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小堀遠州の編集履歴

2023-04-12 13:20:00 バージョン

小堀遠州

こぼりえんしゅう

「小堀遠州」とは、江戸時代前期で活躍した茶人・大名。

概要

1579(天正7)年~1647(正保4)年。

近江国小堀村(滋賀県長浜市南郷里地域)生まれ。


もと備中松山藩(岡山県高梁市)の藩主だったが役職替えと転封により最終的には一族の本貫であった近江小室藩(滋賀県長浜市)の藩主となった。江戸初期を代表する高名な茶人のひとりであり、また築庭の名手として知られる。


幼名は小堀作助、元服後は小堀正一あるいは小堀政一と改めている。


幼少の頃から父小堀正次(浅井家→豊臣秀長家老→豊臣秀吉直参→徳川家康膝下)の英才教育を受けており、秀長・秀吉の時代に千利休古田織部と続いた茶道の本流を受け継いで、徳川将軍家の茶道指南役となっている。


1600年、父の正次が関ヶ原の戦いの武功により、備中松山藩を与えられた事で、これに従う。ここでは備中松山城の整備や松山藩尾根小屋(藩主が常駐する藩の政務出張所)の設立、頼久寺庭園の築庭などを行った。1604年に父が死去し、その家督と所領を継ぐ。

1608(慶長13)年には駿府城作事奉行を務め、その功により諸太夫従五位下遠江守に叙せられ、これにより小堀遠州と呼ばれようになった。

1617年に河内国の奉行となり大坂(大阪)天満の役邸へ移る(備中松山藩主の後任は池田長幸)。1619年に近江小室藩に移封される事となった。1624年には伏見奉行に任じられる。


生涯に400回あまりの茶会を開いて、王朝文化の理念と茶道を結びつけた「綺麗さび」という幽玄・有心の茶道を創り上げ、日本の美の系譜を再構築して新たな平和な時代へ向けて基礎を築いた。



関連イラスト

【俺得】近江武将詰め合わせ掃部、遠州に庭を頼む図


関連タグ

小堀政一(表記揺れ) 綺麗さび 茶道 茶人 遠州


外部リンク

小堀政一 - Wikipedia

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