ドイツ(ドイツ連邦共和国)の首都。人口約340万人。漢字表記は「伯林」。かつてはプロイセン(プロシア)王国やドイツ帝国の首都でもあった。
歴史
現代のベルリンの街の始まりは、13世紀シュプレー川の中洲にケルンという街が作られ、続いて東岸にベルリンという街が建設される。ケルンは現在のフンボルトフォーラム周辺、旧ベルリンは赤の市庁舎周辺にあたる。双子の河岸都市は交通の要所として当地のブランデンブルク辺境伯に保護され、商業都市として栄えた。やがて辺境伯位を得たホーエンツォレルン家によって宮殿がケルンに移り辺境伯領の都ともなった。
市街地はさらに発展し、シュプレー川西岸に広がってフリードリヒスウェルダーという都市になる。その西にも二つの都市が形成された。18世紀のホーエンツォレルン家はプロイセン国王となり、当時のフリードリヒ1世によって5つの都市が統合され、現在のベルリンになった。プロイセンの軍国主義に影響されて軍人人口が多い軍事都市の側面を強める。19世紀にはナポレオンの征服から復興する中で工業の中心としても重んじられ、ついにはドイツ帝国の帝都となった。都市から宮廷が西側郊外に出て離宮群に向かう際に用いた正門格のブランデンブルク門はナポレオン戦争の勝利を祝う軍事的シンボルにもなり、ベルリンの象徴となった。
第二次世界大戦後、連合国4カ国に分割占領されそのまま冷戦に突入したことから東西ベルリンに分断されることになった。ソ連占領地=「東ベルリン」は東ドイツ(ドイツ民主共和国)の首都となった。一方、米英仏3カ国の占領地は「西ベルリン」となり、事実上の西ドイツの飛び地であった。なお、形式上は西ベルリンは米英仏三カ国共同占領地とされており、西ドイツの領土であるとはみなされておらず、西ベルリン市民は西ドイツ国民と扱いに差があった。いっぽう、ソ連占領地であった東ベルリンは東ドイツの首都とされていたことからもわかるとおり、形式的にも東ドイツの領土であるとされていた。
ソ連は東ドイツに自国に依存した全体主義政権を成立させ、ソ連によるあるいは東ドイツ政府による自由化弾圧が繰り返された。これに不満を持つ人々は、東西の往来が自由であった東ベルリンを経由して西ベルリン、さらに西ドイツに脱出を図り、東ドイツは人材流出に悩まされる。ついに1961年、東ドイツ政府は西ベルリンに入る境界の外側にベルリンの壁を構築した。ブランデンブルク門は帝国議会議事堂と共に真ん前を壁が封鎖する無残な状態と化した。ベルリンの壁は警備隊に厳重に守られ、何とか西ベルリンに脱出しようとした市民には多数の犠牲者が出た。
1989年11月9日、民主化デモに直面した東ドイツ政府が出国の原則自由化を発表したことからベルリンの壁は事実上崩壊。翌11月10日未明には殺到した市民らによって壁の破壊が始まり、この光景は東欧革命の象徴ともなった。1990年10月3日には東西ドイツの再統一が達成された。統一ドイツの首都を何処にするかは長く論争になったが、1991年に西ドイツのボンからベルリンへの遷都が決まった。ブランデンブルク門も再びベルリンの象徴として修復され、同じく修復された帝国議会議事堂(連邦議会議事堂)と共に観光名所になっている。
交通
尚、ベルリンは大都市の割に鉄道やバス等の公共交通機関の分担率が低く、マイカーや自転車の分担率が高いのが特徴となっている。
鉄道の分担率が低い要因としてはベルリン地下鉄(1日平均約130万人)が信用乗車方式を採用し、この制度が問題化している事が挙げられる。
尚、信用乗車方式が主流(英国は例外)とされている欧州でも、ドイツ以外の都市近郊では改札方式が主流になっている。
経済
ドイツで最大の人口を持つ首都ではあるが、西側資本の企業は東西に分断されていたベルリンを避け、他都市に拠点を置いてきた歴史がある。そのためベルリンは今日でもロンドンやパリのような華やかな大都会にならず、金融はフランクフルト、物流はハンブルク、工業はルール地域やミュンヘンに分散している。そしてベルリン経済の主軸は、政治関連や文化、観光に置かれている。
観光
プロイセン王国、ドイツ帝国以来の首都として、冷戦の最前線として、様々な文化遺産が残された街である。
ブランデンブルク門
ベルリン中心街を東西に走るメインストリート、ウンター・デン・リンデンの西端にある。
言わずと知れたベルリンのシンボルにしてドイツ統一の象徴である。古典主義様式、1791年完成。門の上には4頭立ての馬車に乗った勝利の女神像が飾られている。この像はプロイセンを破ったナポレオンがパリに持ち去った事があり、後にナポレオンを破って奪還している。
ドイツ連邦議会議事堂(帝国議会議事堂)
ブランデンブルク門のすぐ北側、広大なティアガルデンという公園に面する。
帝政期、ワイマール共和国と議会議事堂に用いられた。1933年に謎の出火事件で炎上し、ヒトラーが独裁者となるきっかけになった場所である。統一後に修復されて再び議会議事堂となり、巨大なガラスドームの斬新なデザインで観光地にもなっている。
ベルリンの壁
かつて東西ベルリンを分断していた壁は大部分が解体されたが、シュプレー川の東岸に約1kmほどが残っている。
この部分は「イーストサイドギャラリー」と呼ばれて、ドイツ内外の多数の画家が描いた壁画で飾られている。特に、ソ連の独裁者ブレジネフと東ドイツの独裁者ホーネッカーがキスしている壁画前は記念写真スポットとして人気。
カイザー・ヴィルヘルム記念教会
西ベルリンの中心街であったクーダムという繁華街の中央にある。
初代ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世の為に死後建てられたネオロマネスク様式の教会であったが、第二次世界大戦の空襲で破壊され、戦争の悲惨さを伝える記念碑として当時の姿で保存されている。隣に深い青のステンドグラスが輝く斬新な作りの新教会も併設されて対比が鮮やか。
フィルハーモニー
ベルリンの新都心として知られるポツダム広場にある。
1963年に建設された、世界最高のオーケストラの一つ「ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団」の本拠地。まるでテントのような外観をしており、長年常任指揮者として君臨したヘルベルト・フォン・カラヤンの名を借りて「カラヤン・サーカス」とも呼ぶ。
サンスーシ宮殿
正確にはベルリン市の外、ポツダム市にある。
1747年にプロイセン王フリードリヒ2世の命で完成。ロココ様式、庭園と調和した美観や華麗な室内装飾で知られる。サンスーシとは「憂いの無い」という意味で、日本語では「無憂宮」とも意訳される。王に深く愛され、その生涯の大部分を愛犬と共にこの地で送ったという。
関連タグ
ボン:西ドイツの首都であり、東西ドイツ統一後も隣国ベルギーの首都ブリュッセル(欧州連合本部所在地)に近い位置にあるという事から一部の首都機能がこちらに置かれている。