三国志に登場する英雄。
日本語での読み方が息子の孫権と同じ「そんけん」な為、一部コミュニティでは区別をつける為に「(孫)パパ」と呼ばれる事も。
史実における孫堅
孫武の子孫と伝えられているが、どのような家柄かは不明。
孫堅が17歳の時に海賊が略奪しているのを発見し、それを見かねた孫堅が一計を案じ海賊を追い払ったことで孫堅の名は有名になる。
以後孫堅は江東一帯の反乱勢力を鎮圧しその功績により幾つかの県の次官を歴任した。
黄巾の乱が起こると孫堅は鎮圧に力を注ぎ、後に長沙の太守となった。
この間に、程普や朱治、黄蓋といった後の歴戦の将が孫堅の元に入っている。
暴挙を繰り返す董卓を討伐するために立ち上がった際、自軍の損害を恐れ腰を上げない諸侯に対して孫堅は董卓軍とぶつかり合い、華雄の首を上げるなどの戦果を次々と上げていく。
この際に董卓は孫堅を恐れ墓を暴き財宝を盗んでから洛陽を焼き払い逃げていったが、孫堅はいち早く洛陽に入り、暴かれた墓を修復した。
劉表討伐に向かっていた際、劉表の配下である黄祖の部下に射殺され死亡。享年37歳。
三国志演義における孫堅
史実と同様に海賊討伐や黄巾の乱において名を上げていた。
反董卓連合軍に参加した諸侯の一人として登場する。董卓が洛陽に火を放った際に孫堅は焼け落ちた洛陽の復興作業に着手して墓を修復していた。その時に井戸から伝国の玉璽を発見する。
後日それを知った袁紹に問いただされるも孫堅はそんなものはないと嘘を突き通したが通しきれずに不信感を煽られてしまい、孫堅は洛陽からいち早く引き上げてしまった。
それをきっかけに、反董卓連合軍は解散してしまう。
袁術の命で黄祖の守る襄陽城を攻めるが、伏兵の罠にかかり、矢を射かけられ、落石に押し潰され死亡。
人物評
正史においては「勇敢にして剛毅」、「忠義と勇壮さを備えた烈士である」と評される一方で、「行動が軽はずみで、結果を出す事を急ぐあまりに性急であった」とも評されている。
また孫堅は人柄が良かったのか、江東一帯を鎮圧していた際に色々な県の次官を勤めたが、どこでも評判は良く、役人も民衆も孫堅になついたそうだ。
演義においては、『広い額、大きな顔、虎のごとき体、熊のごとき腰』と描写され、『江東の虎』の二つ名を持つ。孫堅のビジュアルで特徴的な赤頭巾や古錠刀も、演義から来ている。
真・三國無双における孫堅
身長は182cm。年齢は38歳(4時点のデータ)で声優は徳山靖彦。
武器は、『2』~『4』まで牙剣。『5』は古錠刀。『6』は刀。
聡明な君主、勇猛な将、優しき父といった顔を持ち合わせた将。ユーザーからの愛称は『堅パパ』。孫子の末裔という点が強調されている。
前々から海賊討伐などで名を馳せており、歴戦の将も黄巾の乱以前から存在していることになっていることが殆どである。
また、無双では史実では早い段階で死亡している武将が後期まで存在することが多い。その為孫堅は度々『呉の長』という設定で存在することが多く、特に『3』や『OROCHI』、『MILTIRAID』等々では、(孫権ではなく)孫堅が呉の中心人物という扱いが明確になっている。
基本的には仲間や家族との絆を大切にし、その絆の力で『孫呉』を築き上げ中国の統一を目標にしている。
一方で『5』からは、廃れた漢室王朝を復興させる目的で武を敷く将になっている。
性格は家族思いで、君主としての器を示すかのようにおおらかであるが、武に燃える熱き魂を持った漢でもある。その為、良く突出して自ら危機に瀕する事がしばしばある。
容姿は無造作ヒゲと少し上がった口元が特徴的。
衣装は呉のイメージカラーである「赤」や「虎」をベースにした衣装が特徴。
『2』~『4』までは兜を被り鎧を着込んだ正統派の衣装をしている。『4』では孫権と孫策に合わせた虎の毛皮を腰に巻いている点も特徴的である。
『5』ではそのイメージが一転し、兜を脱ぎ、白髪をたてがみのように逆立てさせ、衣装も他の衣装が変わった呉の人たちに合わせ腕を見せたりと、全体的におおらかでどっしりとした、しかし呉の性格を現したように軽快な衣装になった。
『6』は白髪を無造作なオールバックにした髪型になった。
『MULTIRAID』で覚醒すると、炎のオーラを纏い、体毛に赤みがかかり、ヒゲと胸毛が伸び、「虎のごとき体、熊のごとき腰」の如く鎧が重装備できらびやかになる。