ナチスの終焉
1945年5月8日、ナチスドイツ降伏。
ベルリンは赤軍に占領され、逃れた市民はかすかな希望にすがって必死の脱出行に身を投じた。
(ハルベの戦い)
国防軍は最後の義務を果たし、親衛隊は降伏も許されないままに最期を遂げる。
そんな壮絶な戦いの果てだったにも関わらず、
アメリカもソビエトも次なる戦争への備えを欠かすことは出来なかった。
1945年8月6日、人類で初めて核兵器が実戦投入された。
その威力はそれまでの常識を一新してしまった。
それまで100機の爆撃機の仕事を、たった1発で済ましてしまうようになったからだ。
戦勝国の首脳は『新しい戦争の到来』を感じずにはいられなかった。
ジェット戦闘機、後退翼、そして核兵器。
最初は重要性が高いと見做されてはいなかったが、ほどなく世界は気づく事になる。
『核兵器で敵の首都を攻撃すれば、戦争はすぐに終わるのではないか』
という想定に。
(F-105がまさにそんな想定)
こうして戦勝国の中でも一大勢力を築いたアメリカとソビエトは、
お互いの軍事力を警戒して軍備を整えていく事になる。
ペーパー・クリップ作戦
さて、軍事力では及ばなかったものの、技術力ではかつての連合国に決して負けてはいなかったドイツである。
アメリカではその頭脳を求めて、優れた科学者を囲い込む『ペーパー・クリップ作戦』を行った。
この作戦はドイツの技術者をリストアップし、ソビエトの手に渡さない事が目的である。
航空技術や兵器開発、そしてロケット技術の専門家が次々とアメリカへと渡っていった。
こうして渡った科学者の中には『アレクサンダー・リピッシュ博士』もおり、
コンソリデーテッド・ヴァルティ航空機社(略してコンベア社)に就職を決めるのである。
オーバーキャスト作戦
ペーパー・クリップ作戦の中でも、特にロケット技術者の獲得を目指したもの。
本来の目的はこちらの方だった。
もちろん「ヴェルナー・フォン・ブラウン博士」の身柄確保が筆頭になっており、
彼はロケット開発競争で最前線を張る事になる。
XF-92の開発
1945年9月、アメリカ陸軍は
・最高時速1126km/h(マッハ約0.91)
・高度50000ft(約15000m)までの上昇は4分以内
というMX-813戦闘機(迎撃機)の開発をコンベア社に命じる。
だが開発は難航し、一時はとん挫しかけてしまう。
そこで1946年7月、ドイツよりアレクサンダー・リピッシュ博士が渡米し、
(もちろんペーパー・クリップ作戦による)
彼を技術顧問に据えて計画は再始動することになった。
リピッシュ博士は自身が設計した「P.13aグライダー」を基にMX-813を再設計し、
XF-92(当時はXP-92)計画は軍の承認を得て正式に始まることになった。
1947年、試作1号機が完成。
だがエンジンのパワー不足が予想された為、初飛行を取りやめて換装作業にとりかかる。
1948年9月18日、パワーアップしたXF-92Aはミューロック乾湖で初飛行を記録する。
だが肝心の性能はさっぱりで、難産だった割には全くの期待外れになってしまう。
エンジンの出力も足りなかったので音速を超えられなかったのである。
(降下中なら1回だけ音速突破)
こうして最初から戦闘機として期待されたXF-92はモノにならず、
たった1機の製作のみで幕を閉じた。
だが、XF-92はコンベア社のデルタ翼研究には大きな役割を果たし、
ひいてはアメリカの技術向上の一歩となった。
(負け惜しみにも聞こえるが)
デルタ・ダガー
こうして『壮大なスカ』となってしまったXF-92だったが、ほどなく発展も続いて行った。
初飛行の翌年、アメリカ空軍はソビエトの核爆撃機を要撃すべく、新たなる迎撃戦闘機の開発に着手する。
1950年、この計画は「MX1154計画」として、国内各社に開発プランを提出させた。
この中でコンベア社の計画が採用され、F-102「デルタダガー」として採用される事になるのである。
これは不採用となったXF-92の欠点を踏まえてエンジンを換装した改良型で、高性能が期待された。
だが、それから先がまた困難だった。
当時、航空機開発分野では毎年のように飛躍的発展を遂げていた。
そこで試作と生産を同時に進めていく『クック・クレイギー方式』が良いという事になった。
これは飛行テストを重ね、改良すると同時に生産ラインにもそれを適用するという、生産と開発を同時に進めていく方法である。
当然、開発から生産までを極端に短くできるという利点があるが、
F-102の場合は全くの裏目に出てしまった。
エリアルールの導入
F-102には試作機(原型機)が存在せず、いきなり先行生産型が登場している。
生産1号機(YF-102)は1953年10月24日に完成した。
この1号機は程なく墜落してしまい、2号機が完成するまで計画は遅れる事になった。
YF-102は合計10機製造され、手分けしてテストが行われている。
だから、大きな問題点が明らかになるのも早かった。
『音速を超えられない』
それがYF-102の問題点だった。
音速周辺の速度(遷音速)において、YF-102の機体では空気抵抗が大きくなりすぎる。
発生した超音速の衝撃波が空気抵抗となり、機体のスピードを殺してしまうのだ。
この問題のために一時は計画中止も危ぶまれており、問題解決は急務となった。
問題解決のヒントはNACA(のちのNASA)からもたらされた。
詳しい説明は割愛するが、主翼前縁で発生した衝撃波が大きな空気抵抗となるため、その分後ろの胴体を「くびれ」させて衝撃波をなだらかに逃がそうという訳である。
この理論は『エリアルール』と呼ばれ、以降の超音速機には常識となった。
この適用によってYF-102はYF-102Aへと発展し、ようやく音速を突破できるようになるのである。
だが、ここに来て足を引っ張る邪魔者がいた。『クック・クレイギー方式』である。
前述のとおり、この方式は生産と開発を同時に進めていく方法である。
従って開発段階で大きな変更点があった場合、生産の準備はすべて無駄になってしまう。
F-102の場合、エリアルールの導入がこれにあたった。
つまり用意していた生産設備(治具)や部品など、全てムダになってしまったのである。
これにより生産計画はすべて「一からやり直し」となり、
莫大な資金と時間のムダを招いてしまったのである。
1954年12月20日、YF-102A初飛行。
同12月21日、YF-102Aが音速を突破。
だが、既にマッハ2を目指したF-104が初飛行しており、
迎撃戦闘機としては全くの期待はずれとなってしまう事になってしまうのである。
急がされて未完成
だが、失敗作とはならなかった。
兎にも角にも完成は急がれていて、とりあえず出来上がった分だけでも形にする事になった。
1955年、F-102A配備開始。
開発の遅れていた火器管制装置(MX1179)はF-86DのE-9を流用する事で間に合わせ、
エンジンもYF-102Aと同じJ-75系を搭載した。
見た目は全体的に洗練が足りず、F-106に比べるとどこか野暮ったい印象がある。
武装でもAIM-4とロケット弾を両方装備するなど、中途半端で煮え切っていない。
完成形はF-106(開発当初は「F-102B」と呼ばれた)となり、
名称変更にはこれまでに散々予算を投入させた『ツケ』さえ感じられる。
F-106に至るまでの過程をおさらいしてみよう。
XF-92:開発に手間取った割には性能が低く、不採用。
F-102:開発と生産を同時に進めて期間短縮を狙ったが、土壇場で設計が変更されてほぼムダに。
予算も超過ギリギリで、しかも未完成品。
F-106:ようやく完成をみたが、高価な上に火器管制装置が複雑で、稼働率は悪かった。
コンベアのデルタ翼機は、このように多くの失敗を重ねたのである。
この経験は現在ロッキード・マーチンに引き継がれ、多くの軍用機に生かされている。