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金上盛備の編集履歴

2022-02-24 21:42:50 バージョン

金上盛備

かながみもりはる

金上盛備とは、蘆名家5代に使えた戦国武将の1人。優れた政治手腕から『蘆名の執権』と称された。 1527~1589

概要

金上盛備は1527年に蘆名家の重臣として生まれる。内政・外交・軍事のどの面に置いても優れており、当主の名代として活躍することも多かった。


1580年に蘆名盛氏が亡くなると跡を継いだ盛隆の官位任官の為に盛備が上洛し、織田信長に謁見した際には、信長から盛備のことを直接評価され、信長は盛備に盛隆より高い官位を正式に与えている。その待遇は、信長が亡き後の豊臣秀吉ですら盛備のことを無下には扱わなかったという。


しかし、蘆名家では若くして当主が相次いで亡くなり、盛備らは佐竹家から養子を迎えることを主張したが、猪苗代盛国ら1部の重臣は伊達家から養子を迎えるべきと対立し、策謀より伊達派の重臣を失脚させて佐竹義広を当主とするも家中を上手くまとめることは出来なかった。


伊達政宗は南下を続け、盛国ら伊達派の蘆名家重臣に接触し、調略を仕掛け蘆名家を追い詰めていく。そして、1589年摺上原の戦いにて激突し、蘆名軍は前半は善戦こそするも伊達軍に敗れて、盛備も討死した。享年63。

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