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マレンコフの編集履歴

2021-08-08 21:16:21 バージョン

マレンコフ

まれんこふ

ソビエト連邦の政治家。第2代ソビエト連邦閣僚会議議長

ロシア語:Георгий Максимилианович Маленков

ラテン文字表記:Georgy Maximilianovich Malenkov

(1902年1月13日 - 1988年1月14日)


概要

1902年1月13日にロシア帝国のオレンブルクで、マケドニア人移民のもとに誕生した。第2代ソビエト連邦閣僚会議議長で、閣僚会議副議長(副首相)、発電所大臣、党書記局員、党政治局員、党政治局員候補を務めた。


ヨシフ・スターリンの重要な側近であり、スターリンの死後短期間ながら暫定のソビエト連邦最高指導者を務めた。スターリンから後継者として指名されたが、フルシチョフの謀略によって失脚し、ベリヤ共々党を追放される。1919年に赤軍の政治将校になっている。その1年後には共産党に正式に加入し、赤い皇帝の腹心の1人となった。


党中央委員会書記

1930年代後半にはラヴレンチー・ベリヤとともにスターリンの大粛清に加担しその功で1939年3月に党中央委員会書記となり、1941年には政治局員候補となった、その後ベリヤとは政敵になった。


独ソ戦

1941年6月に独ソ戦が開始されると国家防衛委員会の委員となり、各戦線の戦力の組織化に尽力した。


第2次世界大戦後

1946年に党中央委員会政治局員に昇進し、1947年に閣僚会議副議長(副首相)となった。その後政敵であったアンドレイ・ジダーノフやベリヤによって追い落とされたがジダーノフの失脚によりすぐにスターリンの腹心に戻った。ベリヤはマレンコフの傘下に入り、彼らは「レニングラード事件」なるものを捏造し、ジダーノフの同調者を全て強制労働収容所に追放した。


最高建権力者

1953年3月5日のスターリンの死去により、マレンコフは『閣僚会議議長(首相)党書記局筆頭書記』となり、暫定ながら最高指導者となった。しかし集団指導体制を構想したマレンコフはすぐに筆頭書記の職をフルシチョフに譲った。副首相兼内相となったベリヤはスターリン批判を展開したが、マレンコフはそれを支持しなかった。この行動はフルシチョフにとっても承認できるものではなく、ベリヤは逮捕・処刑された。


核兵器への反対

マレンコフは閣僚会議議長の座にあった2年間に「核兵器は世界の破滅を招く」と宣言して核兵器に反対する立場を表明した。このような西側との平和共存を模索する方針は強硬派から反発を受け、1955年2月には閣僚会議議長を辞任したが、政治局には留まった。


フルシチョフの追い落とし

1957年6月にブルガーニン、モロトフ、カガノーヴィチらの「反党グループ」を主導してフルシチョフを失脚させようとした為に政治局からも辞職させられた。


その後

その後は国内を転々とし、カザフ・ソビエト社会主義共和国のウスチ・カメノゴルスクにあるダム水力発電所の指導者となった後、同じくの炭鉱都市のエキバストス(ここの政治犯特別収容所にはアレクサンドル・ソルジェニーツィンが1950年から1953年まで収容されていた。)にあるエキバストス第一発電所の所長を務めたが、1961年にエキバストス市党委員会により党籍を剥奪されて党を追放される。


党追放後はモスクワ市内のアパートで年金を受けながら余生を送り80歳を過ぎてからはモスクワのイェロホヴォ大聖堂(Elokhovo Cathedral)の教会合唱団に所属していた。


マレンコフが晩年を過ごしたアパートの隣人は、同じく反党グループとして失脚し、党籍を剥奪されて年金生活に入ったラーザリ・カガノーヴィチであった。失脚後は不遇の晩年を過ごしたマレンコフだが、生涯を通じて共産主義者ではあり続けたとされる。1988年1月14日に若き書記長のミハイル・ゴルバチョフの在任中に86歳でひっそりと亡くなる。


ちなみに

マレンコフの父はオレンブルクの裕福な農家であり、若かりし頃のマレンコフは時々父の農作物販売の仕事を手伝った。母は鍛冶屋の娘であり、正教会の司祭の孫娘だった。


関連タグ

次代☞ニキータ・フルシチョフ

マなんとかさん(ネタとしての解説)

なんとかさん

ソビエト連邦共産党 ソ連

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