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松平光長の編集履歴

2024-05-02 07:56:59 バージョン

松平光長

まつだいらみつなが

松平光長とは江戸時代前期の大名。

生没年 1616(元和元)年~1707(宝永4)年

官位 従三位 右近衛権中将

越前松平家2代当主・忠直の長男。母は2代将軍・徳川秀忠の娘・勝姫

経歴

1623(元和9)年、忠直が乱行の繰り返しにより隠居と豊後への配流処分となり、代わって越後高田25万石を治めていた忠直の異母弟・忠昌が福井藩主に、光長は忠昌に代わって高田藩主となった。ただし元々宗家筋だったこともあって、忠昌の死後に後を継いだ光通の正室に娘の国姫を嫁がせ、国姫が男子を産めないことを苦に自殺した後は光通の庶子である直堅の命を狙い、高田家からの介入で精神に変調をきたした光通が自殺するなどなどやりたい放題したため幕府の印象は悪かったという。

越後騒動

1674(延宝2)年、嫡男の綱賢が若死にしほかに男子がいなかったため後継者がいなくなってしまった。

そこで後継ぎとして忠直の次男・長見永頼の子・万福丸を養嗣子とすることになり綱国と名を改めた。

しかし養子候補を選ぶ際に筆頭家老の小栗正矩派と次席家老の荻田本繁派の対立が表面化し、光長の要請により幕府大老酒井忠清から和解するよう申し渡されるも収まらず、1679(延宝7)年に荻田派の永見長良(忠直の三男)と本繁の一族がそれぞれ長州藩出雲松江藩に預けられ、小栗派にはお咎めなしとされた。

この不公平な処分に不満を持った藩士200人が脱藩する騒ぎとなり、翌8年に4代将軍・徳川家綱が亡くなり綱吉が継ぐと再審が行われることになった。1681(延宝9)年、綱吉・御三家・綱吉の甥である甲府徳川家当主・綱豊や幕閣の前で長良・正矩・本繁の吟味が行われ、その結果

  • 小栗正矩と嫡男の大六は切腹
  • 永見長良と荻田本繁は八丈島へ流刑(2人とも1701(元禄14)年に死亡)
  • 高田藩は改易。光長は伊予松山藩へ、綱国は備後福山藩へ預かり

という処分となった。さらに前回の処分に関わった播磨姫路藩主松平直矩(忠直の異母弟・直基の長男)は豊後日田へ15万石から7万石へ減転封、出雲広瀬藩主・松平近栄(忠直の異母弟・直政の次男)は3万石から1万5千石へ減封の処分を受けた。

1687(貞享4)年、赦免と新たに合力米3万俵が与えられた。1693(元禄6)年に綱国が廃嫡され新たに直矩の三男・長矩(後の宣富)が養嗣子に迎えられた。

1697(元禄10)年に隠居し、翌11年に長矩が美作津山10万石を与えられ再興されることになった(津山松平家)

外部リンク

松平光長 - Wikipedia

関連タグ

大名 江戸時代 越後(津山)松平家 越前松平家 高田藩

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