恩賞は、彼らが納得できる物では無かった。

 鎌倉幕府は弘安の役以降もモンゴルの襲来を警戒し、九州の防衛に予算や人員を割いたため、御家人を圧迫する事となった。

 これにより、御家人をはじめとする人々の感情が次第に悪化して行き、鎌倉幕府は、崩壊への道をゆるやかに辿り始めた。



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