この城は越前国福井に存在した平城の城郭である。
この城は柴田勝家により作られ、7層あるいは9層の天守を持ち、屋根には凍結による破損を防ぐため瓦ではなく足羽山で採掘され、加工しやすい笏谷石が使用されていたとされるが、落城の際建物がすべて焼け落ちている。また、結城秀康の時代には同一の場所であるかは不明であるものの4重5階の天守が建てられたものの、これは寛文9年火災で失われ、以後天守閣は再建されなかった。
この城は松平忠昌(結城秀康の次男、松平姓を名乗ることを許された為苗字が異なる)により福居城とされ、のちに福井城とされた。
この城は度重なる改修のため遺構が地中に存在するものしかなく、現在周辺は市役所などが存在し都市化しているため確認は困難である。
なお、ゲーム等で擬人化されたキャラクターに関しては北ノ庄城(御城プロジェクト)を参照されたし。
史実的概要
この地に戦国時代以前に城や拠点があったかどうかは確認されていない。朝倉義景とその後の一向一揆征伐後にこの地を与えられた柴田勝家によって天正3年、築城され、以降は勝家の北陸での戦闘における拠点として活用された。
またこの城には石垣がふんだんに使われており、立派な櫓や屋敷が立ち並んでいたという。 天守台には9層の天守閣が建てられ、その威容は主君織田信長の安土城にも匹敵すると言われていた。城下町は安土城城下町の2倍の規模であったとされ、大いに栄えていたという。
天正3年、勝家は羽柴秀吉との決戦・賤ヶ岳の戦いで敗北、この城の天守閣に追い詰められた。落城前夜に勝家は家族と残った部下達と宴を行い、当日に浅井三姉妹を逃がし妻・お市を介錯した後に天守閣最上階に登り、秀吉軍の眼前で作法通りの切腹をして果てたという。城は落城し、立派な天守閣も焼け落ちてしまった。
この城は暫くの廃城期間を経て秀吉方の武将である青木一矩(豊臣秀吉の親戚にあたる人物といわれるが、来歴の謎が多い人物、なお、関ヶ原の戦いにて孫が戦死して断絶したものの、子孫自体は存在する)の居城となり再建。
後に一矩が関ヶ原の戦いで西軍側に付き降伏・改易され、徳川家康の次男である結城秀康が入封される。秀康は本城を大規模に増改築し居城とした。城は後年に福井城と名を改められた。
一般的には安土桃山時代の、特に勝家の城を北庄城とし、秀康以降の城は福井城として呼び分けている。正確には秀康時代にはまだ北ノ庄城名義である。
その後三代目藩主により、ほかに説はあるが、この城の「北」の字が「敗北」にあたり不吉とされ「北ノ庄」から「福居」に改名された。さらに後に「福井」と改名された。
寛文9年に火災で天守閣等が焼失、天守閣は再建されず、櫓の一つ(本丸南西隅の2重巽櫓)を再建する際に天守機能を持たせたとされる。
廃城令においては存続となったものの、天守櫓などの重要な建物等は陸軍の管轄となり、取り除かれたのではないかと推測される。
その他の場所はその後城主であった松平氏一族に払い下げられ、明治中期に農業試験場として利用されたりしている。なお、第二次世界大戦の空襲により一帯が焼け野原となっている。
現状
現在北庄城の存在したとされる範囲は市街地化が激しく、福井城本丸部分の遺構や福井県庁、県会議事堂、県警察本部などが存在する。
この城および後継である福井城は幾たびに渡り増改築が行われたため勝家時代の城の遺構は一切残っておらず、せいぜい発掘調査で出土した石垣の遺構があるのみ。
また、一部は公園として整備されており、北ノ庄城址公園にはこの地域に北ノ庄城の天守閣があったといわれている柴田神社が建てられており、勝家とお市の方が祀られており、北ノ庄城天守閣の復元模型も存在している。
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タグとしてはブラウザゲーム、御城プロジェクトにて擬人化されたキャラクター、北ノ庄城(御城プロジェクト)が描かれている。
関連タグ
戦国BASARA 御城プロジェクト(北ノ庄城(御城プロジェクト))