概要
越前北ノ庄(福井)藩二代目藩主松平忠直の子で結城秀康の孫に当たる。母は勝姫(徳川秀忠の娘)であるため秀忠の外孫でもある。越後高田藩主。
経歴
大坂夏の陣で豊臣秀頼と淀殿が自刃して豊臣家が滅亡した元和元年(1615年)に誕生。幼名は仙千代。元和9年(1623年)、父・忠直が豊後に配流になったため北ノ庄藩主の後継候補となる。しかし、翌寛永元年(1624年)、幕府の裁定により叔父の松平忠昌と領地交換して高田藩に転封となる。光長は母と共に江戸屋敷に移動し家老の小栗正高と荻田隼人が越後に向かった。寛永11年(1634年)に高田へ入部して藩政を行い、延宝2年(1674年)に家老小栗正高と美作親子によって中江用水の開発が行われた。延宝7年(1679年)に後継者問題が起きるが甥の綱国を後継者にするが家臣達の対立を招き最終的に将軍徳川綱吉によって親裁が行われ改易処分となり伊予国松山に流された、貞享4年(1687年)に赦免、元禄6年(1693年)に叔父・松平直基の孫である矩栄(のち宣富)を養子として迎え隠居した。将軍が徳川家宣の時代の宝永4年(1707年)に没した。