概要
太田プロダクション所属のピン芸人。
ちなみに、名前の読みが「ひろゆき」ではなく「ひろいき」である理由は、父親が役所に名前を提出する際に、酒に酔っていたため「ひろいき」と間違えて申請したためである。
そのため、父親は「ひろゆき」と呼んでいると有吉は語っている。
1993年、テレビ番組の企画でオール巨人に弟子入りするが他の弟子との喧嘩が原因で謹慎処分を受けた。
1994年、森脇和成とお笑いコンビ猿岩石を結成。
1996年、「進め!電波少年」のヒッチハイクの旅で話題になり大ブレイクする。
2004年3月、森脇との方向性の違いで猿岩石を解散。ピン芸人として活動を始める。
2007年ごろから、他のタレントや芸人に対しての「あだ名の命名」が注目され再びブレイクする。
芸風
猿岩石時代とピン芸人時代とで芸風ががらりと変わった芸人である。猿岩石時代は番組の企画で人気者になったため芸人としての実力が伴っておらず、人気が下火になるにつれてメディアへの露出も少なくなっていった。もちろん落ち目になってからは冷ややかな目で見られたという。
ただ芸人としての仕事は決してなかったわけではなく、地元のローカル局中国放送「KEN-JIN」にレギュラー出演していたため、露出が減ってからも広島の地元での知名度は高かった。
また、ダチョウ倶楽部の上島竜兵からかなり気に入られていたためそこから仕事がもらえたり、さらには内村プロデュースでも猫男爵として出演していた。
実を言うとこのようにどん底時代ですら必ず何らかの形で周囲の助けのおかげで完全消滅には至らず、細々と仕事は舞い込んでいた。
2004年に猿岩石が解散してからはピン芸人として活動を開始。自身が「一発屋」であることをネタにした自虐芸や裸芸・リアクション芸などで徐々に活躍の場を広げ、「アメトーーク」での企画で「一発屋芸人にならないための方法」をプレゼンした際に品川祐を「おしゃべりクソ野郎」と名付けたことで大爆笑を巻き起こしたことで毒舌芸人として新境地を開拓。
それ以降、絶妙に相手を引き立てる毒舌と、誇張を交えながら的確に相手のキャラクターを捉えたあだ名付け、不遇を託った時代に溜め込んだ毒っ気を上手く活かした泥臭いキャラクターから人気を博し、猿岩石時代以上に多忙なお笑い芸人へと返り咲いた。
このことから自分のことを「二発屋」と呼んでいる。
芸人としては独特なポジションにいる人物であり、ある意味「視聴者目線」でテレビ番組に出演している芸能人である。これは10年に渡る冬の時代、自身がテレビに出られずずっと「テレビを見る側」に甘んじていたことが大きく、共演者からは「ネット住民みたい」「話がリアルすぎて心に刺さりすぎる」と言われることもしばしば。
有吉のよく言っている地獄にしても、上述したようにどん底時代ですら芸人として続けられる程度にはそこそこ安泰な立場にいたため、大半の落ち目芸人に当てはまるであろう「全く仕事がなってそのまま消えていくしかない」意味合いとは大きく異なる。
有吉の地獄とは、むしろ意外と見落とされがちなもう一つのリスクである「落ち目になって以降の周りから冷ややかな視線を浴びせ続けられる状況」や「人脈から来る仕事のオファー特有の不安定なスケジュールからくる将来の不安」のことだと言える。
これはこれで地獄なのは言うまでもないが、これまた有吉ぐらいしか味わっていない独特の地獄だと言って良いだろう。
こういった「芸能業界の暗黙のルール」もしくは「バラエティー番組のお約束」を逆手に取った話芸から特に若い視聴者層の人気を獲得している。
情報が溢れ、インターネットの普及によってテレビの立場が微妙になってきた昨今故に頭角を現した芸能人とも言える。
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外部リンク
本人のブログ『有吉弘行の馬鹿だからブログやってます』