ピクシブ百科事典は2023年6月13日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

ロベルト・バッジョ

いたりあさっかーかいゆいいつむににしてえいえんののしほう

ロベルト・バッジョ(バッジオ、バッジォとも。Roberto Baggio)とはイタリアサッカー界における伝説にして至宝。

PKを外すことが出来るのは、PKを蹴る勇気のある者だけだ


来歴

1967年2月18日、イタリアのヴェネト州ヴィチェンツァ県カルドーニョ出身。

1981年に(当時)セリエC1だったヴィチェンツァにてキャリアをスタート。

イタリアサッカーにおける絶対的な象徴でありながらも、一つのクラブに長く在籍した事は無く最長でもフィオレンティーナ時代とユベントス時代の5シーズン。

その繊細かつ独創的なプレーから、イタリアのメディアが彼の事をファンタジスタと呼んだことを切っ掛けに、バッジョのように独創的なプレーから試合の流れをひっくり返しかねないファンタジックな選手をファンタジスタと呼称されるようになった。

アイドル的存在であったバッジョのフィオレンテーナからユベントスへの移籍は、フィオレンティーナのサポーターが暴動を起こしたほど。

1994年に82年以来のFIFAワールドカップ戴冠に挑んだものの、ブラジル相手にPK戦までもつれ込む死闘の果てに、最後のキッカーとして登場。

結果外してしまいブラジルに4度目の優勝を許し、イタリアメディアから今でいう炎上レベルで酷評を受ける。


1995-96シーズン、ACミランに移籍するものの当時の監督だったアリゴ・サッキとの確執から97-98シーズン、中堅クラブのボローニャFCに移籍。誰もが「都落ち」「これであいつは終わった」と引退まで予想したが、戦術サッカーや優勝争いのプレッシャーから解放されたバッジョは自己最多となる22ゴールをマーク、得点ランキング3位につけ98年フランスワールドカップのイタリア代表に23人目のメンバーとして招集される。

ベスト8でのフランスとの対決は94年のブラジル戦のようにPK戦まで突入。1人目のキッカーだったバッジョは成功させるが、5人目のディビアッジョが外してしまいイタリアは敗退する。

泣き崩れたまま立ちあがれないディビアッジョの心情を誰よりも理解するバッジョが発したのが最上部に記した「PKを外すことが出来るのは、PKを蹴る勇気のある者だけだ」だった。

関連記事

親記事

ファンタジスタ ふぁんたじすた

兄弟記事

pixivに投稿されたイラスト pixivでイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 414

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました