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概要

独ソ戦(どくそせん)は、1941年6月から1945年5月までソ連ドイツを中心とする枢軸国が交戦した戦争。当時のドイツでは「ロシア遠征」または「東方遠征」・ソ連では「大祖国戦争」と呼ばれ、この時期に東部戦線はナチス・ドイツとその同盟国に対する戦闘では、連合国の最も重要な地上の前線だった。ナチズム共産主義という相容れない2つの思想が真っ向から衝突したこの戦争は、戦闘員・民間人合わせて数千万人単位の死者を出し、人類史上最悪の災厄と称された。


1917年11月に革命を達成したソ連は国際連盟に居ながら世界から孤立しており、ナチス政権のドイツは反共国の1国で不倶戴天の敵同士だった。1939年8月にモロトフ=リッベントロップ協定(独ソ不可侵条約)を締結した事は世界を驚愕させ、ヨーロッパを巡る混乱の中で反共包囲網による孤立と疑心暗鬼の中にいたソ連は、イギリスフランスがドイツに宥和的だった事に不信感を募らせていた。ドイツとしてはポーランドに侵攻するに当たってソ連と衝突するのは避けたかった為、両国の利害が一致した事が不可侵条約を締結する背景となった。


1939年9月にドイツがポーランドに侵攻して第2次世界大戦が開戦すると、ソ連はモロトフ=リッベントロップ協定の秘密議定書に基づいて進軍して緩衝地帯での分割を進め、このポーランド分割でドイツとソ連は国境を接する事となった。それまでソ連とドイツは友好関係にあったが、次第に悪化していった理由は両国が協定に違反して以下の行動を取った事などが上げられる。


ヒトラーにとってロシアウクライナの穀倉地帯はアーリア支配人種たるドイツ人に必要不可欠な東方生存圏であり、ソ連を打倒する事は「我が闘争」を執筆した時からの目標だった。当時ドイツと交戦していたイギリスはアメリカとソ連が参戦して来るのを当てにしていた為、ヒトラーはソ連を打倒すればイギリスが講和に応じるのでは無いかと考えた。


ヒトラーはこの侵略戦争への決意を、1940年7月31日にはOKW(国防軍最高司令部)へ明示しており、1940年12月18日には、1941年5月までに秘匿名称「バルバロッサ作戦」の名の下に軍備を整えるよう命令していた。それによって、1939年8月24日にドイツ・ソ連間で締結された不可侵条約は意識的に破棄されることが予定された。「東方生存圏」征服のため、また「ユダヤ・ボリシェヴィズム」絶滅のため、ソ連人口の大部分は駆逐、奴隷化、殺害されることが予定された。ナチ体制はソヴィエト戦争捕虜と市民の数百万の餓死を計画し、ソヴィエト士官とコミッサールは国際法に反する命令によって抹殺され、この戦争を、当時の所謂「ユダヤ人問題の解決(Endlösung der Judenfrage)」へ役立てるものとした。


1941年6月22日3時15分、ドイツ軍はソ連を奇襲攻撃した。

イギリス、フランスとの開戦は両国のポーランドとの同盟関係から結果的に始まったものだが、対ソ戦はスラヴ民族やアジア人を劣等民族と位置づけるナチスの思想上、避けられないものであった。このため独ソ戦は他の戦線と異なり、存亡を賭けた熾烈な戦いとなった。

各国から反共主義者が義勇兵としてドイツ軍に加わった。ロシア人反共産主義者も「ロシア解放軍」(「ロシア国民解放軍」と称したカミンスキー旅団、のちのSS第29武装擲弾兵師団とは別)に加わり同胞と戦った。


開戦当初、反ソ感情が強いバルト三国や、ボリシェヴィキ党による集団化や大量逮捕に苦しんできたウクライナの一部の住民は、ドイツ軍を「共産主義ロシアの圧政からの解放軍」と歓迎し、ドイツ軍に志願したり、共産主義者やユダヤ人を引き渡すなど、自ら進んでドイツの支配に協力した。

しかし、スラヴ民族の奴隷化を目論む過酷な占領政策は、親独的な地域住民を対独パルチザンに変えてしまった。パルチザン狩りにより多くの住民が虐殺された。


最初のドイツの勝利の後、1941年末のモスクワの戦い、そして何よりも1942年から1943年にかけてのスターリングラードの戦いにおけるソヴィエトの諸々の勝利が、ドイツの完全な敗北を導き出した。その後、1943年の夏にドイツの「城塞(ツィタデレ)作戦」が挫折し、主導権は赤軍へと決定的に移動した。西側の反ヒトラー連合の同盟国の間で待望された、西ヨーロッパにおける「第二戦線」の構築に続いて、1944年夏のドイツ中央軍集団が撃破された後、国防軍は軍事的に打倒され、もはや抵抗を引き延ばすことしかできなかった。


赤軍が攻勢に出ると、対独協力への報復として殺戮・略奪・追放(シベリア送り)が行われ、戦場となった東ヨーロッパは荒廃した。


太平洋戦争と違い地上戦が主な独ソ戦では、一度の会戦で数百万単位の兵や数千機の航空機、数千台の戦車、膨大な火砲が使用された。

ソ連はアメリカからレンドリースにより大量の車両や航空機、列車を供与された。


スターリンとヒトラーという独裁者が正面から衝突したこの戦いにおいて、ソ連兵866~1,128万人、ドイツ兵490~530万人が戦死・戦病死した。民間人も含め、ソ連は2,500~2,700万人、ドイツは約690~1,100万人が死亡した。

またドイツ外の枢軸国もソ連との戦闘によりルーマニア兵23~30万人、ハンガリー兵20~25万人、イタリア兵5~9万人、フィンランド兵8~10万人、その他も含め合計59~83万人の枢軸兵が戦死・戦病死した。さらに大戦末期において連合軍側についたフィンランド、ハンガリー、ルーマニア等においてはドイツとの戦闘により合計2~8万人の兵が戦死・戦病死している。


何よりもドイツ人に計画され実行され、非戦闘員も対象とした東部総合計画(ドイツ民族移住の為の現地人絶滅政策)のためナチスが定めた生存圏内の全てにおいて(ソ連西部のみならずポーランド全土やチェコ国土一部やバルト地域等も含まれる)民間人死者数が極めて多い

捕虜に対しても熾烈な運命が待っておりドイツ兵捕虜306~377万人の内100~110万人が抑留中に死亡し、ソ連兵捕虜456~559万人の内250~376万人が抑留中に死亡した。

このような絶滅戦争の間で独ソどちらにも属さず双方への抵抗や独立運動等として戦った民兵・軍人が東欧全ての合計において30万人以上死亡し、難民となり何処かへ消えた(何処かでの生存も死亡記録も無いが転出記録はある)民間人が60~90万人程度発生している。


この戦争は、その犯罪的な目標、戦争遂行、結果から、歴史家エルンスト・ノルテ氏により「近代史の知る、最悪の征服・奴隷化・絶滅戦争」と評される。


戦中独ソにおける詳しい戦争犯罪は戦争犯罪の記事を参照してください。


同盟諸国家の役割と目標

ナチ政府は、フィンランドとルーマニアをその短い、敗北に終わったソ連との紛争から、「自然な同盟者」とみなし、これらの諸国家と決して上辺だけではない戦争提携の協定を結んだ。彼らが軍の進撃を準備できるよう、計画された攻撃についてはあらかじめ通知された。

リュティ政権のフィンランドは、冬戦争で失った領土の奪還を望んでいた。フィンランドは国境線上のラドガ湖両岸を軍に開き、ドイツ軍にフィンランド北部に配備する権利を認めた。

イオン・アントネスク元帥率いるルーマニアは、ドイツの遠征の当初から、数的には最大の、また同時に恐らく関与の点で最も意識的な同盟国だった。ルーマニア指導部の明確な目標は、1940年にソ連によって併合された領土の回復で、それによってルーマニアの占領も一つの役割を演じた。外国の内閣首相としては唯一、アントネスクは1941年6月11日から12日にかけてヒトラーとの会談を持ち、差し迫る攻撃について個人的に知らされていた。ルーマニア第3軍、第4軍はルーマニアの東部国境へ、南部ソ連をドイツの第11軍とともに攻撃するため、またソヴィエトに占領されたベッサラビアを再征服するため移動した。ルーマニアの主権領土からは、ドイツの「行動部隊D」がユダヤ人絶滅を開始した。

イタリアはソ連へ、その月には2国間の外交的な歩み寄り工作をしていたにもかかわらず、1941年6月23日に宣戦を布告した。談判はドイツの介入によってたびたび妨害されており、ソ連へのドイツの攻撃はその終焉を確実なものとした。ベニート・ムッソリーニは遠征軍団を派遣した。ハンガリーはその摂政ミクローシュ・ホルティの主導で2個軍団を派遣し、その下には機械化されたものが含まれていた。独立させられたスロヴァキア共和国は「快速師団」を、後に2個守備隊師団を送った。クロアチアは次々に多くの「軍団」を派遣した。フランシスコ・フランコ下のスペインは1万5000人程度の義勇兵を東部戦線へ派遣し、彼らは国防軍の軍服に青い生地を携行し、「青師団」として国防軍の指揮下で戦闘を行った。

8個の諸国と諸地域から、1941年には全部で約4万3000人の「外国人義勇兵」が、「ボリシェヴィズムに対するヨーロッパ十字軍」と「新たな人種的秩序」を支援するべく出征した。フランス、オランダ、ベルギーで多くが集まり、スカンジナヴィア諸国からは比較的少ない義勇兵の部隊が集まった。彼らは国防軍に統合されるか、もしくは武装親衛隊の軍服を纏った。


独ソ戦の経緯

1941年

6月22日、北方・中央・南方軍集団からなる300万名あまりのドイツ軍がソ連領内へ侵攻開始。奇襲を受けた268万名からなるソ連軍はブレスト要塞などで強靭な抵抗を見せるも、殆どの戦線は突破され、空軍も初日でおよそ1200機を空襲で失い当初の制空権を喪失した。また前線のソ連軍は頑強に抵抗したものの、上層部は部隊を柔軟に後退させなかった為に各個に包囲撃滅され、更に送り込んだ増援部隊も同じ運命を辿るという後述するドイツ軍勝利の展開となった。同月25日、フィンランドが喪失した領土を奪還するべくソ連に対して宣戦布告(継続戦争)。


ドイツ中央軍集団は7月9日にミンスクを陥落させ、その折の包囲により赤軍西部正面軍に70万名の、8月5日にはスモレンスクを占領し再び赤軍西部正面軍に34万名の死傷者・捕虜の損害を与えた。


ドイツ北方軍集団も北方に進撃し、9月8日にはマンネルヘイム元帥率いるフィンランド軍と共にレニングラードの封鎖が始まった。


ドイツ南方軍集団が担当するウクライナは、赤軍が開戦前からキエフ特別軍管区とオデッサ特別軍管区に戦力を集中していたため、進撃が遅れがちだった。

ヒトラーはドイツ中央軍集団の機甲部隊を南部に向け、南方軍集団を支援させ、ウクライナに展開していた赤軍60万名を殲滅し、キエフハリコフを占領した。これにより中央軍集団のモスクワ攻略作戦(タイフーン作戦)開始は約1ヶ月遅延し10月2日になる。


ソ連は多くの工場を、ドイツ軍の手の及ばないウラルに疎開させた。一時的に生産力が低下したが、やがて安全な疎開先で大量の軍需物資が生産されることになる。


10月14日までにヴャジマブリャンスク二重包囲戦で赤軍50万人を殲滅したが、秋の長雨が到来し、ロシアの道路は泥濘と化す。10月25日のモスクワ空襲を最後にドイツ空軍は出撃不能となり、制空権はソ連に移った。

冬の到来で道路が凍結しドイツ軍の進撃は再開されるが、補給線が延び切った上、冬季装備を欠いたドイツ軍は各地で停止を余儀なくされた。モスクワまであと十数キロの地点で攻勢は頓挫した。

短期決戦の目論見は外れ、持久戦の様相を呈する。


日本で活動するリヒャルト・ゾルゲの情報により、日本が対ソ戦をする気は無い(ただし、関東軍はソ連を牽制するために軍事演習関特演を行なっていた)と知ったソ連は、10月以降、シベリアや極東の精鋭部隊をモスクワ前面に投入した。11月にはモンゴルの騎兵師団が戦線に投入されたが、戦況にほとんど影響を与えることなく壊滅した。

赤軍は12月初旬から冬季大反攻を開始し、中央軍集団をモスクワ正面から後退させた。ドイツ軍はヒトラーの死守命令によって撤退できず、ドクトリンである弾性防御を捨て、個々の集団による、寒さを凌げる集落を中心とした拠点防御により戦線崩壊を回避した。


1942年

1月18日、モスクワ前面でのドイツ軍の敗退を過大評価したスターリンは全戦線で攻勢を命じたが、兵員や補給の不足でドイツ軍を駆逐できず、イジュムバルヴェンコヴォに突出部を作るに留まり、以後クリミア以外の前線はドン川以西で膠着した。


5月12日、赤軍はハリコフを奪還するべくイジュムとバルヴェンコヴォから夏季攻勢を開始したが、ドイツ軍はこれを南側から断ち切るフレデリクス作戦を実行し、赤軍攻勢部隊は包囲されて壊滅し、南部での戦車戦力の殆どを失った。

独ソの戦力バランスが大きくドイツ軍に傾いた。


ドイツ軍の夏季攻勢は戦争経済上の理由と開戦以来無尽蔵ともいえる人員・物資を繰り出すソ連のアキレス腱を断つものとして、ソ連の石油供給の大部分を担うバクー油田獲得を目的としたものとなり、作戦名はブラウ作戦となった。

6月28日に作戦は開始され、当初は快進撃が続くが、赤軍の撤退速度は早く、前年にあったような包囲殲滅がなされることもなければ、重火器の放棄もない、赤軍の兵・装備上の損害が伴わないものであった。しかし、この兆候をヒトラーは無視し、それどころか赤軍兵力に大損害を与えたと楽観視した。

カフカスへ向かった主攻であるドイツA軍集団の補給線は延び切り、嶮しい山岳地帯と赤軍の抵抗で進撃が行き詰り、グロズヌイまで60kmの地点で燃料が尽き、11月8日にカフカス西部まで撤退した。


11月、モスクワ北西のドイツ軍ルジェフ突出部に対し攻勢作戦(火星作戦)が行われ、ゲオルギー・ジューコフ大将が指揮した。赤軍はドイツ第9軍の戦線を突破できず、33万人が戦死したが、スターリングラード方面へ予備兵力を移動させないという目的は達成された。


カフカスに侵攻するA軍集団の側面援護を任務としたB軍集団では第6軍がヴォルガ川の要衝・スターリングラードをほぼ制圧したものの第6軍も市街戦で消耗し、更に主力を市街に投じた為に手薄となった側面を突かれ、11月22日、赤軍のウラヌス作戦により33万名が二重包囲により包囲された。ヒトラーは徹底抗戦を命じ、空輸での補給や新設のエーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥のドン軍集団によるヘルマン・ホト上級大将の第4装甲軍を主力とした救出が試みられるが、予備兵力はルジェフ突出部での作戦に動員されていた。救出作戦中にウクライナとカフカスの付け根であるロストフに対してソ連軍の攻勢が開始されA軍集団が丸ごと孤立しかねない状況となり、ロストフ方面に戦力を抽出せざるを得なくなった為、救出は途中で中止された。


第6軍が包囲され、更にロストフにソ連軍が迫る状況にコーカサスのA軍集団に11月28日に撤退命令が出され、陸海と必死の撤退戦が行われた。


1943年

1月30日、ドイツ第6軍司令官のフリードリヒ・パウルス上級大将は元帥に昇進させられ、暗に自決を迫られるが、枢軸軍の生き残り約10万人と共に投降し捕虜となる。

ブラウ作戦の失敗がドイツの同盟国に与えた影響は大きかった。

1942年を通しての莫大な被害により、ドイツ軍は東部戦線の定員を充足できなくなった。以降、人的資源に余裕のないドイツは予備兵力の殆どを投入せざるを得なくなる。


3月1日、ドイツ第9軍はルジェフ突出部から撤退し、戦線を整理する。


スターリングラードのドイツ軍撃滅後、赤軍は南部で攻勢に出てハリコフ、ベルゴロドクルスクを奪還したが、補給線が延びきった後に南方軍集団の反撃を受け、雪溶けの泥濘が始まり反撃が終わるまでにはハリコフとベルゴロドが再び奪取され、崩壊寸前であったドイツ軍の戦線は安定した。その結果、中央軍集団と南方軍集団(ドン軍集団より改名)の間にクルスクの突出部が出来た。


7月4日、突出部を南北から挟撃する夏季攻勢ツィタデレ作戦が中央・南方軍集団により実施された(クルスクの戦い)。トルコが英米側に立って参戦する事を防ぐ意味合いもあったが、今やドイツ軍には突出部を切り取り包囲殲滅して敵戦力を削り、戦線を安定させる事で赤軍攻勢を防ぐというだけの戦争勝利への決定打には程遠い攻勢をする力しか残されていなかった。

英国経由でのウルトラの暗号解読によりドイツ軍の意図を知ったソ連側は相手の攻撃を受け止めて出血を強いた後に攻勢を行う事に決定。ドイツ軍の度重なる攻勢延期もあって難攻不落と化した赤軍の防御陣地を前に南方軍集団の第4装甲軍の進撃が目立った程度でドイツ軍の攻勢は頓挫し、10日にシチリア島に上陸した連合軍に対して兵力を抽出する必要もあり作戦は僅か一週間あまりで中止された。

赤軍は事前の計画どおりに7月12日にはオリョールを目指すクトゥーゾフ作戦を、8月3日にはハリコフを目指すルミャンツェフ作戦を発動し、23日にはハリコフが陥落。

ドイツ軍はドニエプル川西岸まで撤退するも9月末から10月中旬にかけて赤軍により西岸に橋頭保が確保され、11月6日にはキエフが陥落した。


1944年

1月14日、赤軍がクラスノエセロ・ロプシャ攻勢を開始し、レニングラードのドイツ軍防衛線を突破。1月18日、レニングラードが包囲から解放された。

2月15日、赤軍がナルヴァ攻勢を開始。エストニアに迫る。3月にドイツ軍の反撃で攻勢は停滞する。


4月8日からの赤軍のルーマニア侵攻戦、第一次ヤッシー=キシニョフ攻勢は失敗するが、ドイツに「赤軍の攻勢はウクライナ方面から行われる」と思わせる事ができた。


4月10日、赤軍は腐海ペレコプ地峡を渡り、ドイツ第17軍をセヴァストポリ要塞へ押し込む。

5月9日、セヴァストポリ要塞が陥落。第17軍は65,100名を失い、海路でクリミアを撤退した。


赤軍の春季攻勢によるドイツ南方軍集団と北方軍集団の後退で、中央軍集団がベラルーシに突出する形となった。

6月6日、連合軍によるノルマンディー上陸作戦。ドイツ軍は二正面作戦を強いられる。


6月22日、赤軍はドイツ中央軍集団撃滅を目指す夏季攻勢、バグラチオン作戦を発動。

ドイツ軍は赤軍が突出部を南(ウクライナ)から切断してくると予想していたが、赤軍は戦線正面に120kmにわたる破滅的な突破口を開け、平押しに押し潰してきた。中央軍集団は38個師団のうち28個師団を失い壊滅し、赤軍は7月30日、ワルシャワ東方10kmまで達したところで補給の限界に達し、停止した。これにより独ソ戦の趨勢は決した。


8月1日、ワルシャワにてポーランド国内軍がドイツ軍に対して蜂起するも赤軍は動かず、10月2日に壊滅状態となったポーランド国内軍は降伏する。


8月20日からの第二次ヤッシー=キシニョフ攻勢が成功。ルーマニアは政変により枢軸側から脱落した。


9月9日にブルガリアが枢軸側から脱落した。

赤軍はハンガリー国境の要衝ズクラ峠を突破。


9月12日にはフィンランドがソ連と停戦し、実質的に枢軸側から脱落。同月15日、ドイツとフィンランドの戦争が勃発(ラップランド戦争)。


10月9日、赤軍がメーメルのドイツ軍を撃破してバルト海に至り、ドイツ北方軍集団の将兵20万人がクールラントに孤立した(クールラント・ポケット)。


10月16日、ハンガリー降伏阻止のため、ドイツは摂政ホルティ・ミクローシュを退位させ、ファシズム政党矢十字党(党首はサーラシ・フェレンツ)による傀儡政権を立てた(パンツァーファウスト作戦)。

10月29日、赤軍のハンガリーでの攻勢が開始され、プリーエフ集団を包囲殲滅した東部戦線最後の勝利をドイツ軍は得るも大局には影響なく、12月26日に首都ブダペストは包囲される。

その後の三次に渡るブダペスト救出作戦(コンラート作戦)も失敗に終わる。


1945年

1月12日、ヴィスワ河の橋頭保から赤軍の大攻勢が行われ、17日にはワルシャワを占領し、2月2日の作戦終了までにはオーデル河を越えた橋頭保を確保しベルリンまで目前に迫った。

1月から3月にかけてプロイセン、ポンメルンでも開始された赤軍攻勢により、赤軍のベルリン攻撃における側面の脅威は取り除かれる事となった。


2月13日、ブダペストが陥落し、ハンガリーのほぼ全土が赤軍の支配下となった。

ドイツ軍は3月6日から貴重な装甲兵力である第6SS装甲軍を主力とした南方軍集団によるハンガリーの油田奪回を目指した春の目覚め作戦を開始するが、バラトン湖周辺の泥濘や事前に察知されての入念な防御陣地を前に失敗し、逆に16日からの赤軍のウィーン攻勢でオーストリアへ敗走する。


4月16日、200万を超す赤軍のうち、第1白ロシア方面軍、第1ウクライナ方面軍によりベルリン総攻撃が開始される。

ヴァイクセル軍集団の第9軍はゼーロウ高地で一時的に第1白ロシア方面軍を喰いとめるが、19日には戦線を突破され、20日には第2白ロシア方面軍も第3装甲軍に攻勢を開始し、第1ウクライナ方面軍も初日から突破に成功して快調にベルリンを目指していた。

4月24日にはベルリンの包囲が完成し、30日にはヒトラーが自殺。

5月2日、ベルリンは陥落した。

カール・デーニッツ元帥のフレンスブルク政府は降伏を決断し、全権委任したアルフレート・ヨードルランス(フランス)の連合軍最高司令官ドワイト・アイゼンハワーの司令部に派遣される。

5月7日、発効を5月9日零時として降伏文書の調印が行われた。


5月8日午後11時からベルリン市内のカールスホルストで降伏文書の批准式が行われ、連合軍代表ゲオルギー・ジューコフ元帥とアーサー・テッダー元帥、ドイツ国防軍代表ヴィルヘルム・カイテル陸軍元帥が降伏文書に批准した(調印時間はベルリン時間で5月9日0時15分、ロンドン時間で5月8日23時15分、モスクワ時間で5月9日2時15分)。


ドイツ中央軍集団の残存兵は降伏文書批准後もプラハで抵抗を続け、5月11日、赤軍とアメリカ軍に包囲され撃破された。独ソ戦すべての戦闘が終結した。


pixivでは

戦闘機や兵器の絵が主流だが、場外乱闘閣下これくしょん)している絵も。


参考動画

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