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馬超の編集履歴

2018-11-12 00:38:45 バージョン

馬超

ばちょう

馬超とは、中国後漢末から三国時代に活躍した武将・将軍。字は孟起(もうき)。諡(おくりな)は威侯。『三国志演義』では、その雄姿から錦馬超(きんばちょう)として称えられ、五虎大将軍の一人。

概要

馬超とは、劉備に仕えた武将。後漢の名将馬援の子孫。

父は馬騰。弟に馬休、馬鉄、従兄弟に馬岱がいる。

周大荒の小説『反三国志』では馬雲騄という妹が登場するが、これは小説オリジナルの架空の人物であり、史実にも演義にも登場しない。

妻は楊氏、側室に董氏がいる。


<正史>においては、剛力の持ち主で若い頃から勇名をはせていた。

鍾繇の要請を受け部下の龐徳と共に兵を率い、郭援・高幹・呼廚泉を討伐することとなった。鍾繇・龐徳らと共に郭援と戦い、足に矢を受け負傷したが、その足を袋に包んで尚も戦い続け戦に勝利した。


建安16年(211年)3月、曹操は鍾繇・夏侯淵らに命じて漢中の張魯を討伐しようとした。

馬超や韓遂、関中の諸将らはこの動きを見て曹操を警戒するようになる。


馬超は遠征から戻った韓遂に「鍾繇は私に韓遂殿を捕まえるよう命じました。彼らは信用できません」と言い、曹操に子を人質として差し出している韓遂が煮え切らない態度でいると、「自分は父を棄てて韓遂を父とするので、韓遂も子を棄てて自分を子と思って欲しい」と述べて反乱を持ちかけた。


なお馬超が関中軍閥連合軍の盟主となった理由には、馬超がの血を引くクウォーターで異民族からの指示が得られる事と三輔・涼州方面で影響力や人気がある存在だったために反乱の頭として担がれたとする説、隴西で生まれ育った馬騰が老後を中央で過ごそうとした点が不審であるとして馬超の挙兵に馬騰が呼応する何らかの計画があったのではないかとする説がある。



馬超は時の朝廷の権臣曹操と敵対し、韓遂らあわせて十部隊らと共に兵を挙げ、

十万の軍勢を率いて黄河、潼水の地に布陣した。

曹操もまた夏侯淵曹仁らを率いて馬超らと対峙した(潼関の戦い)。

最初こそ破竹の勢いで曹操軍を上回り、曹操をあと一歩のところまで追いつめるが、

次第と戦況は膠着し、曹操の参謀・賈詡の〈離間の計〉によって韓遂と決裂し大敗。

この結果、馬騰、馬休、馬鉄らを含む一族200人あまりが曹操に処刑されることとなった。



建安17年(212年)馬超は羌族の兵を集めて隴上で再び蜂起し、郡や県のほとんどが馬超に呼応した。馬超が冀県に軍を進めると涼州刺史の韋康は冀城に立て籠り戦う姿勢をとるが、篭城の末、助命を条件に馬超に降伏する。しかし8ヶ月もの長期にわたり敵対姿勢をとり続けた韋康を馬超が信頼するはずはなく、援軍に来ていた張魯の将軍楊昂に斬られることとなった。この時、馬超は韋康の部下であり共に戦った趙昂らに関して処分しなかった。


冀城を得た馬超は同州の他の城を味方につけるが、ここで共に冀城に入城していた妻・楊氏趙昂の妻・王異と親しくなる。王異は楊氏使って馬超が趙昂らを信頼するように謀り、馬超が気を許した所を狙って手を結んでいた楊阜姜叙が挙兵した。さらに鎮圧に向かった馬超の隙をついて趙昂・王異は尹奉らと共に城門を封鎖、馬超は帰城が叶わなくなった。これにより冀城にいた妻・楊氏を含む馬超の一族はすべて捕らえられ処刑された。

(『三国志演義』では冀城から閉め出された馬超の目の前で楊氏と三人の子供が殺され、その遺体が城外にいた馬超の前に投げ捨てられた。)



これに憤激した馬超は歴城を襲い姜叙の一族を斬って城を焼いた上で漢中へ走った。

この時姜叙の母は馬超を『父に背いた親不孝者のうえ、殿(韋康)を殺した逆賊だ。天も地もどうしてお前を許すことがあろうか。自分の罪を恥じて死にもせず、よく平気で人に顔向けできるものだ。」と罵倒した。



その後、張魯に兵を借り失地回復を試みるが、再び趙昂・王異夫婦に阻まれ三十日後には援軍の張郃が到着したことで包囲は失敗した。 涼州奪還が成らなかった馬超はやがて張魯配下の楊白にも「家族を愛せない者」と批判され、劉備のもとへ出奔することとなる。漢中にいた子の馬秋は張魯が曹操に降伏したあと殺されている。


この頃劉備は内応していた張松が劉璋に処刑された事を受けて、劉璋攻撃を決断し成都を攻めた。劉璋側には一年以上の食糧の蓄えがあり、指揮も衰えていなかったが、「西涼の馬超」が劉備に降ったと聞くと戦意を喪失。一戦も交える事なく城門を開いた。〈成都無血開城〉

この功績により劉備が漢中王になると 左将軍・仮節に昇進し、

さらにその後には驃騎将軍・涼州刺史になるが、翌年病により47歳で亡くなった。


没する間際、馬超は「臣の一門宗族二百人余りはあらかた誅殺され、ただ従弟の馬岱だけが残りました。途絶えんとしている宗家の祭祀を継承させてください。深く陛下にお託しいたし、もう申し上げることはございません」と劉備に上疏している。


乱に生き、抗い続ける人生であったが、時の一大勢力である曹操軍に対して潼関の敗戦後でも馬超が呼びかければ郡や県が呼応した事、馬超の名を聞いて成都が無血開城した事などその名の影響力は確かなもので、批判を受ける一方で将兵を惹き付けるある種の危ういカリスマがあったとも考えられている。


このような点から三国志演義においてはという魅力的な姿が形成される事となった。



<三国志演義>においては、蜀の五虎将軍の1人として数えられ、ただ猛将というだけでなく

容姿端麗な為に「西涼の錦馬超の異名を持つ。


基本は<正史>通りの活躍をしているが、曹操に対する挙兵のタイミングが異なる。

<演義>では、曹操暗殺計画に加担していた馬騰を、曹操が一族と共におびき寄せ、

謀殺される。それを受け馬騰の義兄弟だった韓遂と共に復讐戦を挑む事になっている。


張魯の傘下として葭萠関の戦いに臨んだ際、張飛と一騎打ちを行い激しく打ち合う。

その堂々たる姿を見て劉備は「錦馬超とはよく言ったものだ」と感嘆した。

その後、李恢の説得に応じて劉備陣営に加わる。


容姿については、「顔の色冠の白玉の如く、眼は流れる星の如く、

唇は紅をさしたようで虎の如き体躯猿の如き臂、腹は彪の如く腰は狼の如き」

と形容されている。

逸話


大変な猛将と知られている馬超であるが、若い頃、韓遂の部下の閻行と一騎打ちとなり、

負傷し、殺されそうになったことがある。



曹操に敗戦こそしたが、部下の楊阜が、「馬超は韓信・黥布のような武勇を持ち、

羌族に心服されているので、警戒を怠ってはなりませぬ」と進言し、曹操ももっともだと

答えたとされ、敵将からも十分な評価を得ている。



劉備は馬超の来降を聞くと、「私は益州を手に入れたぞ」と言って喜んだ。

事実馬超は劉備が益州を得ることに大きく貢献した。

『山陽公載記』では、馬超が劉備の字を呼び捨て、関羽と張飛に斬り殺されそうになったという一文があるが、裴松之は、関羽は当時荊州の守りについており益州に行った事は無い。よって馬超と関羽が共に劉備の傍にいた事実は考えられないとして、この記述の信憑性を強く否定しており「単純に考えても、いくら馬超でもそれはない」と擁護している。


羅城県青明山に伝わる話では、221年陽平関を守っていた馬超の病が悪化すると諸葛亮は馬超のために薬酒を造ったと言われている。しかし馬超の肺病が完治しないと知っていた諸葛亮は「これから百年先も付き添って欲しい」と嘆願し馬超もこれを快く受け入れ、勉県定軍山に諸葛亮の武候墓を、その近くに自分の墓も修建したとされる。

現在陕西省勉県定軍山にある武候墓の川を挟んだ反対側に武候祠(諸葛亮を祀った廟)があり、このほど近くに馬超墓がある。武候祠は中国国内に多数存在するが勉県の武候祠が中国最古のものとされている。また馬超墓から100Mという近距離に諸葛亮の墓碑がひとつある。


中国の拳法に『西涼掌(曦陽掌太平拳)』というものがあり、発祥は涼州とされいる。起源には3つの説があり、その一つが蜀漢の名将である馬超によって創られたというものである。馬超が考案し趙雲に伝授したと言われている。


登場作品

基本的には、武力はかなり強く設定されているが、劉備軍に加わるのが遅いため他の五虎大将軍たちと比べて見せ場が少ない傾向にある。


アーケード版『天地を喰らうII』

荊州~赤壁の闘い辺りが舞台なため、出番なし。代わりに魏延が五虎将軍入り。

しかもグッドエンディングだとそのまま蜀が天下統一する為ますます立場がない。


真・三國無双』シリーズ

無双4 馬超

馬超(真・三國無双)を参照


三国伝

馬超

馬超ブルーディスティニーを参照


一騎当千

馬超孟起

馬超孟起を参照


恋姫†無双』シリーズ

真・恋姫無双 「馬超」

を参照


蒼天航路

錦馬


十三支演義

声:杉田智和


関連タグ

 五虎大将軍 錦馬超 槍族 王異


作品タグ

三国志 三国無双 三國無双 無双 無双OROCHI

蒼天航路 三国志大戦 三国伝 一騎当千

恋姫無双 真・恋姫†無双

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